第一話 
死神は呪いをかける。志津川沖晴は笑う。

 踊場京香おどりばきようかの葬式は、階段町かいだんちようの山頂付近にある小さな斎場で行われた。
 葬式とは、白色と黒色ばかりの味気ない、温かさもないものだと思っていた。意外にも彼女の葬式は色とりどりの花が飾られ、斎場はずっとかぐわしい香りがしていた。春も夏も秋も冬も、すべての季節の匂いを彼女のために集めたみたいだった。
 喪主を務めているのは京香の祖母だ。自分も、この人には随分世話になった。
「旦那さんだけじゃなくて、娘も孫も自分より先に死んでしまうなんて、可哀想な人だ」
「七十三歳にもなって、寂しいだろうにね」
 どこかから、そんな声が聞こえた。
「カフェ・おどりばも、もう閉めちゃうんじゃないかな」
 そんな風に言う人もいた。
 斎場を出るとき、入り口に飾ってあった大きな向日葵ひまわりが目に入った。葬式にはてんで似合わない。大きくて元気で、花全体が光り輝いているようだった。
 志津川沖晴しづがわおきはるがその向日葵を手に取っても、誰もとがめなかった。
 向日葵が特別好きなわけじゃない。でも、なんとなく夏の花がほしいと思った。
 斎場を出ると、海がよく見えた。自分の故郷と違って、階段町から見える海は狭い。大きな島が点々と浮かび、橋が島と島をつないでいる。果てまで何もない海というのがここからは見えない。巨大な川なのか、湖なのか、池なのか、ときどきわからなくなる。
 だから、安心したのかもしれない。ここでは何も奪われないと思ったのかもしれない。
 空を仰いだら、カモメが一羽飛んでいた。向日葵を抱えて立ち尽くす沖晴に驚いたみたいに、高く舞い上がった。
 初めて会った日にあの人が自分を突き落とした場所に行こう。そう思った。

◆   ◆   ◆

 案外、大きな街だった。
 新幹線で東京から三時間半、更に在来線とバスを乗り継いで四年ぶりに帰った故郷は、踊場京香が思っていたよりずっと存在感があった。生まれ故郷なんて、大人になればなるほど小さくなるものだと考えていたのに。もしかしたら、自分の方が小さくなってしまったのかもしれない。高校生の自分より、大学生の自分より。
 山肌に沿って階段のように積み上がった街並みをバス停から見上げ、京香は小さく深呼吸をした。自分の記憶にある街より、大きいし、広いし、色鮮やかだし、何だか濃い。匂いとか空気とか、いろんなものが、濃い。
 京香が高校卒業まで暮らしたこの街は、階段町という。その名の通り、階段と坂の街。北は山、南を海に挟まれ、平地が少ない。山側の傾斜だらけの狭い土地に家が密集し、その間を階段と坂道が縫い目のようにう不思議な構造をしている。
 祖母に伝えた到着時間までまだ余裕がある。実家へ続く階段と坂道を上る前に、潮風の香りをいだら、海を近くで見ておきたくなった。
 引っ越し業者が荷物をすべて持って行ってくれたから、京香は小振りなリュックサック一つで新幹線に乗った。ずっと同じ体勢で座っていたせいか腰が痛い。大きく伸びをして、実家とは反対側──海の方へ歩いて行った。
 五分ほどでよく知る港に出る。対岸にある島へ渡るフェリーが出航する港だ。幼い頃、祖母と買い物ついでにここへ来て、フェリーに向かって手を振るのが好きだった。多分、三歳とか四歳の頃の記憶。京香の中にある思い出の、最初の一ページにつづられた光景だ。
 対岸を出発したフェリーが近づいてくるのを、京香は堤防に腰掛けて眺めていた。白いフェリーが大きくなる。甲板の人の顔が見えるようになる。流石さすがに手は振らなかった。自分の膝に頬杖ほおづえをついて、目を閉じる。こんな風に無意味に時間を使えるなんて久々だ。
 東京の大学を出て、東京で音楽教師になった。日々の授業とクラス担任と部活の顧問をこなしているうちに、一度も実家に帰ることなく四年たってしまった。忙しいけれど、それなりにやりがいもあって充実した毎日だった。
 余命が一年というのは、その代償としてはちょっと大きすぎる気がするけれど。
 カモメの鳴き声が聞こえて、京香は目を開けた。思っていたよりずっと近くを、白いカモメが一羽通り抜けていった。翼の風圧を感じられそうなくらい、近かった。
 時計を確認すると、約束の時間まであと十分ほどだった。遅くなると祖母が心配するだろう。ついでに、近くにある福野屋で鯛焼きでも買っていってやろう。階段町に住んでいた頃、学校から帰るとよくその鯛焼きがリビングにあった。冷めても美味おいしいのだ。
 そう思って、堤防から腰を上げたときだった。
 先ほど京香の頭上をかすめていったカモメが、沖合に突き出た防波堤の上を旋回する。何かに操られるように、綺麗きれいな楕円形を描きながら。
 その下に、制服を着た男の子が一人たたずんでいた。
 チャコールグレーのブレザーは、京香が通っていた市立階段高校の制服だ。階段町の山頂付近にあり、生徒達は長い坂と階段を上って登校する。
 誰もいない防波堤の先端に、彼は一人きりで突っ立っていた。黒い髪を風に揺らすあの子は、いつからいただろう。ぴくりとも動かない背中を、京香は見つめた。
 五分たっても彼が微動だにしないから、京香は防波堤の先端へ、小走りで向かって行った。カモメは、相変わらず彼の頭上を旋回している。
 ──ねえ、まさか飛び込んだりしないよね。
 口の中でそう念じながら、静かに、でも速く、駆けていった。
「ねえっ!」
 そこの君、何してるの? 教え子を注意するみたいにそう続けようとしたら、彼はするりとこちらを振り返った。手には何故なぜか、京香がこのあと買いに行こうとしていた福野屋の鯛焼きがある。
 その瞬間、彼の頭上を飛んでいたカモメが急降下した。風圧を感じさせる力強い羽ばたきで、無防備な鯛焼きにかぶりつく。彼は感心したように「おおー」と声を上げ、楽しそうに目を大きくした。
 カモメに体をあおられ、革靴がコンクリートの縁で滑る。チャコールグレーのブレザーはあっという間に京香の視界から消えた。数瞬置いて、ぼしゃん、と水音が響き渡った。
「……今の、私のせい?」
 つぶやいて、防波堤の先端に駆け寄る。コンクリートの縁にへばりつくようにして下を覗くと、トルマリンみたいな色で淡く波打つ海面に、ゆっくりと彼が浮かび上がってきた。
 仰向けで、空をじっと見つめながら。
「だっ、大丈夫……?」
 彼は静かにまばたきをし、透き通るような黒目をゆっくり動かしてこちらを見る。けれどすぐ、飛び去るカモメの影が海面に映って、彼の視線はそっちに行った。
 直後、笑い声がした。「ははっ」と、ささやかな声量なのに空に突き抜けるような──入道雲が見えそうな声だった。
「鯛焼き、られました」
「……はい?」
「二口しか食べてなかったんです。やっとカスタードクリームが出てきたのに」
 海に仰向けにぷかぷかと浮かんだまま、彼は続ける。
「あのカモメ、鯛焼きはカスタードクリーム派だったんでしょうか。だとしたら俺と好みが合います。仲良くなれそうです」
 放っておいたらいつまでもそうしていそうだったから、京香は話をさえぎって再び「ねえ!」と声を上げた。
「いいから上がってきなさい!」
 彼は「はあい」と返事をして、やっと体勢を変えた。水を吸った服は重いはずなのに、涼しい顔で平泳ぎを始める。水泳選手みたいに綺麗なフォームで、イルカやシャチのように軽やかに泳いでいく。彼のかばんを抱えて移動しながら、京香はそれをじっと見ていた。
 個人所有のボートや小さな船が停泊する船着き場から陸に這い上がった彼は、何事もなかったかのようにブレザーを脱ぎ、京香の目の前で雑巾のように絞り始めた。
 その左腕が血で真っ赤に染まっていて、京香は悲鳴を上げた。血の出所は、左肘のあたりだ。落下したとき岸壁にぶつけたのだろうか。ブレザーから水がしたたるたび、力んだ手の甲を伝って血が流れていく。
「制服なんてどうでもいいから、腕をどうにかしなさい、腕を!」
 彼の左腕を引っつかみ、ワイシャツをまくり上げる。ぱっくりと割れた肌に後退あとずさりしそうになりながら、京香は背負っていたリュックを下ろした。絆創膏ばんそうこうは持っているけれど、とても間に合わない。止血に使えそうなものは大きめのハンカチしかなかった。
「ほら、腕、もっとちゃんと出して」
 ハンカチを見せると、彼は犬がお手でもするみたいに左腕を差し出してきた。血まみれなのに、口元は穏やかに微笑ほほえんでいる。
「ぱっくり切れてるけど、痛くないわけ?」
「痛いですよ」
 笑みを崩すことなく、彼はうなずいた。ほがらかで、屈託がなくて、健やかな笑顔で。
 本当なら水で洗って消毒すべきなのだろうが、とりあえずハンカチを傷口に当てて、きつめに縛ってやる。
「縫わないといけない傷だよ、これ。病院行った方がいいよ」
「えー、いいですよ。すぐ治りますから」
「いや、治らないから。どうしてすぐ治ると思えるの、これが」
 事実、京香が巻いてやったハンカチにはもう血がにじんできている。
「治っちゃうんですよ、これが」
 水を吸ってほとんど黒色になったブレザーを抱えた彼は、「だから大丈夫です」と笑って京香から鞄を奪った。その顔だけ見ていたら、怪我けがをしているのが嘘みたいだ。
「ハンカチ、ありがとうございました。お礼は必ず、そのうち、運良くまた会えたら」
 ハンカチを巻いた左腕をちらりと京香に見せて、彼はきびすを返す。彼の髪が弾いた水滴が、京香の鼻先まで飛んでくる。
「それでは、さようなら」
 走り去る彼の背中から、「このままここにいたら、このお節介な人に病院に連れて行かれる!」という悲鳴が聞こえた気がした。
 彼の足の回転は、リズミカルで速かった。足の速い子の走り方だ。「うちの陸上部のエースより速そう」と、かつての勤務先を呑気のんきに思い出す。その間に、彼の姿は見えなくなってしまう。
 乗客を降ろしたフェリーが、再び対岸に向かって出港していた。