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 港から山側へ向かい、踏切を越え、細い道に傾斜がつき始めると、そこはもう階段町だ。コンクリートでできた階段を上り、階段が途切れてなだらかな道になったと思ったら急坂になり、今度は石の階段が、次は煉瓦れんがの階段が現れる。今風のペンシルハウスもあれば、築八十年以上の古民家もある。その隣に煉瓦造りの洋風建築の家があり、その向こうに寺があったりする。
 古いものと新しいものがごちゃ混ぜになっているのは、こんな構造の街だから新しい家を建てるのも大変で、古いものを大事に大事に使っているからかもしれない。和のものと洋のものが混ぜこぜなのはどうしてだろう。港町が近いからだろうか。
 子供の頃から慣れ親しんだ街並みを延々と歩くと、煉瓦で作られた階段の先に、石でできたアーチ状の門扉もんぴが見えてくる。今の季節は夏に向けて門の周囲をさまざまな種類の植物が覆い、鬱蒼うつそうとした森の入り口みたいだった。すぐ側で野良猫が昼寝をしている。この街は、何故か猫も多い。多分、港が近いから。
 門の横に立てられた「カフェ・おどりば」という看板は、四年前に見たものとは違うデザインになっていた。
 築五十年以上。二階建ての洋館は、一部がカフェになっている。モルタルの壁につたが絡まって、三角屋根まで覆っているたたずまいは趣があって、昔から好きだった。
 階段町のちょうど真ん中。まさに踊り場のような場所にあるこの店が、京香の実家だ。
 カフェのドアを開けると、ドアベルがざらついた音を立てる。この音は、昔のままだ。
「ただいまあ」
 昔からの常連客が一人いるだけで、店内はがらんとしていた。甘くてさわやかな紅茶の香りが、ゆったりとした時間の流れるカフェの中でまどろんでいる。
「京香ちゃん、おかえり」
 カウンター席にいた常連客の藤巻ふじまきさんが、分厚い本から顔を上げる。物語の世界から飛び出してきたみたいな真っ白なヒゲをふわりと揺らして、京香に笑いかけた。
星子せいこさーん、京香ちゃんが帰ってきたよ」
 藤巻さんが店の奥へ声をかけると、歳の割に声量があってりんとした返事がして、祖母がカウンター内へ現れる。
 真っ白なブラウスに黒いカフェエプロンをして、白髪のボブカットに鳥の羽の形をした金属製のバレッタをつけた姿は、七十二歳にはどうやったって見えない。
「おかえり、遅かったね」
 近頃は近所の子供達から「黒魔女」と呼ばれているらしい祖母は、「何か飲む?」と紅茶のポットを用意しながら聞いてくる。
「アイスティーにしようか?」
「ううん。温かいのがいい」
「そう」
 素っ気なくも聞こえてしまう平坦な返事は、京香がよく知る祖母のものだった。いつも通りの祖母だった。だから、ちょっと安心した。
 藤巻さんから少し離れてカウンター席に腰掛け、久しぶりに祖母が紅茶をれるのを眺めた。
 祖母の頭上で、ステンドグラスのペンダントライトが揺れている。青と白と黄色の色ガラスで作られたライトからこぼれた光が、祖母の白いブラウスをほんのり青く染めていた。
 カフェ・おどりばは、カウンター席が五つとテーブルが三つの小さな店だ。黒光りする天井から、ペンダントライトがいくつもぶら下がっている。
 沸騰直後のお湯を陶器のティーポットに入れ、金縁のカップと共に祖母が運んできた。
「レモンかミルクは?」
「今日はいいや」
「お砂糖は?」
「入れようかな」
 角砂糖が入った白いシュガーポットが目の前に置かれる。顔を合わせて話をするのは四年ぶりだというのに、まるで昨日も一昨日おとといもこうして紅茶を飲んでいたみたいだ。
 でも、こんな孫娘を前に「可哀想に」としくしく泣いてしまう祖母だったら、自分は階段町に帰ってこなかっただろうなと思った。
 カップに紅茶を注ぐ。陶器のポットで淹れた紅茶は味がまろやかになると教えてくれたのは、今は亡き祖父だった。このカフェ・おどりばも、大の紅茶好きだった祖父が始めて、今は祖母が一人で切り盛りしている。
 角砂糖を一つだけ入れてカップに口を寄せると、清涼感のあるダージリンの香りが鼻に抜けた。初夏の陽気には少し熱いホットティーだが、懐かしい祖母の味がした。
「荷物、まだ届かないね」
 京香に出したポットで自分の紅茶を用意して、祖母が言う。
「トラック、ここまで入ってこられないし。時間かかるって業者さんが言ってた」
「そりゃあそうか」
 車が通れる道までトラックで来て、あとは台車や手で運ばなければならない。京香が上京するときも大変だった。だから、今回の引っ越しは最低限の荷物だけにした。どうしても処分できないものだけを段ボールに詰め、家具や家電は捨てたり人に譲ったりした。
「四年ぶりだね」
 ストレートで紅茶を飲みながら、今更のように祖母が呟いた。
「四年ぶりって言っても、大学のときは年に一回しか帰ってこなかったけどね」
 実習とか、バイトとか、友人との時間とか、いろんなものが惜しくてなかなか帰省しなかった。今になって申し訳ない気持ちになる。
「あ、ちゃんとお店、手伝うからね。注文取ったり、お会計したりとか」
「せっかく仕事辞めて帰ってきたんだから、しばらくはゆっくりしてるといいよ」
「今まで仕事が忙しかったから、いきなり暇になってもどうしたらいいかわかんないよ」
 朝五時に起きて吹奏楽部の朝練に顔を出さなくていいなんて。夜の十時過ぎまで残業をしなくていいなんて。逆に時間をどう使えばいいかわからない。
 店の外から、がさがさと人の足音が聞こえた。窓ガラスの向こうに、見覚えのある青いユニフォームが見える。
「引っ越し屋さん、来たみたい」
 紅茶を飲み干して、京香は店のドアを開けた。ざらついたベルの音にかぶせるように、祖母が「あとでアイスティーを差し入れるから」と言った。
 汗だくになって荷物を運ぶ引っ越し業者を見たら申し訳なくなったけれど、祖母の淹れたアイスティーを「生き返る!」と笑顔で飲んでくれた。荷物を極力減らしたおかげで、荷ほどきも暗くなる前に無事終えられた。
 高校卒業まで使っていた洋室は、大人になった京香の荷物が加わってもほとんど見た目が変わらなかった。本棚に並ぶ本が漫画から小説や実用書になって、でも好きな作家の本は変わらず買い続けている。数年に一度出る好きなアーティストのアルバムもきちんとそろえている。洋服の趣味が変わって、クローゼットの中は様変わりした。
 でも、それくらいだ。
 京香の部屋は、三角屋根の真下にある。だから三角天井で、壁も斜めになっている。それに合わせて作られた棚に並ぶ本を眺めながら、京香ははしごを使ってロフトへ上がった。こちらにはベッドが置いてあるけれど、この先、はしごの上り下りがつらくなるかもしれないと考えると、下に移した方がいいだろうか。
 そんなことを考えて、そのときはそのときだと思った。先のことを考え出したら、本当に切りがなくなってしまう。
 新しいシーツを掛け、布団カバーを取り替えたベッドに上って、天窓を開けた。上げ下げ式になっている窓は、び付いた音を立てて開いた。
 蔦に覆われた三角屋根から顔を出すと、下へ下へ延びていく階段町と、海が見える。島々の向こうに沈む夕日に照らされ、階段町がオレンジ色に光っていた。ところどころ黒く陰になった場所と相まって、夕日へ続く階段のようだった。
「いい場所じゃん」
 高校生の頃は、坂と階段の多い不便な街だと思っていた。こうして大人になって戻って来てみると、わかる。不便だけれど、穏やかでいい街だ。東京で大学生をやったって、都会で忙しく先生をしていたって、結局ここが私の故郷だ。
 つい棲家すみかとしては、ぴったりじゃないか。