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 物心ついたときから父親はおらず、京香は母と祖父母と暮らしていた。祖父母は定年退職後にカフェ・おどりばをオープンし、それ以降、朝食はカフェでるのが日課になった。
 目を覚まして、顔を洗って、制服に着替えて一階に下りると、紅茶のいい香りがする。その日その日のオススメの紅茶をオススメの飲み方で祖父母が出してくれて、厚切りのトーストやサンドイッチをサラダと一緒に平らげて、学校に行く。それが、京香の朝だった。
 着替えを済ませて部屋を出て、階段を下りながらそんなことを思い出した。この家の朝の時間は変わっておらず、紅茶の香りが階段の踊り場まで漂ってきていた。
「お祖母ばあちゃん、おはよう」
 カフェと住居部分を繋ぐドアを開けると、カフェエプロンと鳥の羽形のバレッタをつけた祖母がカウンターにいた。モーニングの時間帯だから、すでにお客の姿もある。
「ごめん、寝坊した」
「いいよ別に。昨日まで一人でやってたんだから」
 沸騰したお湯をポットに注ぎながら、祖母は首を横に振る。カウンターにいたお客へポットを運び、「ごゆっくり」と笑いかけた。
 手伝おうと思ったのに、店にいるお客の手元にはすでにトーストやサンドイッチがあり、紅茶も今のお客が最後だったみたいだ。
「ほら、あんたの分」
 祖母は京香の分のモーニングセットまですでに準備していて、ポットののったトレイを渡してきた。ハムとタマゴのホットサンドには、美味しそうな焼き目がついている。
「ごめん、ありがとう」
 明日はもう少し早く起きよう。そう決意して、カウンターを出たときだった。
 端の空いている席へ向かおうとした京香の目に、記憶に新しい顔が飛び込んできた。
「君……昨日の」
 大口を開けてトーストを頬張ろうとしていたのは、昨日、防波堤から落ちたあの男の子だった。昨日と同じ色のスラックスを穿いて、ワイシャツの上に紺色のカーディガンを着ている。ブレザーは……昨日の今日では乾かなかったのだろう。
 海にぷかぷか浮きながらそうしたように、彼は眼球をぎょろりと動かしてこちらを見た。
「ご無沙汰ぶさたしてます」
 奇遇ですね、なんて笑顔で続ける彼の左腕から、京香は目が離せなかった。
「全然ご無沙汰じゃないでしょ。腕、大丈夫だったの?」
「もう治っちゃいましたよ」
「嘘つくんじゃないの」
 自分の朝食がのったトレイを近くのテーブルに置いて、彼ににじり寄る。ああ、まるで、教師に戻った気分だ。彼の腕を掴み、カーディガンとワイシャツを一気にまくり上げた。
「……嘘だ」
 昨日、ぱっくりと裂けていた左腕には、傷一つなかった。傷跡やかさぶたすらない。
「ほら、言ったじゃないですか。たいしたことないからすぐ治ります、って」
 左手をひらひらと振りながら、彼は厚切りのトーストにかぶりつく。
「そんなわけない。あんな怪我したら保健室に担いでいって、でも絶対に保健室じゃ手当てしきれないから止血だけして病院に直行するやつだから、絶対!」
 いくら言ったところで、彼の腕は傷一つない綺麗なままだ。
「なあんだ、あんたら、もう仲良くなってたの」
 カウンターに頬杖をついた祖母が、肩すかしを食らったようにそう言ってくる。振り返った京香に半笑いを浮かべ、ハムスターみたいに両頬を膨らませてトーストをかじる彼を指さす。
「藤巻さんほどじゃないが、沖晴はうちの常連なんだよ。毎朝モーニングを食べに来る」
 はあ、と溜め息と相槌あいづちを同時にして、京香は祖母と彼を交互に見た。トーストを温かいレモンティーで流し込んだ彼は、「えへへ」と笑いながら京香に会釈した。
「志津川沖晴といいます。沖は晴れているか、と書いて沖晴です」
 そんな詩的な自己紹介までしてくる。沖は晴れているか、と書いて沖晴。太陽光を受けてキラキラと光る大海原おおうなばらと、その上に広がる巨大な入道雲が思い浮かんだ。
「その子ね、私の孫の京香っていうの。踊場京香。東京から帰ってきたばかりだから、仲良くしてやって。それにしても、京香が帰ってきたのは昨日なのに、どこで知り合ったんだい、あんた達」
「いや、俺、この人に海に突き落とされたんですよ、昨日」
 え? と声を上げて、祖母だけでなく店にいた他の客まで京香を見てくる。慌てて首を左右に振った。
「違う違う! 突き落としてない! 突き落としたのはカモメ!」
 今度は「カモメ?」とみんなが一斉に首をかしげる。「貴方あなたもちゃんと説明して」と京香は沖晴をにらんだ。
「でも、踊場さんが突然声をかけなかったら、海にも落ちなかったしカモメに鯛焼きも盗られませんでしたし」
 人をからかうのがそんなに楽しいのか、彼は微笑みを絶やさない。本当に、入道雲みたいだ。掴み所がなくて、確かにそこにいるのに、目を離したら全く違うものに姿を変えていそうな、不思議な雰囲気の子だった。
「違うからっ。カモメはずっと貴方の上で鯛焼きを狙ってたの。私が声をかけなくても、絶対に鯛焼きは盗られてた! そして貴方も海に落ちて怪我してた!」
「だから、別に怪我してないって言ってるじゃないですか」
 カーディガンをまくり、再び左腕を見せられた。本当に、悔しいくらいに傷一つない。
「ねえ、念のため右腕も見せて。見間違いだった可能性も……」
「しつこいなあ、もう」
 言葉の割に楽しそうにしながら、「はい」と右腕を見せてくる。もちろん無傷だった。
「これでいいでしょ」
 カップに残っていた紅茶を飲み干した沖晴は、側に置いてあった鞄を抱えて立ち上がる。
「大丈夫なんで、もう放っておいてください」
 口角を上げて、にこっと微笑んで、そそくさと店を出て行く。急いでいないように見えて意外と早足で、ドアのベルを鳴らして外へ行ってしまった。
「あ、沖晴っ」
 ベルの残響が消えた頃、他のお客のために紅茶のお代わりを淹れていた祖母が叫んだ。
「ああ、あの子、お昼ご飯忘れていった」
「ちょっと待って、お祖母ちゃん、あの子にお弁当作ってあげてるの?」
 さすがにそれは世話を焼き過ぎじゃないだろうか。すっかり冷めてしまったモーニングセットのトレイを持って、慌ててカウンターへ移動する。
「あ、ていうかあの子、モーニングのお金払ってない!」
「いいんだよ。一週間分前払いしてるから」
 どうやら、本当に常連のようだ。高校生なのに、家族と朝食を摂らないのだろうか。
「沖晴ね、二つ階段を上ったところの家に一人で住んでるんだよ。だから朝ご飯は毎日うちで食べるし、特別に弁当も作ってやるんだ。もちろん、お代はもらってる。なのになんで忘れてくのかね、いつももっとゆっくりしていくくせに」
 ぶつぶつ言いながら祖母が作っているのは、サンドイッチだった。厚焼きタマゴが挟まったもの、ハンバーグが挟まったもの、宝石を挟んだみたいなフルーツサンドもある。それを紙製のランチボックスに並べて、グリーンサラダとチキンのトマト煮を詰め込む。
「あんたの分も作っておいてあげるから、お昼に学校まで届けてやってよ」
「ええー、私が?」
「お世話になった先生に挨拶あいさつでもしてくればいいじゃないか。それに、沖晴のことはいろいろ頼まれてるんだよ」
「誰に?」
「あの子が住んでる家の持ち主から」
 二つ階段を上ったところには、小さな一軒家があったはずだ。踊場家と違って純和風の古民家。京香が高校生の頃までは老夫婦が住んでいた。確か、岡中おかなかさんという家だった。
「岡中さん達が息子夫婦の家に引っ越して、二年前から空き家だったんだけどね。沖晴が住むことになって、高校生の一人暮らしだから気にかけてやってくれって言われてね」
「じゃあ、岡中さんのお孫さんなの?」
「それがそういうわけじゃないみたいなんだよ。遠い親戚の子だってさ」
 そんな素性もよくわからない男子高校生に、毎日弁当を作ってやっているというのか。
 笑顔以外の表情を見せない志津川沖晴という高校生の──防波堤にたたずんで海を眺めていた後ろ姿を思い浮かべながら、京香は渋くなってしまった紅茶をカップに注いだ。