そのことに気づいたのは、三週間ほど前だった。
気づいたというのもいささかニュアンスが異なるような気がする。
どちらかというと、
――なんとなくそういう気がした。
の方がまだ正しいような……。
もちろん、最初は、馬鹿馬鹿しい妄想だと思った。
日常的に起こる、いわゆる既視感、デジャヴュというやつだ。初めての場所なのに、以前訪れたことがあるように感ずるとか、驚くような体験をした直後に、こういう体験をすると知っていたような錯覚に見舞われるとか、初対面の人を見て、この人とどこかで会ったことがあるように思うとか、そういうたぐいのよくよくある感覚の一つだと考えた。
ただ、その感覚は、普通の既視感とはほんの少しだけ違っていた。
四月二十六日金曜日。部の懇親会の席でそれは起きた。
そうだ。
「気づいた」とか「そういう気がした」というよりも、まさしく何かが「起きた」という印象だった。物事が生起したというのではなく、文字通り、いままで遼平の意識の中で眠りつづけていた何か(それはある種の記憶のようなもの)が、ふいに目を覚ました――そんな感じだった。
八馬建設東京本社営業部の宴会は、駿河台にある「レストラン京極」で必ず開かれることになっている。この日のような部長肝煎りの懇親会に限らず、歓送迎会、忘年会、新年会その他もろもろ、小田営業部長が主催するときの会場はいつも「レストラン京極」と決まっていた。
居酒屋でも割烹でもビアホールでも中華やイタリアンでもなく、どうして「レストラン」とは名ばかりの学生食堂が毎度毎度、宴会場として貸し切られるのか? その理由は誰も知らない。
小田部長の通った大学が御茶ノ水界隈にあって、その頃からの馴染みの店、というのなら分かり易いが、東北出身の部長は岩手大卒だった。ならば就職後、駿河台近辺に住んだことでもあるのかというと、それもそうではないらしかった。
「レストラン京極」は、「洋子ママ」と呼ばれる、なかなか魅力的な女性がコックやバイトの学生を使って独りで切り盛りしている。せめて、この洋子ママが、部長の親戚とか同郷とか、かつての恋人とか、目下の愛人とかであれば、「道理で……」ともなるのだが、そういうわけでもないらしい。
遼平は小田部長のお気に入りの一人だったので、ずいぶん前、接待帰りに二人きりで飲んだとき、本人に直接確かめたことがあった。
「京極のママさんって部長のむかしの恋人とかですか?」
部長はきょとんとした顔を作り、
「なわけないだろう」
一笑に付した。
「じゃあ、どうやって知り合ったんですか?」
深追いかなとは思ったが、訊かずにはいられなかった。
「どうやってって、ちょうど、あのあたりに営業かけて、腹が減っていたから遅い昼めしを食いにあの店に入ったんだよ。そしたら洋子ママがいたってわけさ」
「それっていつ頃の話ですか?」
「俺が、千代田営業所にいた時期だから、ざっと十五年くらい前かな。いまの松谷と似たような年回りの頃だ」
遼平は今年で三十一だった。部長は先月四十六になったばかりだから、なるほど同い年だ――と思う。
「顔見知りとかだったんですかね」
たまたま昼めしを食べに入った店で、そこの女主人と昵懇になるなんて、凄腕営業マンの部長にしてもさすがに難しいだろう。
「いや」
あっさりと部長は言う。
「じゃあ、どうして?」
当然の疑問を口にした。
「そりゃ、お前、ぴんときたんだよ」
「は」
「飛び込んでさ、店のたたずまいを見て、洋子ママと二言三言話してみて、で、ぴんときたんだよ。ちょうどうちの女房と会ったときみたいなもんさ。方向性が全然違うってだけでね」
「はあ」
またそれか、と思いながら遼平は聞いていた。何しろ小田部長は「営業の仕事は直感勝負。恋愛とまるきり一緒だ」が口癖なのだ。おまけに超のつく愛妻家として聞こえていた。小田夫人は東京本社の受付嬢で、受付台に座ってたった三ヵ月でいなくなった。評判の美人だったから、男性社員全員が非常な落胆に襲われていたところ、三十半ばを過ぎていまだ独身で、仕事の虫(または鬼)と言われていた小田課長代理がモノにしたらしいと噂が立って、社内騒然となったのだという。
遼平は何度か部長の家に行っているが、確かに夫人の早紀子さんはとてもきれいで親切な人だった。
「東洋堂さんの紹介で、明大通りにあるセキヤ楽器を訪ねた帰りでさ、手応えがいまいちだったんでちょっと気落ちしててな。そいで何となくふらっとあの洋食屋に入ったんだよ。そしたらはたと気づいたんだ。店の内装とママの顔を見てさ、ここのとんかつ食ったらきっと仕事が取れるってね」
「とんかつ、ですか」
東洋堂というのは駿河台下にある大きな文具屋で、セキヤ楽器はその親戚筋だったはずだ。どちらの店舗建て替え工事も部長が取ってきた仕事だと聞いている。
「そうそう」
部長は半分笑いながら頷く。何となく煙に巻かれたようなあんばいだった。
二十六日の懇親会でも、東京本社営業部の総勢二十人が「レストラン京極」に顔を揃えて、夕方から貸し切りでどんちゃん騒ぎをした。
建設会社の営業といえば酒好きな面々ばかりだ。といって酔い乱れる者はひとりもいない。何しろ、ビル一棟、マンション一棟を請け負う仕事だから、取引先はすべて大口で、契約金額は常に億を超える。つまりは酒席といえども決して粗相は許されない。酔っ払って大事な金主に絡むような酒癖の持ち主では〝土建屋営業〟は断じて務まらないのだ。
飲み会はいつも和気藹々、楽しい宴だった。
ふだん取引先への接待で神経をすり減らす酒ばかり飲んでいる遼平たちにとって部会は干天の慈雨的なイベントでもある。むろんボスである小田部長の人柄あってこその話だから、会場が相も変わらず「レストラン京極」であることに文句をつける部員は誰もいなかった。実際、京極の飲み放題付きの宴会料理は存外うまいし、何より安くつく。
テーブル席が四つ作られて、それぞれの卓に五人ずつ着席した。
中央のメインテーブルには、救世会病院浜田山分院の建設工事を受注したばかりの遼平と杉下のコンビが小田部長と一緒に座り、あとは事務の女性が二人。一人はベテランの事務員の橋本さんで、もう一人はアルバイトの女の子だった。
名前は隠善つくみという。年齢は二十三歳。本当の名前も年齢もこの日初めて遼平は知ったのだったが……。
「隠善さんってつぐみじゃないんだよね」
乾杯が終わって、各テーブルに並んだ料理にみんなが箸をつけ始めると、向かいに座っている彼女に杉下が声をかけた。杉下は遼平より三期下で、まだ二十八だが離婚経験者だった。学生時代はボートを漕いでいて、ボート部のマネージャーだった女の子と付き合い、彼女の卒業を待ってすぐに式を挙げたらしいが、本人曰く「ままごとみたいな結婚だったんですよね、結局。半年も暮らしてたら、二人とも息が詰まってしまって」というわけで、一年足らずで破局したようだ。以来、やたら遊んでいるともっぱらの噂だが、遼平はそっち方面には聞き耳を立てない主義なので、実際どうなのかはよく知らなかった。
話しかけられた隠善さんの方は、明らかに「またか」という顔で杉下を見返し、
「そうなんです。みなさんつぐみだって思い込んじゃうんですけど、ほんとはつくみなんです」
と抑揚のない声で答えた。
「つくみってどういう意味なの?」
杉下は彼女の反応にはお構いなしの口調で問い返す。
しかし、隣に座っていた遼平は、このやりとりに耳を留めていた。彼もいままでてっきり「つぐみ」だと思っていたのだ。
「別に意味なんてないんです」
隠善さんは面白くなさそうに言う。
「ていうと?」
つい横合いから遼平は口を挟んでいた。思えばもうそのあたりから、奇妙な気分になり始めていた気がする。
「父が出生届を出したときにうっかりして、つくみって書いてたそうなんです。で、市役所の係の人が、これ、濁点が抜けてるんじゃないですかって教えてくれたらしいんですが、父はそのとき、つくみという名前を見て、つぐみよりつくみの方がいいんじゃないかって思ったみたいなんです」
「それで、つくみのまま届けちゃったってこと?」
杉下が言う。
「はい」
無表情のまま隠善さんは頷いた。
隠善さんは半年ほど前にアルバイト事務員として営業部にやってきた人だ。
前のアルバイトさんが夫の転勤を機に辞めることになり、小田部長が総務に申請して新しい人を雇った。仕事は雑用全般で、資料のコピーやキャビネットの整理、給茶機の茶葉や水の取り換え、簡単な書類作りなどで、八時半から五時半までの勤務になっている。土日はむろん休みだった。そういうわけで、彼女は二十人近くいる部員の誰とでも関わるが、かといって誰かと組んで込み入った仕事をするわけでもない。
簡単に言えば、必要ではあるが重要ではない存在ということになる。
彼女が初めてやってきたとき異彩を放っていたのは、その若さだった。この日、まだ二十三歳だと知って、遼平には少し意外だったが、それにしても二十代のアルバイトさんが来たことはいまだかつてなかった。遼平は横浜営業所に一度出たきりで、あとはずっと本社営業部だが、これまでは、子供の手がかからなくなった八馬建設のOBが、家計の足しにと働く例がほとんどだった。
二十三の割りにはずいぶん落ち着いている、と改めて彼女の様子を眺めながら遼平は感じた。てっきり二十五、六だろうと思っていたのだ。
飲みながら部長や橋本さんも交えて隠善さんといろいろ喋った。
そうやって長々彼女と話すのは初めてだった。仕事はそつなくこなす人だったが、どことなく気安く話しかけにくい雰囲気だったし、日中の外回りを終えて遼平がオフィスに戻る頃には大体、彼女は帰ってしまっていた。
隠善さんはとびきりのやせっぽちだ。
身長は一六〇ちょっとはありそうだったが、体重はおそらく四十キロを切っているのではないか? 体脂肪率なんてほとんどゼロだろうという痩せ方だった。ただ、病的な感じは余りしない。顔がとっても小さいのだ。そのせいでパッと見のバランスに違和感はなかった。すーっとしなやかな体つきに見える。だが、よくよく見てみると、とにかく細くて細くて仕方がない体型なのだった。
さらに、もう一つ特徴があった。隠善さんはすごく首が長いのだ。長い首に小さな頭がちょこんと乗っている。
顔立ちは整っているが、不思議な切れ長の目をしていた。瞼を閉じているときは目頭から目尻までが長くて、いかにも大きな瞳のように思うのだが、見開かれてみると案外細い。瞳の大きな人が眠たそうにしているときみたいな、そういう霞んだ目つきをしている。
とっつきにくい雰囲気のおおもとはこの目だな――遼平はその晩、彼女を観察しながら思っていた。
大学を出て小さな広告会社に入ったものの、オーナーが投資詐欺にひっかかって、あっという間に倒産し、たまたま知人のツテで知ったアルバイト事務員の募集に応募したのだと隠善さんは言った。
「なんで、うちみたいな建設会社で働きたいと思ったの?」
橋本さんが訊ねると、
「面接では、子供の頃から建物に興味があったって答えたんですけど、本当は一度、丸の内で働いてみたかったんです。私、大学も最初の会社も横浜だったから、東京に出ることってほとんどなかったし」
隠善さんはしごく正直で平凡な理由を口にした。
「そうなんだ……」
ほかの三人はただ相槌を打っただけだ。
だが、遼平はそうやって話している隠善さんを見ながら、
――この人は、俺に会いに来たんじゃないかな……。
と感じていたのだった。
いままで長いあいだ隔たっていた二人が、ようやく再会を果たす。そのために彼女が八馬建設東京本社営業部のアルバイト募集に応じてやってきてくれた――というのではなくて、ふだんから付き合っている相手が、会社にまで訪ねてきたという感じ。
たとえて言えば、恋女房が今朝ダイニングテーブルの上に置き忘れて行った昼のお弁当を届けに来てくれた――そういうニュアンスで、目の前の隠善つくみが自分に会いに来たような、そんな気がなぜかしたのだった。
「つくみの記憶」は全4回で連日公開予定