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 一度も恋人ができたことがなく女性への恨みを抱える雄太が語るのは、自身のコンプレックスについてだった。試し読みでは、本作に出てくる「生きづら会」の様子がわかる章を一部おとどけします。本篇では語り手が抱えるコンプレックスや苦悩が明かされているので、書籍を要チェック!

 

 前回、六月第四週の生きづら会は、とても印象的な会になった。テーマは雄太が出した「容姿のコンプレックスについて」。
 会の冒頭で、雄太はこう宣言した。「今日は俺の髪の話をしたい。俺は実は、ハゲてるんだ」
 その瞬間、奈月も薫も言葉を失ってしまった。薫は、彼流の冗談なのだろうか、と思った。が、どうやらそうではなさそうだった。彼の顔つきはいたって真剣なのだった。
 しかし、雄太がいわゆる脱毛症の状態であることは、誰の目にも明らかなのだ。「実は……」などといった切り出しでわざわざ教えてくれる必要は全くない。乳幼児さえ、その言葉をしっていたら口にするはずだ。
「ハゲ」と。
「今まで誰に対しても、認めたことがない。自分は……ハゲてるんだって。いまだに職場とかでハゲいじりしてくる人がいるけど、いつも自分のことじゃないようにふるまってる。別の人のことを言ってるんだろって態度をとるんです。例えば、よく男同士の会話でさ、『うちの親父もじーちゃんもハゲてるから、俺もいつかハゲるかも、やべー』なんてことを言うやつがいるでしょ。そういうとき、俺は何も言わないか、どうしても何か言わなきゃいけない場合は、『そうだな、気をつけたほうがいいかもな』なんて、さも自分はハゲていないかのように言い返す。もっとストレートな表現でいじられたとき――例えば薄毛の芸能人にちなんだあだ名をつけられたり、俺の額を見ながら『まぶしいっ』とか言われたりしたときは、基本的に無視、無言、無表情。その話題が終わるまで、とにかく無反応でやりすごす。
 そういうことを続けてると、そのうち俺の頭部について、誰も何も言わなくなるんです。今は周りも大人だからそれで終わりにしてくれるけど、中学のとき……あ、俺、中学のときからハゲはじめたんすけど、それで、中学のときの友達は、とにかく外見をいじってくるやつばっかりで。毎日毎日ハゲいじりされて、最初は無理してリアクションしてたんだけど、もういい加減イヤになって、聞こえないふりとか、気づかないふりをするようになったら、いじりにちゃんとしたリアクションをしないつまんねーやつ認定されて、グループからハブられました。中学男子って、マジでしつこいんすよ。飽きもせず毎日毎日。薄毛の野球選手にちなんだあだ名とかつけてきて笑ったり、頭にぞうきん載せてきて笑ったり。バカ丸出しですよ。
 高校でも全く同じ。入学初日に『俺よりハゲてるやついて助かったぜ』って言いながら肩を組もうとしてきたやつがいて、思いっきり無視してやりました。そいつは全体的に髪が薄くて、ハゲてるっていうより、元から毛が少ないタイプというか。中学でも周りからいじられてたんでしょうね、俺と同じように。あの発言、あのしぐさで、あいつはいろんなことをアピールしようとしてたんだと思う。自分のハゲはいくらでもいじっていいから仲間外れにしないでくれよ、っていう周りへのアピール、俺に対しても、同じハゲとしてハゲをさらしながらノリよくやっていこうぜっていうアピール、でも同じハゲでも俺のほうが上だからなめんなよってアピール。そういういろんな思惑が、あの一瞬の態度に凝縮してた。
 中学のとき、『もっとハゲを売りにしろよ』って言われたことがあるんです。『じゃないとますますモテないぞ』って。いまだにその言葉が頭に浮かぶ。でも、できない、俺には、そんなの無理です」
 雄太の薄毛にまつわる話はその後も続いた。これまでの二十九年の人生で、数えきれないほどいじられ、からかわれ、それを徹底して無視してきた。その数々のエピソード。薫と奈月は黙って聞き続けた。興味深かったのは、その無視が自分自身に対しても向けられてきた、ということだ。
「とにかく髪について考えないんです。俺はハゲてるともハゲてない、とも考えない。自分の身の周りにハゲは存在しない、ハゲという概念そのものがない。だから当然、対策なんかしない。床屋にもいかない。薬も飲まない。調べもしない」
「なぜ、今になって認める気になったの?」
 奈月が聞いた。もっともな疑問だと薫も思った。
「この会を続けるなら、もう、無視はできないと思ったから」雄太は少し不服そうに言った。「三月に奈月さんが、女性同士で性の話ができない、って話をしたでしょ。あのとき、すごく、奈月さんは自分と向き合っている感じがした。その様子を見て、誰かに自分のことを語るためには、その前に自分自身と向き合うことが必要不可欠なのかもしれないって思った……というか。
 そもそも人間関係も含め、この生きづらい人生がはじまったのって、明らかにハゲはじめてからなんすよ。でもずっと、それを認められなかった、というか。だって認めると、矛盾が出てきますよね? ハゲてるのにモテる男もいる。ハゲてるのに人気者のやつもいる。じゃあ俺はなんなんだって。その矛盾に向き合うことが怖かった」
 そこから、男性とハゲの問題について、三人で思い思いに意見を出しあった。本当にハゲはモテないのか? 「ハゲそのものより、ハゲを気にしすぎて卑屈になっている精神が男らしくない、いっそ堂々としていればいい」などいう言説をよく耳にするが、それは正しいのか? なぜ、ハゲだけがそのように言われなければならないのか?
 なかなかこれといった結論は出なかったが、奈月がふいに口にした「女同士で『ハゲだけはイヤ』って話をしているのは、あんまり聞いたことないかもしれない」という発言は重要だと薫は思った。
 続けて、奈月はこう言った。
「あ、ごめん、わたし、女友達一人もいないから、女同士の会話はただ横で聞くだけというか、それは盗み聞きともいうんだけど、とにかくわたしはその盗み聞きをよくやるんです。まあ、それの是非は横においておいて。それでね、女同士で『食事代をおごってくれない人はイヤ』とか『不潔はイヤ』って話してるのはよく聞くの。『店員さんに対する態度が悪い男もイヤ』もよくあるな。雑誌のアンケートとかでもよく見る。でも、改めてちゃんと考えてみると、毛量だけにそこまでこだわっている女性っているのかな。そういえば、結婚相談所に入ってたときもね、男性の担当者によく言われたの。『この人は髪が薄いけどいい人ですよ』って。いつも不思議だったんだよね。わたしは男性の髪の毛について、一度も何も言ったことがないのにって」
「確かになあ」と薫も腕組みをして、考えながら言った。「雄太君の前でこんな話をするのは気が引けるけど、『年齢のわりに毛量多いですね』って他人からよく指摘されるんだ。今まであんまり深く考えてこなかったけど、それを言ってくるのは男のほうが多いかもしれない。いやそうだな、男のほうが圧倒的に多いな」 
 その後、話し合いはハゲだけにとどまらず、なぜ男同士は互いの欠点をいじりあい、からかいあうことをコミュニケーションの主軸としてしまうのか、といったものに移りかわっていった。確かに、それは薫にも身に覚えのあることだった。小学生のときから、四十を過ぎた今でもそうかもしれない。セクハラ騒動の渦中にあったときさえ、からかったりいじったりすることでなぐさめたつもりになっている同僚医師が何人かいた。
「薫さんみたいな優等生でもからかわれることってあるんですか? じゃあ例えば、今までで一番むかついたからかいってなんですか?」
 しかし雄太にそう聞かれ、真っ先に思い浮かんだのは、男同士のコミュニケーションとは無関係のことだった。
 妻のことだ。
 大学二年の夏。交際中だった妻が弁当を作ってきてくれた。しかし、量が多すぎて、半分近く残してしまったのだ。
「えー、男のくせにわたしより食べられないの? ダイエットしてる中学生女子じゃないんだから」
 妻にそう言われ、それまで感じたことのないほどの怒りを覚えた。それから彼女とは二週間、口を利かなかった。
 今ならわかる。妻もせっかく作った弁当を残されて、気を悪くしてつい言ってしまったのだろうと。それでもいまだに思い出すとムカムカして、タイムスリップして過去の妻を殴ってやりたい、とさえ思う。
 あのとき以来、他人と外食するのを避けるようになったのだ。とくに、男だけの集まりで焼肉にいくなどといった誘いは絶対に断る。胃腸が弱く少食だというコンプレックス。そんなものはたいした問題ではないと思っていた。しかし、案外根深いものだったのか?
 この話をしたい。雄太や奈月のように語ってみたい。胸骨の奥から熱い衝動のようなものが、ふいにわきあがってくる。
 しかし、ほんの一瞬で、花火みたいに、消えてしまう。
「うーん、あったと思うけど、忘れてしまったな」
 薫はそう言った。
 その後まもなく、その日の生きづら会はお開きになった。