毎回テーマに沿った自分の話をし、他の人はただそれを聞く「生きづら会」。そこに、奈月の従兄弟の薫も参加表明をし……。試し読みでは、本作に出てくる「生きづら会」の様子がわかる章を一部おとどけします。本篇では語り手が抱えるコンプレックスや苦悩が明かされているので、書籍を要チェック!

 

「ごめん、忘れてた」
 と電話口で奈月は言った。「そういえば来るの、今日だったわ」と。
 奈月はこの「忘れてた」が異様に多い。冷蔵庫のドアの閉め忘れ、弁当箱の出し忘れ、トイレの流し忘れ。同居して二カ月、三十回以上の「忘れてた!」を聞いたのではないか。医療事務の前は看護師をしていたと聞いて、雄太は空恐ろしい気持ちになった。奈月に看護してもらうぐらいなら、自ら死を選んだほうが苦しまずに済みそうだ。
 電話口で「優しくしてあげて」と奈月が言ったので、雄太は犯罪者にコーヒーを入れてやった。すると、犯罪者は無表情でこう言った。
「アルコールとカフェインは控えてますので」
 もう何もしてやるものかと思った。犯罪者の存在を無視してリビング全体に掃除機をかけ、ついでにテレビの真上にあるエアコンを掃除した。それから夕食の支度をした。少し迷って、仕方なく犯罪者の分も用意した。
 今日の献立は、鶏のささ身フライとポテトサラダとナスの味噌汁と白飯。ささ身が安かったので多めに買っておいた俺に感謝しろよ、と思いながら、雄太は食卓に座る犯罪者の茶碗に、炊き立ての飯をよそってやった。
 犯罪者の名前は呉田薫という。奈月の父の兄の子供、つまり父方の従兄弟だ。奈月より八歳年上の四十五歳。元整形外科医。雄太も以前清掃員として働いていた藤沢の病院に勤めていたが(おそらく奈月はこの男のコネで事務センターに入ったのだろう。でなければあの立派な病院に正社員として採用されるはずはない)、去年クビになった。
 准看護師に対する強制わいせつ行為で、逮捕されたから。
 雄太は長く整形外科のあるフロアで清掃作業をやっていたので、薫のことは事件前からしっていた。そして、事件の被害者となった准看護師との不倫の噂も耳にしていた。看護師たちは清掃員を人間ではなくロボットと認識しているので、こちらの存在を全く気にせず大きな声で陰口や噂話を口にする。ただ、不倫相手からなぜ強制わいせつ行為で訴えられることになったのかについては、噂に尾ひれがつきすぎて、雄太にも真相がよくわからなかった。
 今、犯罪者こと呉田薫は、雄太の目の前で雄太が作ったささ身フライを黙々と食べている。マズそうにメシを食べるところが、彼の隣に座っている奈月とそっくりだ。
 今後は、この男もこの家でしばらく暮らすという。つい数カ月前に実家を追い出されてネットカフェに寝泊まりしていた自分が、縁もゆかりもない北千住で友達でもない見知らぬ男女とともに暮らしていくのかと思うと、妙な気分だった。しかし、食費と家事代をあわせて月三万、この男から徴収することになったので、雄太としては何の文句もなかった。
「あ、忘れてた」
 ふいに奈月が言った。ささ身フライを箸の先でちょこちょこつつきながら(こういう行儀悪いしぐさをするときは、腹いっぱいの合図だ)。
「この後、薫兄ちゃんも、参加したいって」
「え?」
「『生きづらさを克服しようの会』に。ね? 薫兄ちゃん」
 犯罪者はうつむいていた。医師で、見たところ身長は百八十センチ近くあり、四十代半ばにしては異様なほど髪がフサフサ、もちろん結婚していて子供もいて、持ち家が目黒にあり、そして、若い女の子へのわいせつ行為で逮捕された男。
 そんなもの、生きづらいとは言わない、と雄太は思った。傲慢な生き方をしてきたツケが、回ってきただけだ。

「話しやすい雰囲気を作るため」と言って、奈月はいつも照明を消し、いくつかのキャンドルをともす。飲み物は雄太が用意する。コーヒーか紅茶が多いが、今夜はカフェインNGを主張する犯罪者がいるので、仕方なくそば茶を三人分入れた。
 リビングのローテーブルのまわりに三人そろい、準備が整うと奈月が「じゃあ、はじめましょうか」と言った。
「こないだの続きからやる? 雄太さんが言ってた、女性の守備範囲の話」
 雄太は薫の顔をチラッと見て、姿勢を正した。「ああ、あの話ね」と答え、一つ咳払いする。
「女の守備範囲が狭すぎるって話ね。俺、そのことについてここ数日考えてみたんですよ。なぜ、女の守備範囲がこんなに狭いのか。男は結婚となると多少慎重になるけど、女は結婚するわけでもない、ただ付き合うだけの相手でも、生理的嫌悪がどうとか言って、大抵の男にNG判定を食らわす。そのせいで、少数のイケメンや金持ち男に女が群がり、残った大多数の男が女と縁のない苦しい人生、すなわち生きづらさを味わうことになる。これ、調べたら結構、アメリカとかもそういう男性が多くて、ネットで生きづらさを訴えたりしてるみたいなんだよね。つまり、この点――女の守備範囲の狭さ――を改善することで、生きづらい男性が大幅に減るんじゃないかと思う。そもそも女が言う『生理的に無理』ってなんなのか。あなたにもあるでしょ? 例えば、どんな男性に生理的嫌悪を抱きます?」
「えっ。うーん、えっと」と奈月は少し顔を引きつらせつつ、答える。「とくにないけど……えっと、うーん、しいていえば、ヒゲが濃すぎる人とかは、ちょっと無理かも……」
「はい出たー! 女はいつもそれ。男は汚いもの、という前提で見てるんだよなあ。男を構成する要素、ヒゲとか体臭とかちょっとおおざっぱな性格とか、そういうものを悪いもの、汚いもの、不潔なものとしてとらえすぎなんですよ。俺は不思議で仕方がない。男は女の女性的な要素を決して嫌わないのに。なんで女ってそんなに傲慢なのか」
 そんな調子で話しているうちに、あっという間に三十分過ぎていた。話していると喉が渇く。自分のマグカップは空だった。二人のマグカップにはまだたっぷりのそば茶があったので、自分の分のコーヒーを入れようと、そばにセットしてある電気ケトルのスイッチに手を伸ばしかけたとき、「あの……」と声が聞こえた。
「あの、ちょっといいかな」
 薫だった。
 雄太は伸ばした腕をひっこめて、テーブルに向き直る。なぜか少しむっとしてしまいながら「なんですか」と聞いた。
「僕、実は心療内科から紹介されて、性依存症の人が集まる自助グループに参加してたことがあるんだ」
 セイイゾンショウ、という音が頭の中で“性依存症”と変換されるまでに、少し時間がかかった。そのあと続けて“タイガー・ウッズ”という単語が脳裏に浮かんだ。
「性依存症といってもいろんな人がいて」と薫は無表情で淡々と話した。「痴漢がやめられない人とか、盗撮で何回もつかまっている人とか。そういう人たちが集まって、いろんな話をするんだ。ほら、映画とかでたまに見ませんか? アルコール依存症の人たちが匿名で集まって、自分の話をする会みたいなの」
「AAAミーティング、とかってよばれてるやつですね」雄太は得意げに言った。「生い立ちとか、酒飲んでやらかしてしまった話とかするやつ」
「そう、話すことで気持ちが解放されるし、何より自分の問題が客観視できる。君たちのやっているこの会も、基本的にはそれが目的じゃないかと思うんだけど……なんというか、やり方が少し間違っているような気がする」
 そう言ったあとで慌てて薫は「いや、本当は間違いとか正しいとか、決めつけはしたくないんだけど」と早口で付け足した。
「どういうやり方が正しいの?」奈月が興味深そうに聞く。
「僕の参加してた自助会にはルールがあって、まず大事なのは、聞いた話をよそで口外しないこと。まあ、これは当たり前だよね。あとは誰かの話を批判してもいけないし、割り込んでもいけない。基本は語ることが目的で、議論とは違うんだ。もちろん不要なアドバイスもしてはいけない。でも、さっきまで聞いていて、何よりも違うなと思ったのは……一般論じゃなく、あくまで自分の話をするべき、ということなんだよ」
「一般論って?」と雄太は即座に返した。胸の内側がむずむずする。自分の話が、いや、自分自身が否定されようとしている、そんな予感。
「君の話はとても興味深いよ」そう言う薫はあくまで淡々としていた。「でも、この会では男が、とか女が、とかではなく、あくまで自分を主語にして話をしたほうがいいと思うんだ。自分の話。恋愛や性の話をしたいなら、あくまで自分の恋愛や性の経験で、つらかったことや開放したい思い出を話す。聞く側は口出ししないし、否定もしな……」
「いやでも、いきなり自分の恋愛や性の話をするのってハードル高くないですか? それにねえ、男だけの場ならまだしも、ここには女性もいるしさあ。女性の前で性の話なんて、セクハラになりかねないんじゃないかな」
「わたしは……構わないけど」奈月がぼそっとつぶやいた。
「いや、俺は構いますね」雄太はきっぱりと言った。「性の話なんて女の前でできない。それが普通でしょ。誰だってそうですよ。その性依存症のグループに女性はいたんですか?」
「いなかった」とあっさり薫は言った。「さっきも言ったように、痴漢とかの性犯罪の加害者もいたからね。女性の性依存者ももちろんいるけど、そういう人たちは、過去に性被害経験のある人が多いみたいなんだ。加害者と被害者がそういう場に同席するのは、難しいだろうね」
「じゃあこの会も無理ってことなんじゃないですか? 男女でこんな会をやるってこと自体に、無理があったってことっすよ。まあ、今回で解散ってことでも……」
「待って」奈月が言った。「じゃあ、今日はわたしの話をしてもいい?」