黙って頷いた下条に、前嶋は続ける。
「ところがだ。誰しもが持っていて当たり前の生活必需品となってしまうと、過去にどんな議論があったかなんて、過去の経緯を振り返る人間はまずいない。大半は、そんな時代があったな、の一言で終わらせてしまうんだ。だがね、考えてみたまえ。ガラケーがスマホに変わり、インターネットに接続されるようになるまで、それこそあっという間だ。つまり、携帯電話が普及し始めた頃には、すでにそんな時代の到来をいち早く見抜き、着々と技術開発に取り組んでいた人間がいたんだよ」
「なるほど……。日本でスマホが爆発的に普及したのは、iPhoneが発売された二○○八年のことですから、携帯電話が普及し始めてから僅か十年に満たないうちに、今のネット社会の基盤が出来上がったことになりますね」
「定年が延びたとはいえ、ビジネスパーソンが現役でいられる期間は半世紀にも満たない。携帯電話がスマホになって、いったいどれだけの製品が消滅したか考えてみたまえ。カメラ、録音機、録音媒体、ポータブルプレーヤー、他にも沢山あるが、かつてこれらは家電メーカーの一事業部として多くの従業員が研究開発、マーケティング、製造に従事していたんだよ。それが、スマホの出現で事業部がまるまる消滅してしまったんだ」
 確かに前嶋の言には一理ある。
 サラリーマンの大半は六十五歳で定年を迎える。大卒で入社すれば、ライフサイクルは四十三年。前嶋が挙げた製品をスマホが駆逐してしまうまでの時間を考えれば、今現在現役世代が従事している仕事が、画期的な製品の出現によって消滅してしまう可能性は高いと言えるかもしれない。
「そんな時代がいつ来るんだ。十年先か、二十年先かと言うかもしれませんがね。下条さん、来るものは来るんですよ。そして悲劇は、来ると分かっていても、あえて不都合な現実から目を逸らそうとする。未来の姿が想像できない、いや想像しようともしない、企業の経営者、政治家、官僚によって引き起こされると私は考えているんです」
 そう聞けば、前嶋が依頼しようとしている仕事の内容に想像がつく。
「すると前嶋さんは、私共に二十年後、三十年後の社会や市場がどう変化するかを考察せよと?」
「それもありますが、もっと大きな視点で考察を行っていただきたいのです」
「大きな視点とおっしゃいますと?」
「その時、この国……、日本という国に何が起こるのか、どんな姿になるのかを……です」
 前嶋は断固とした口調でいい、話を続けた。
「今、日本が直面している問題は数多くありますが、中でも少子化が招く人口減少は、国家の存亡に関わる重大事案です。二十年後の生産人口がどれほどになるかは、人口動態統計をみれば明らかなのに、政治家も企業経営者も、そして国民の大半も、不都合な真実から目を逸らし、根本的な解決策を講じようとする気配すらない。ならば、かかる問題を放置すれば、この国の未来はどうなるのか。それを突きつけ、覚悟を決めさせるしかないと思うのです」
 そこで、前嶋は姿勢を正すと、
「もちろん、私がその時の日本の姿を目の当たりにすることはないでしょう。ですが、私はこの国の将来を心から案じているのです。御社の考察を公表し、これから先の日本を担っていく世代がどう考えるのか、自分たちが何をすべきか、真剣に考えてくれるようになってほしいのです。老い先短い老人の願いを、ぜひ受けていただきたい」
 下条に向かって頭を下げた。
 

第一章

1

 津山つやま百合ゆりは、LACに入社して十五年。新規事業への参入を計画している企業の市場分析や戦略立案、行政機関からの依頼を受けた事案を数多く担当し、現在はシニア・パートナーの職にある。
 都内にある私立大学のトップスクールを卒業後、総合商社に入社。四年勤務したところで、アメリカの経営大学院(ビジネススクール)で経営学修士(MBA)を修得すると同時にLACに入社。それが津山の経歴だ。
「二十年、三十年後の日本の姿……ですか? 正直、テーマが漠然としていてピンときませんし、そもそも、そんな先のことを予測することに意味があるんでしょうか。だって、五年先のことでさえ、何が起こるか見当がつかないのに、二十年先なんて、それこそ当たるも八卦はつけ、当たらぬも八卦、易や占いの世界じゃありませんか」
 下条が依頼内容のテーマを告げた途端、津山は困惑した表情を浮かべ、思った通りの反応を示してきた。
「クライアントさんがおっしゃるには、数ある予測の中でも、人口動態統計は極めて正確。それをベースに考察すれば、この先、日本がどんな問題に直面するか。解決するためには、どんな策を講じる必要があるかが分かるはずだ。その結果、二十年、三十年後の日本の姿が見えてくるだろうと……」
 正直なところ、下条も前嶋の依頼に面食らったことは事実だ。しかし、前嶋に「人口動態統計」といわれて、なるほど、それをベースに考察すれば可能かもしれないと考えを改めた。というのも、とある雑誌のインタビュー記事で、アメリカ人の高名な投資家が、「無人島で一人で暮らさなければならなくなったとき、一冊だけ本を持っていくとしたら何を選ぶか」と問われ、人口動態統計とこたえていたのを思い出したからだ。
 数ある予測の中で、人口動態統計の精度が極めて高いのは当然のことである。
 新生児の数は統計年度ごとに完全に把握されており、特に積極的に移民を受け入れていない日本では、今後の年齢別人口と見ることができるからだ。もっとも日本人の平均寿命は男性が約八十二歳、女性が約八十八歳。もちろん、平均寿命を迎える前に亡くなる人もいるのだが、統計的に一年間に亡くなる人口、いわゆる超過死亡率は一定の範囲に収まるとされている。
 翌年からの新生児の人口については全くの予測になるのだが、こちらもひと組の夫婦が生涯のうちに設ける子供の数、合計特殊出生率を用いて算出すれば当たらずとも遠からず。誤差の範囲に収まるはずである。