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「京香、お遣い行ってきて」
 まるで子供にお願いするみたいな口調で言って、祖母はカフェのカウンターにかずら編みのカゴを置いた。焦茶色のカゴの中には、まぶしいくらい濃い黄色をしたレモンが五つ入っていた。
「藤巻さんがくれたの。お裾分すそわけだって。たくさんあるから、沖晴に持っていってやって」
「またあっ?」
 テーブルを拭く手を止め、京香はたまらず声を大きくした。お客がいなくてよかった。
「いいじゃないか。階段を二つ上がるだけだよ。それとも嫌いかい? 沖晴のこと」
「そんなことはないけどさ」
 掴み所がないと言えば可愛かわいらしいが、得体が知れなくて、どう接すればいいのかわからない。
「あの子、いつもにこにこ笑ってるけど、見知らぬ土地で結構大変なんじゃないかと思うんだ。話し相手にでもなってやってよ。きっと喜ぶよ」
「学校でも楽しくやってそうだったし、私は必要ないと思うけどな」
 部活を掛け持ちしすぎて合唱部の練習になかなか出られないことを、女子部員達は口うるさく咎めていたけれど、でも、本気じゃない。沖晴のことを嫌悪しているわけでも、部から追い出そうとしているわけでもない。
 事実、あのあとのランチミーティングでは彼女達はちゃんと沖晴の意見を聞いてやっていた。ときどき沖晴が「あんた真面目に考えてないでしょ」なんて言われていたけれど、動物がじゃれ合うみたいで、微笑ましいくらいだった。
「閉店作業はやっておくから、行ってきちゃって。帰ったら、夕飯の仕度を手伝ってちょうだい」
 カフェ・おどりばは六時閉店だ。あと十分もないし、ラストオーダーも終わっている。
「行ってくる」
 レモンの入ったカゴを抱えて、京香はカフェを出た。ドアベルのざらついた音が、何故か心の端っこに引っかかって離れない。
 煉瓦の階段と石の階段を上ると、木の塀で囲まれた二階建ての古い家が見えてくる。周囲を竹林で覆われ、建物はその一軒しかない。
 インターホンを押したが、電池が切れているのか音が鳴らない。仕方なく、庭へ回った。
「沖晴くーん、帰ってるー?」
 家の中に呼びかけながら庭へ向かうと、次第に歌が聞こえてきた。男子高校生らしい低音。でも、伸びやかで綺麗な声だ。夕日の柔らかい光に、声が溶けていく。じんわり、じんわり、染み込んでいく。
 海を望む小さな庭には縁側があり、制服姿の沖晴がそこに腰掛けて歌っていた。素足を踏み石にのせ、声が出やすいように背筋を伸ばして。
 歌っているのは、今日のランチミーティングで文化祭で歌うことに決まった曲だった。大切なものを失った人々が、喪失を胸に抱えながら未来へと歩き出すのを、花が咲く様にたとえた歌。
 練習やミーティングはサボるのに、家では歌の練習をするなんて、いいところもあるもんだ。その姿が無性に眩しく感じて、眩しさの向こうに「うらやましい」という感情が見えてしまう。私にもこんな頃があった。確かにあった。大人になっても、そんな自分はずっと胸の奥にいる。
「……上手」
 歌の区切りがいいところで、京香は沖晴に声をかけた。
「わあ、びっくりしました」
 その割には余裕の表情で、沖晴は穏やかな笑いをこぼす。
「どうしたんですか?」
「うちのお祖母ちゃんから、レモンのお裾分け」
 カゴを差し出すと、沖晴は嬉しそうに中身を覗き込んだ。レモンの実を一つ掴んで、「ありがとうございます」と匂いを嗅ぐ。
「皮まで食べられるから、塩レモンとか、はちみつレモンにでもしなよ。暑い日にソーダで割って飲むと美味しいから」
「へえ、やってみます」
 さり気なく家の中に視線をやると、六畳ほどの和室の中央に卓袱台ちやぶだいがあり、木の座椅子があり、古い型のテレビがあり、棚には背表紙が日に焼けた本が並んでいた。かなり生活感があるが、高校生が一人で暮らしているようには見えない。前の住人のものがほとんど残されたままなのかもしれない。
「お茶でも淹れましょうか?」
 カゴを抱えて部屋に上がった沖晴は、そのまま家の奥に消えた。冷蔵庫を開け閉めする音が聞こえる。ガラスポットと冷茶碗をお盆にのせて、すぐに戻ってきた。
「麦茶、適当に淹れてるんで、魔女さんの紅茶みたいに美味しくないと思いますけど」
 廊下にお盆を置き、冷茶碗に麦茶を注ぐ。縁側に腰掛け、遠慮なくいただくことにした。
「偉いじゃない。ちゃんと練習してて」
 麦茶はちょっと渋かったけれど、冷たくて美味しかった。ほんのり空色に染まった冷茶碗は涼しげで、オレンジ色の夕日に照らされ、淡く発光しているように見える。
「沖晴君、歌、上手だし」
「そうですか? ありがとうございます。音楽の先生に褒めてもらえて嬉しいです」
 笑みをふわりと周囲に広げるように言って、沖晴は冷茶碗に口を寄せた。
「でも、部活を六個も掛け持ちして大丈夫? 練習ばっかりで休めないでしょ」
「一人暮らしなんで、暇なんです。だから部活でもやらないとつまらないから」
 一人暮らし。その単語が出てきて、京香は押し黙った。迷って、迷って、ゆっくりと口を開く。ご近所さんだし、祖母からも仲良くしてやってくれと言われたし、そもそも祖母がいろいろと世話を焼いているし……聞いても、構わないはずだ。
「どうして一人暮らししてるの」
「家族がいないからです。地元もこのへんじゃなくて、ずっと北の方なんで」
 あまりにあっさりと、沖晴は答えた。京香は彼の顔を凝視した。麦茶を飲み干した沖晴は、側に放り出してあった楽譜を手に取る。先ほど歌っていた曲のものだ。
「どうして?」
 聞かない方がいいと思うのに、聞いてしまう。沖晴の笑顔や、告白に何の痛みも感じていないような涼しい横顔に、引きられるようにして。
「死んじゃったからです。九年前に」
 手の中で冷茶碗がするりと滑って、取り落としそうになった。
 毎日のように、いろんなところで人が死ぬ。事故だったり、病気だったり、事件だったり、自殺だったり。いろんな理由で、人が死ぬ。
 でも、地元が北の方で、九年前と言われたら、《いろんな理由で》が、たった一つに集約される。熟れすぎた果実が木からぼとりと落ちるみたいに、唐突に。
「ねえ、それって……」
「津波です。家族は流されて死んでしまいました」
 九年前。京香が高校三年生の頃。卒業式の直後だった。東京の大学に合格して、上京の準備を進めていた。そんなとき、階段町から遠く離れた北の大地を、大きな津波が襲った。
 たくさんの人が死んだ。事故でも病気でも事件でも自殺でもなく、海によって死んだ。
 テレビを通してでしか見られなかったその光景は、遠く離れた階段町にいた京香の目にも、いまだにはっきりと焼き付いている。
 自然災害の多いこの国で、あの津波だけはある意味特別だった。津波に呑まれた街からどれだけ遠くに暮らしていたとしても、あの津波に無関係な人間なんてこの国にはいなかった。それくらい、大津波は大勢の人の心に傷をつけたのだ。
「それ、それ貸して……!」
 気がついたら、沖晴から楽譜を奪い取っていた。体が熱い。もの凄く熱い。夕日のせいではなく、体の奥から違うものが湧き上がってくる。
 立ち上がって、両足を踏ん張って、彼を見下ろした。
「この歌がどういう歌か知ってるの?」
 楽譜を握り締めて、聞いた。
「この歌って、あの津波に遭った人のために作られた歌なんだよ?」
 これは、あの津波の一年後に作られた合唱曲だ。理不尽で、どうしようもない大きな力によって大切なものを失った人々が、未来に向かって再び歩き出す歌だ。
「知ってますよ。今日のミーティングで話してたじゃないですか。それに、津波に遭った人のための歌なら、俺が歌ったって問題ないでしょう?」
「そうなんだけど、そうじゃなくて……。瀬戸内先生や合唱部の子達は、沖晴君が津波に遭ったって知ってるの?」
「知るわけないじゃないですか。言ってないんですから。階段高校の生徒にも先生にも、誰にも言ってないですよ。校長先生くらいじゃないですかね、知ってるの」
 知っていたら、合唱部の生徒達はこの歌を歌いたいと提案しただろうか。瀬戸内先生はOKしただろうか。もし自分が部員だったら、顧問の先生だったら、しない。どんなに美しい歌でも、希望にあふれた歌でも、それが彼の傷をえぐるのは間違いないって、そう思う。
「どうして?」
 夕日が沖晴の顔を正面から照らす。オレンジ色の温かな光。光が、沖晴の顔に影を作る。
 口元に、くっきりと。
「……ねえ、どうして笑ってるの」
 沖晴は笑っていた。京香が楽譜を奪ったときも、歌の意味を問うたときも、自分の口で津波の話をしたときも。
 ずっと、志津川沖晴は笑っている。
「そんな話を、どうして笑いながらするの」
 昨日、初めて会ったときの志津川沖晴。今朝、カフェで会った志津川沖晴。学校で会った志津川沖晴。常ににこにこと笑っている彼の顔が、京香を取り囲んで、見つめてくる。
「踊場さん、人間には五つの基本感情があるって知ってますか?」
 てのひらをぱっと広げて、彼は突然そんな話を始めた。
「喜び、悲しみ、怒り、嫌悪、怖れ。この五つが、人間の感情の基本なんだそうです」
「それが、どうしたの」
「多分、俺は津波で死ぬはずだったんです。家族と一緒に、他の大勢の人と一緒に、海に流されて死ぬはずだったんです。でも死神か何かが気まぐれに、俺と取り引きをしてくれたんですよ。五つの感情のうちの《ネガティブな方の四つ》を差し出して、それと引き替えに、生きて帰ることができました。だから、ポジティブな《喜び》だけが残りました」
 沖晴は笑みを絶やさない。目の奥は怖いくらい真剣な色をしていて、夕日の光を受け、それが際立っている。本気だった。本気で、この子は死神だなんて言っている。
「……じゃあ、聞くけど、死神はどうして都合良くポジティブな感情を貴方に残してくれたの?」
「相手は死神ですよ? ポジティブな感情よりネガティブな感情をほしがるでしょう? 《喜び》の感情をありがたがる死神とか、違和感ありますし。もしくは、一つくらい残しておいてやろうって情けをかけてくれたのかも。まあ、俺の勝手な解釈ですけど」
 何だそれは。残酷なんだか、優しいんだかわからない。命を奪いたいのか。人間を苦しめたいのか。救いたいのか。一体何がしたいんだ。
 ああ、でも。
「死って、そういうものかもね」
 言葉は喉の奥に突っかかって、ほとんど声にならなかった。胸に手をやってみる。案外、自分も感情を奪われてやしないだろうか。怖れとか悲しみとか、死を目の前にして味わうはずの感情を、誰かに取られていやしないだろうか。
 沖晴が小さく首を傾げて、いたずらでも企てるように笑う。
「踊場さん、俺が勉強もできて、スポーツも得意だって瀬戸内先生から聞きました?」
 少し考えて、京香はゆっくり頷いた。
「海から生きて帰ったら、何故かそれまでよりスポーツが得意になって、一度見たものや聞いたものを忘れないようになって、怪我をしてもすぐに治るようになってたんです」
 沖晴が左腕を見せる。昨日、ぱっくりと裂けたはずの場所を。
「昨日の傷は、夜には綺麗に治ってました」
 無意識に、一歩後退っていた。両手を握り締めていないと、何かを言ってしまう。何かわからないけれど、めちゃくちゃなことを言ってしまいそうだった。
「死神と取り引きしたら、人間じゃなくなっちゃうんですかね。そのへんの条件、碌に説明してくれなかったからなあ。津波に流されてる最中じゃ、聞いてる暇なかったけど」
 冗談としか思えないのに、彼の飄々ひようひようとした物言いは、妙に生々しかった。
 命を刈る大きな鎌をたずさえ、黒衣に身を包んだ──そんなわかりやすい死神の姿を京香は思い浮かべた。死神はわかりやすく髑髏どくろの顔をしていた。その前に、小学生の志津川沖晴がたたずんでいるのも。私が死ぬときも、そんな姿をした死神が来るんだろうか。
「それとも、感情を失うと、代わりにこういう能力に目覚めるものなんでしょうか、人間って。意外と、俺はもともと運動神経がよくて、記憶力も抜群だったのかも。感情がなくなったから、それが開花したのかもしれないですね」
 病気や事故で身体の健常な機能を失ったことで、それまでなかった新しい能力に目覚めることがある、なんて話を聞いたことがある……あるけれど。
「信じなくてもいいですけどね」
 沖晴が立ち上がる。裸足で踏み石に立ち、合唱のときのように足を肩幅に開いた。
 京香と彼の前に広がるのは、海だ。階段町から見下ろす、狭い海。大小さまざまな島が折り重なり、橋がそれを繋いでいる。夕日が、海を照らす。フェリーが向こうの島からやって来る。黒い影が、金色の海を切り裂くようにして。
 大きく息を吸った沖晴は、歌い始めた。京香が握り締めた楽譜の通りに歌詞を紡ぎ、音程を外すことなく、伸びやかで澄んだ低音を響かせる。
 先ほどは、綺麗な歌だと思った。歌っている彼を微笑ましいと思った。眩しいと思った。羨ましいとも思った。彼の表情もたたずまいも、何も変わらないのに、この志津川沖晴という少年を心底気味が悪いと思ってしまった。
 死神? 取り引き? 感情がなくなった? そんなの、信じられるわけがない。妄想だ。作り話だ。そう思う自分が確かにいるのに、彼の話を信じてしまっている自分も、確かにいる。信じられない自分よりずっと大きく、いる。
「思い出します」
 一番を歌い終えた沖晴が、京香を見る。
「この歌、歌っていると死んだ家族とか友達を思い出します。学校から避難する途中で津波に呑まれたことを思い出します。音とか、匂いとか、寒さとか、思い出します」
 まるで歌の続きを歌うように、沖晴は続ける。
「でも、俺には《悲しみ》も《怒り》も《嫌悪》も《怖れ》もないんで、思い出しても特に何も感じないんです。だから、結構楽しく生きてるんですよ」
 ははっと笑って、白い歯を覗かせ、潮風に髪を揺らして、志津川沖晴は再び歌い始めた。
 喪失から立ち上がる歌を、未来への希望を歌った歌を、喜びに満ちた声で、歌い続けた。

 

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