プロローグ

 ロサンゼルス・コンサルティング・グループ、通称LAC(ラック)は、その社名が示すとおり、アメリカのロサンゼルスで創業された世界最大級のコンサルティング会社だ。
 業務内容は経営分析、戦略の立案、マーケティング、M&A等々と多岐にわたり、世界四十カ国に支社を置く。
 丸の内の高層オフィスビルにある日本支社の社長室に、前嶋栄作まえしまえいさくが現れたのは二〇二X年、仕事始めの翌日のことだった。
「新年、おめでとうございます。本日は会長自らお訪ねいただき、恐縮でございます」
 日本支社の社長を務める下条貴子しもじようたかこは、ドア口に立つ前嶋に歩み寄ると深く上体を折り、右手を差し伸べた。
 前嶋は東洋総合研究所、通称東洋総研の初代社長で、現在は会長職にある。設立時は旧財閥系企業が供出した資金が元であったが、前嶋の卓越した経営手腕もあって、今では高い独立性を持ち、東洋諸国の政治経済に関する研究、分析に特化、質の高いレポートを提供することで定評のあるシンクタンクだ。
 もっとも「高い独立性」というのには、二つの意味がある。
 一つは、時の政権やクライアントに忖度そんたくすることなく、独自の視点で研究、分析が行われること。もう一つは、トップに君臨する前嶋の意向が、成果物に色濃く反映されていることだ。
 日本の独立性を重視し、短期的視点に立った政策や企業戦略には一貫して批判的で、特に中国に対しては、共産党の一党独裁政治を根本から否定。彼の国の市場への依存度を高める日本企業の姿勢に、早くから警鐘を鳴らし続けてきたことにある。
 前嶋が「国士」、「憂国の士」と称される一方で、「右翼」「国粋主義者」と言われるのはその表れなのだが、それも政界、財界に大きな影響力を持つ、日本のフィクサー的存在であるからだ。
 前嶋は下条と握手を交わしながら、
「新年早々、お忙しいだろうに、時間を割いていただいて、申し訳ありませんでしたね」
 張りのある声で礼を述べる。
 今年七十五歳になると記憶しているが、オールバックに整えた頭髪は、見事なまでの銀髪だ。しかし、毛量は豊かだし肌にも艶がある。大きな鼻に太い眉、ぎょろりとした目で下条を見る前嶋の姿に、老いの兆しは微塵みじんも見えない。
「意外に思われるかもしれませんが、実は年末年始は一年の内で最もスケジュールに余裕がある時期でして……」
 下条はくすりと笑った。「アメリカ本社はクリスマスから年末休暇に入りますし、日本に駐在する外国人は、週明けが仕事始めなのです。クライアントさんも新年には社内の恒例行事や、挨拶回りに追われて通常業務が始まるまでには少し間がありましてね」
「ほう、それは意外ですね」
「ですから、時間のことはお気になさらずに……。会長とお話しできる機会は滅多めつたにございませんので、勉強させていただきたいと思いまして、この日を選ばせていただいたのです」
 前嶋から面会の申し出を受けたのは、昨年の十二月も半ばに差し掛かった頃のことだった。
 なにしろ前嶋は政界の重鎮とも親交があり、外交方針や政策にも大きな影響力を持つとされ、日本のフィクサーの一人と目される人物である。「その前嶋が何用で?」と意外に思う一方で、彼の人物像に以前から関心を抱いていたこともあって、ならば、時間に余裕がある時にと思い立ち、面談をこの日に設けたのだった。
「いろいろとご配慮いただいたようで、恐縮です」
 意外にも前嶋は、丁重に礼を述べると、「今日は、御社に仕事を依頼したくて伺ったのです」
 早々に本題を切り出した。
 東洋総研の業務内容は、LACと重複する部分が少なくない。
 自社でもできるだろうに、なぜ……。
 怪訝けげんに思いながら、下条は問うた。
「仕事とおっしゃいますと、どのような?」
「実は六月いっぱいで、会長職を退こうと考えておりましてね」
「えっ?」
 まさに寝耳に水というやつだ。
 しかも進退に関わることとなると、どう反応していいのか分からず、下条は短く声を上げた。
「私も、七十五歳になりましたのでねえ。生涯現役を貫こうとする方もおられるが、技術、社会、国際情勢、全てのことがすさまじい速さで変化している時代ですのでね。いつまでも、年寄りがトップにいたのでは、ろくなことにならない。遅きに失した感は否めませんが、この辺が潮時かと思うに至ったわけです」
「おっしゃるように、世の中の変化には加速度がつくばかりですが、経験や知見というものは一朝一夕には身に付くものではありません。前嶋さんのご指導を仰ぎたいと切望なさる政界人、財界人は、まだまだたくさんいらっしゃると思いますが?」
「その経験や知見というやつが、役に立たない時代になっているんじゃないですかね」
 前嶋はしみじみとした口調で言う。「今現在最も勢いがあり、将来にわたって有望な産業はIT関連でしょう。それも大小問わず、いずれの企業の経営者はベンチャーばかり。翻って日本の財界は、今に至ってもなお、重厚長大産業が全盛期の時代に地位を確立した企業の経営者が牛耳っているんです」
 異論はないが、話はとば口についたばかりだ。 
 下条は黙って先を聞くことにした。
「ここ数年、財界の会合に出る度に、複雑な思い……、というか、ぞっとするんですよ」
 果たして前嶋は続ける。
「広い会場を埋め尽くすのは高齢者、それもオールドモデルと化しつつある産業の重鎮ばかり。こんな人間たちが財界の重鎮と称され、日本経済のかじ取り役を担っているのかと思うと、暗澹あんたんたる気持ちになるんですよ。政治の世界もまた同じでね。総理総裁、大臣、政府の要職を占めるのはほとんどが高齢者だ」
「企業も政治の世界も、要職者に求められるのはキャリアと実績です。双方ともに、年齢が高くなるのは致し方のないことかと……」
「致し方がない?」
 前嶋は目を細め、鋭い眼差しを下条に向けてきた。「財界、政界に共通しているのは、思考が昭和の時代で止まっていることですよ。自分たちが身に付けた経験やノウハウなんて、とっくに通用しない時代になっているってことが理解できない、というかあえて目をらしている。そんな人間たちが政治、経済の中枢の座にしがみついているんだから、日本が衰退するのも当たり前の話ですよ」