一度も恋人ができたことがなく女性への恨みを抱える雄太が語るのは、自身のコンプレックスについてだった。試し読みでは、本作に出てくる「生きづら会」の様子がわかる章を一部おとどけします。本篇では語り手が抱えるコンプレックスや苦悩が明かされているので、書籍を要チェック!
七月第二週の金曜、薫はバイトから帰ると、普段より手際よくルーティンをこなした。雄太が用意しておいた焼きそばを温めなおして二階に持っていき、自分も同じものを急いで食べる。今夜は生きづら会。それに備えるために、できるだけ長く仮眠をとりたかった。
ちょうど食べ終わったとき、雄太がいつもよりはやく帰ってきた。
「あの、今日の生きづら会、テーマ変えます」
彼は薫の顔を見るなりそう言うと、さっそく台所の片づけをはじめた。食べ終わった皿を持っていきながら、薫は「なんで?」と尋ねた。
「今日のテーマは『怒り』だったよね。奈月のやつだよね」
「はい、でも前回の続きをやりたいんです。お願いします」
どうやら髪の毛について、まだまだ語り足りないようだ。
そして夜。夕食を終えた午後八時過ぎ、すべての支度が整い、生きづら会がはじまった。
前回同様、薄毛にまつわる過去のさまざまなエピソードを雄太は語っていった――中二の春休みのある朝、ハゲはじめていることにはたと気づいて、洗面台の鏡の前で日が暮れるまで立ち尽くしてしまったこと。中三の秋、父親の毛生え薬を飲み薬と勘違いして誤飲し、病院騒ぎになったこと。
大学三年の初夏、食堂でから揚げラーメンを食べていると、背後で誰かが「ハゲ」とささやくのが聞こえ、その瞬間何もかも嫌になって、持っていた箸で自分の目玉を突き刺しそうになった話をしている途中、雄太はふと「そうか、わかった」とつぶやいて、語りをしばし止めた。
「……今、思ったんだけど。嫌なこと、不都合なことから目をそらしたり、逃避したりするのが、得意な人と苦手な人がいるんじゃないかな。それで自分は、もしかしたら苦手なほうの人間なのかもしれない。普段は髪のことも、女にモテないことも、社会的に落ちこぼれていることも、考えないようにしよう、無視しようって自分に言い聞かせてるんだけど、ささいなきっかけ、例えば髪がフサフサの男を見かけたり、自分の悪口みたいなものが聞こえたりしたときなんかに、どーんと現実が襲ってきて苦しくなるというか。そういう日が月に何度かあって、すごく自暴自棄な気持ちになっちゃうんだよなー」
「あ、それ、なんとなくわかるかも」と奈月が言った。「うちの職場にすごく太ってる女の人がいるんだけど、その人は体型に関するコンプレックスを完全に超越してるように見えるの。食べたいものを我慢したくないからダイエットはしないって言ってて、毎日すごくおいしそうに菓子パン食べてる。なんだかとっても幸せそう。彼女は不都合なことから目をそらす達人なのかもしれない」
「そうなんだよ。そういう人もいるけど、俺は違うんだ。とすると……」
「とすると」と薫が続きを引き取った。「目をそらせないなら、やっぱりこの際、きちんと向き合うしかないんじゃない?」
「ハゲと向き合うかー」雄太は天井を見上げた。「でも、こうやって話をしたら、ちょっと楽な気持ちになった。今ならできるかもしれない。でもなあ、だからって、やっぱりどうしたらいいのかわからない。とりあえず、病院に相談にいくべき? でもなあ。うーん」
その後、これから雄太がとるべきハゲ対策について、三人で話し合いを重ねた。気がかりなのはコスト面だった。金をかけても効果が出なければ意味がない。そして、最終的に導き出した結論は、こうだった。
「プロに聞こう」
餅は餅屋。髪のことは髪のプロに聞いてみるのが一番だ。
ちょうど、薫の妻の兄が美容室を経営している。義兄は事件後もたびたびLINEのメッセージをくれたりして、こちらを気にかけてくれていた。
翌日、さっそく義兄に連絡をとってみた。雄太が「男の美容師は髪フサフサの陽キャばかりで気がひける。女の美容師にハゲの相談なんか死んでもしたくない」と言うので、薄毛ヘアカットにちょうどいい美容師がいないか相談してみたところ、茨城県水戸市にスキンヘッドの理容師がいるという。店は床屋だが、安くオシャレに仕上げてくれるということで、地元の学生にも人気なのだそうだ。まさに雄太にぴったりの店に思えた。さっそく、週明けの火曜日、一番客の少ないオープン直後で予約をとってもらった。
そして当日、なぜか三人そろって休みを取り、レンタカーを借りて、薫の運転で水戸へ向かった。もちろん、三人で出かけるなんてはじめてのことだ。ドライブ中、九〇年代のJ-POPを流しながら三人で熱唱した。そのとき、薫は妙に気分が高揚して、気づいたら二人に打ち明けていた。
「例の不倫相手のために、DEENの『このまま君だけを奪い去りたい』を歌って録音して、LINEのボイスメッセージで送ったことがあるよ」と。
笑われた。
「きちい、まじきちいっす。とくに選曲、逆に神がかってる」
雄太は涙を流しさえしながらそう言った。しかし、薫はなぜだか悪い気はしなかった。おそらく、これまでの生きづら会で、たびたび二人が過去の稚拙な恋愛アプローチを披露して笑い話にしているのを聞いていたからだろう。プレゼントを渡しただけで「警察を呼びますよ」と言われただの、告白したら「勘弁してくれ」と泣かれただの、この手のエピソードはまさに枚挙にいとまがないのだ。
二人とも、真剣ゆえの行動だった。しかし、相手からしたらただの迷惑でしかなかった。そのつらさ。恥ずかしさ。罪悪感。生きづら会でただ話して、ただ笑ってもらう。ただ気持ちを共有する。二人とも、そういった話をしたあとはいつも心が少し軽くなるようだった。
しかし今の薫は、そうはならなかった。
視界が少し、暗くなる。受け取った碧の気持ちを、一度でもきちんと考えたことがあっただろうか。
久しぶりの快晴で、窓から吹き込む風は夏の匂いがした。雄太が床屋で切ってもらっている間は、近くの喫茶店で奈月と二人で待っていた。雄太がつるつる頭で帰ってくるのではないかと二人でひやひやしはじめた午後〇時少し過ぎ、カランコロンと古臭いカウベルの音ともにドアが開き、雄太が現れた。
その瞬間、二人とも言葉を失ってしまった。なにせ、なにせ……。
「とっても素敵! 超イケメン!」
奈月が甲高い声で叫んだ。人気店らしく店内は混雑していた。全ての客が何事かとこちらを振り向いた。
「うるさい! バカじゃないの!」
雄太はこちらに駆け寄ってくると、慌ててそう言った。が、わずかにほころんだ口元が、まんざらでもない本心を表していた。
「だって、本当にかっこよくなってる。超イケメンだよ!」
「フッ。大げさだよ、奈月さんは」
確かに超イケメンは言い過ぎだと薫も思う。しかし、見違えるほど素敵になっているのは事実だった。薄毛は薄毛のままだが、清潔感が段違いなのだ。以前が残飯なら、今の雄太はおしゃれなカフェのランチだ。若い女子の前に出してもちっとも恥ずかしくない。
「一歩踏み出すだけで、こんなにもあっけなく世界は変わるのねえ」奈月がしみじみと言った。
その後は三人で事前に決めていた通り、有名な和食屋の納豆御膳を食べ、偕楽園を観光した。帰りの車内で、雄太と奈月は子供みたいに口をあけて眠りこけていた。
事故があったらしい。道はかなり混雑していた。夜空の下でまたたくいくつものテールランプ、あちこちで鳴るクラクション、車を降りて立小便をしだす男。懐かしい、とふいに思う。家族で出かけて、こうして渋滞にハマるといつも脳出血を起こしそうなほどイライラした。助手席で狸寝入りする妻の横顔。その眉間に刻まれた深いシワ。いつもきれいに塗られた爪。思い出すのは妙なことばかり。