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「ほんと、久しぶりだねえ。成人式以来だもの」
 四時間目がちょうど空いていたからと、瀬戸内せとうち先生は京香のことを喜んで迎えてくれた。
「校舎、全然変わってないでしょ。久しぶりっていっても、踊場が卒業してまだ十年たってないもんね」
 先を歩く瀬戸内先生の背中でポニーテールが揺れる。京香が高校生の頃もつやつやの綺麗な髪をしていたけれど、九年たっても相変わらず先生は綺麗な髪をしていた。
 音楽準備室の戸を開けた瀬戸内先生は、「適当に座って」と部屋の隅の丸椅子の山を指さした。昔のように椅子を一つ引っ張り出して、先生のデスクの側に腰掛けた。
「ここも全然変わってないですね」
「そう? ものが増えて収拾がつかなくなっちゃったよ」
 デスクの隣に置かれた冷蔵庫から、先生がペットボトルのお茶を出してくる。音楽科の教員と合唱部の共用冷蔵庫は、京香が合唱部だった当時も全く同じ場所にあった。
 高校時代、京香は合唱部で、瀬戸内先生はその顧問だった。三十二歳だった先生は若々しく、生徒達のお姉さん的ポジションだった。クラス担任より多くの話をしたし、「音楽の先生になりたい」という京香の進路相談にだって、頻繁にのってもらった。
「せっかく音楽の先生になれたのに、辞めちゃうなんてもったいなかったな」
 ペットボトルのお茶を一口飲んで、「まあ、人生いろいろだから」なんて先生は言う。
 東京で音楽教師になったことは、大学卒業と同時に知らせた。退職して階段町に帰ってきたことは、さっき、来客用の玄関で話したばかりだ。
「忙しかった? 休みなんてないもんね。体壊しちゃったとか?」
 壊したといえば、壊したんだよな。そう思ったら、抵抗なく言葉が口を突いて出た。
「乳がん、やっちゃいまして」
 ペットボトルのキャップを開けて、京香はうな垂れた。「あは、失敗しちゃいました」なんて声が、自分の仕草から聞こえた気がした。
 ボトルの飲み口を唇に当てたまま、瀬戸内先生はしばらく何も言わなかった。
「ちなみに、ステージ4らしいです。転移もしてます。余命は多分一年くらいです」
 乳房にしこりがある気がして、病院に行った。あまりに仕事が忙しくて、一体いつからしこりがあったのかわからない。人一倍気をつけていたのに、身近な問題だったのに。
 一ヶ月前からあったかもしれないし、下手したら半年前だったかもしれない。そう伝えたら、担当の医師は渋い顔をした。化学療法も放射線治療もホルモン治療もしたが、あまり効果がなかった。血液検査で妙な数値が出て、がんが肺と肝臓にも転移していることがわかった。手術では取り除けない、とも言われた。
「病院は? ちゃんと行ってるんだよね?」
 音楽準備室には自分達しかいないのに、声のトーンを落として先生は聞いてくる。
「こっちの病院に紹介状を書いてもらったんで、今度行きます。でも、副作用が少なそうな方法でやっていこうかなと思って」
 先生が何か言いたそうな顔をしたから、京香は慌てて話を続けた。
「私、高校のときに母親が死んだじゃないですか。母も乳がんだったんです。一生懸命しんどい治療を続けて、乳房を取ったり髪が抜けたり、薬の副作用で毎日吐いたり。そういうのはちょっと勘弁だなと思って」
 こう言っても、大体の人は納得しない。東京にいる友人も、口を揃えて積極的な治療を勧めてきた。でも、母は本当に辛そうだったし、ふとしたときに「こうまでして生きなきゃいけないのかね」とこぼしていたのを、京香はよく覚えている。それを聞いた祖母も、怒りはしなかった。京香も怒りなんて感じなかったし、むしろ「そうだよね」と頷いてしまいたかった。
 闘病する本人も家族もみんな辛いとわかっているなら、わざわざそこに飛び込まなくたっていいじゃないか。ましてや、今度は祖母一人に自分の世話を任せてしまうことになる。
 何より、そんな思いをしてまで治療しても、治る確率などほとんどない。薬さえ服用していれば日常生活に支障はないし、できることならこのまま、すーっと眠るように死ねないだろうか。
「生きる長さじゃなくて、質の方を高められるように頑張ろうと思います」
 長さより質。言っていることはもっともらしいが、東京で付き合っていた赤坂冬馬あかさかとうまという男には「要するに、死ぬ覚悟をしたってことだろ」とストレートな物言いをされた。ぼんやりと結婚だって思い描いた人だったけれど、その日のうちに別れることにした。
「そうか」
 ペットボトルを握り締めたまま、瀬戸内先生は静かに頷いた。この人は祖母と全然似ていないけれど、心の奥の奥、精神的な柱みたいな部分が、祖母と同じような作りをしているのだと思う。京香がこの話をしたとき、祖母もやっぱり「そうか」と言ったから。
「踊場が自分で決めたなら、私はとやかく言わないよ」
 そうだ。祖母も「あんたが決めたならそれでいいよ」と言った。
「こっちでどうするの?」
「しばらく家でゆっくりして、そのうち旅行に行くのもいいかなって思ってます。行きたかったところ、いろいろあるし」
 海外は大学の卒業旅行を最後に行っていないし、国内だって行ったことのない場所ばかりだ。一人で気ままに巡るのもきっと楽しい。祖母も、誘えば付き合ってくれるだろう。
「ずっと仕事してたんで、時間が有り余ってるのが逆に気持ち悪いんですけどね」
 あはは、と後頭部をいたとき、タイミングを見計らったみたいに、四時間目が終わるチャイムが鳴った。もたついた鐘の音は、京香がよく知っているものだった。
「あ、先生、私、お弁当届けないといけないんです」
「さっきから膝に抱えてるそれ?」
 瀬戸内先生が、膝の上に置いた紙袋を指さす。
「うちのカフェの常連にここの生徒がいて、祖母が毎日お弁当を作ってあげてるんです」
「名前は?」
「なんとか川、沖晴って言ってました」
 瀬戸内先生は驚かなかった。「やっぱり」という顔で苦笑いした。
「やっぱり二年の志津川沖晴だったか。そんな気がした」
「先生、ご存じでしたか」
「そりゃあ、有名人だから。ていうかうちの部だし」
「えっ、あの子、合唱部なんですか?」
「合唱部だし、三年前からボランティア部の顧問もやってんの、私。志津川はそっちにも入ってるから、毎日のように顔見るよ」
「あの」
 昨日今日で見たあの少年の妙なところをひとしきり思い浮かべ、京香は身を乗り出す。
「あの沖晴って子、なんで何があってもにこにこにこにこしてるんですか?」
 まるで、笑顔でいることが平常状態みたいに。無理をしているようにも見えない。作りもののような笑顔を浮かべているわけでもない。いて言うなら、神様が彼に《笑え》と命令を出し続けていて、それに喜んで従っているだけ、みたいな顔なのだ。
「さあ、どうしてだろうねえ。私もよくわかんないや。泣いてるよりは笑ってる方がいいんだろうけどさ。志津川、四月に転入してきたばかりなんだけど、それから二ヶ月もたってないのに、沖晴、沖晴っていろんな人に呼び捨てにされて楽しそうにしてるよ」
 高校二年生から転入だなんて、珍しい。一軒家で高校生が一人暮らしをしているのも併せて、あの笑顔の裏に複雑な家庭事情が見え隠れしてしまう。担任の先生は、だいぶ気を遣っているんじゃないだろうか。もし自分が担任だったら、きっとそうする。
「いつもヘラヘラしてるけどさ、あれでも転入試験、満点だったんだよ」
「それ、凄いですよね?」
 転入のための試験は、普通の入試より難易度が高いと聞くし、それを満点だなんて。
「転入して間もないのに、いろんな先生が言ってるよ。志津川沖晴は天才だって。まだ答案返却してないんだけど、先週やった中間テスト、どの教科も満点だったんだって。階段高校始まって以来の全教科満点だって、職員室で先生達がそわそわしてるよ」
「そ、そんなに勉強ができるようには見えなかったのに……」
「ホント、私もびっくりしちゃって。しかも運動神経も抜群でさあ、陸上部だったかどこかに誘われてちょっと走ってみたら、三年のエースよりいいタイムで走っちゃったらしいよ。いろんな部から勧誘されて困ってるみたい」
 昨日、京香の前から走り去った彼の背中が思い出される。確かに、速かった。
 いつもにこにこと笑みを絶やさず、勉強も凄くできて、スポーツも得意で。現実味がなさ過ぎる。小説や漫画の登場人物みたいだ。
 でも、だからこそ、あの得体の知れない雰囲気と合っているとも思えてしまう。
「教室行く? たしか二年五組だけど」
 瀬戸内先生が椅子から腰を浮かしたときだった。音楽準備室の戸をノックする音がして、「失礼しまーす」と誰かが入ってきたのは。
 その声を、昨日も今朝も聞いたと気づいたのは。
「すいませーん、お昼ご飯取りに来ました」
 志津川沖晴は、やはり笑いながら京香の前に現れた。
「沖晴、あんた、どうしてここに弁当があるとわかった」
 沖晴はスラックスのポケットからスマホを出して、口元をほころばせる。
「カフェ・おどりばの魔女さんから、『うちの孫が弁当を届けに行ったから受け取って』ってメッセージが来たから。『瀬戸内先生と一緒にいると思う』とも書いてあったんで」
「君、うちのお祖母ちゃんと結構仲良しだったのね……」
 なんとなく、そんな予感はしてたけれど。しかも「魔女さん」なんて呼んでるし。
「はい、スタンプ交換したりしてます。この間これをあげたら喜んでました」
 沖晴がスマホの画面を京香に見せてくる。タコが八本足をぐるぐると動かして「ありがとう」と言っているスタンプだった。
「お弁当、ありがとうございます。どうしようかと思ってたので助かりました」
 カフェ・おどりばのロゴが入った紙袋を指さす沖晴に、ランチボックスを一つ差し出す。祖母はご丁寧にアイスティーまで水筒に用意していたから、それも渡してやる。
「ちょうどいい。今日、合唱部のランチミーティングだから、沖晴もちゃんと参加しな」
「ああ、忘れてました」
「嘘つけ、覚えてるけどわざとサボろうとしただろ」
「だって、バレー部に練習を手伝ってくれって言われたから」
「そうやって何でもかんでもホイホイと引き受けるんじゃない」
 瀬戸内先生に叱られても、沖晴は笑ったままだった。へらへらと先生の言葉を躱して「頑張りまーす」なんて首を傾げる。
 音楽室の方の戸が開く音がした。女子生徒のきゃいきゃいとした声が聞こえてきて、瀬戸内先生が立ち上がる。
「あいつも来たし、さっさとやっちゃおうか。踊場、せっかくだから、OGとしてあんたも覗いていったら? 九月の文化祭で歌う曲、決めるんだってさ」
「OGって言っても、十年近く前ですよ?」
「何言ってる。合唱部史上、唯一全国コンクールに行った代だろ。みんな喜ぶよ」
 そんなこともあった。瀬戸内先生と合唱部のみんなと、新幹線で東京に行って、大きな舞台で歌った。本当だったら母も見に来るはずだったけれど、全国大会の二週間前に亡くなった。コンクールに出ている場合なのか自分でもわからなかったけれど、母が出場できるタイミングで旅立ってくれたような気がして、葬儀の翌々日から練習に戻ったのだ。
 そんなことも、あった。
 準備室と音楽室はドアで繋がっている。音楽室では、五人の女子生徒が机を部屋の中央へ運んでいた。チャコールグレーのブレザーに紺色のスカート、赤いリボンという、とても懐かしい組み合わせだ。
「あんた等、合唱部の大先輩が遊びに来てくれたよ」
 瀬戸内先生がそんなことを言って、京香のことを紹介した。「なんとあの全国コンクールに出場したときの部長だよ!」なんて、さも凄い人が来たみたいに。案の定、五人は瞳をキラキラとさせて「凄い……!」なんて言った。
 全国大会には出場したけど、別にプロの道に進んだわけでもないのに。
「あれ……ていうか、五人しかいないの?」
 自分が現役の頃は、二十五人の部員がいた。男子生徒だって八人いたのに。
「五人じゃなくて、六人です」
 京香の後ろにいた沖晴が、ランチボックスを両手に抱えたまま自分の顔を指さす。
「あんたは練習もミーティングもサボってばっかりだろ」
 瀬戸内先生が言う。五人の女子生徒も同時に頷いた。どうやら、サボりの常習犯みたいだ。
「サボってないです。他の部活の練習があるから来られないだけです」
「五つも掛け持ちしたらそうなるに決まってるだろ」
 京香は沖晴を凝視した。笑みを絶やすことなく、涼しい顔で彼は「何ですか?」なんて聞いてくる。
「君、五つも部活やってるの?」
「はい、合唱部とボランティア部とバレー部と水泳部と野球部とテニス部です」
「今、六つ言ったよね?」
「一昨日から六つ掛け持ちになりました」
 瀬戸内先生と合唱部員達が「えええー!」と声を揃えた。「あんた、それじゃあろくにうちの練習来れないじゃん!」「合唱部に一番に入ったのにそれはひどくない?」「なんで沖晴が掛け持ちしまくってるって知っててみんな勧誘するわけ?」「いやいや、沖晴も断りなさい、ちゃんと!」……けんけんとした声が次々と投げつけられ、流石の沖晴も困ると思ったのに、やはり彼は穏やかな顔で笑っている。
「大丈夫です。ちゃんと本番では失敗しないように歌います」
 わざとらしくサムズアップしてみせる沖晴に、「当たり前でしょ!」「音外したらビンタするから!」なんて言葉が女子生徒から飛ぶ中、京香は小さく溜め息をついた。