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 奈月の従兄弟の薫は、とある理由で妻子と別居している。医者という輝かしい経歴を捨てた彼が語るのは……。試し読みでは、本作に出てくる「生きづら会」の様子がわかる章を一部おとどけします。本篇では語り手が抱えるコンプレックスや苦悩が明かされているので、書籍を要チェック!

 

 薄暗い部屋の中、キャンドルの炎がゆらゆら揺れている。奈月が「それでは今日の生きづら会をはじめます」と宣言してから、すでに十分が過ぎた。雄太が入れたアイスミントティーの氷は、もうだいぶ溶けてしまった。
「ねえ、薫兄ちゃん。やっぱり本来のテーマの『怒り』に戻す?」
 沈黙を破って、奈月が言った。薫は無言のまま、膝の上の自分の拳を見つめていた。
 ついさっき、会の冒頭で、薫は思い切って二人に頼んだのだ。
「今日のテーマを変えてほしい。あみだくじが一生当たらない気がする。自分の失恋の話がしたいんだ。というか、例の不倫のことを聞いてほしい」
 しかし、いざ話そうとすると頭が真っ白になってしまった。何をどう説明すれば、二人に誤解されずに済むか。あれはセクハラではなかったと、恋愛だったと、二人にどう話したら、正しく理解してもらえるか。
「よし! やっぱりテーマを『怒り』に戻します!」奈月がパンと大きく手を叩いて言った。「じゃあ薫兄ちゃん! 今までの人生で一番ムカついた話をしてください! はい! どうぞ! はい!」
 奈月は続けてパンパンパンと手を叩いた。薫は顔をあげ、奈月の目を見る。
「はい! はやく!」
「今までで一番ムカついた話」薫はそう、口の中でもごもご繰り返した。
「そうです! ムカついたことならなんでもいいよ。犬の糞を踏んだ話でも、何でも。はい! どうぞ! 5、4、3……」
「妻が……」
 自然と、その単語が口をついて出てきた。俺の怒り。妻の顔、言葉。そのとき、気づいた。自分が話したかったのは碧のことじゃなかったんだと。妻のことだ、と。
 薫は語りはじめた。

「『この人みたいに淡泊でつまらない人が、不倫なんかするわけがない』って言われたんだ、妻に。病院の理事や弁護士がいる前で。不倫相手からセクハラで訴えられることになって、その話し合いをしているときのことなんだけど。
 その集まりでの議題は、そもそもどうやってセクハラを否定するか、ということだった。俺は、不倫は認めていたから。俺が医師という立場を利用して関係を強要したという、相手の主張は正しいのか。同意の上での関係ではなかったのか。そういうことを話し合う場だったんだ。でも、とにかく妻がヒステリックになってしまって、全然、話が進まない。『この人が不倫なんかするはずがない、ましてセクハラなんてありえない、相手の女は大嘘をついている』ってみっともなく取り乱しながら叫んでて、本当にもう収拾つかなかった。
『この人はすごく淡泊な人なんです』とか、『結婚前、付き合ってたときから性的なことに全く興味がなくて、同性愛者かもしれないって周りに相談してたぐらい』とか、『結婚後も全然夫婦関係はなくて、子供をつくるために数回した程度』とか。そういうことを恥も外聞もなく一方的にまくしたてて、誰の言葉にも全く聞く耳を貸さない。
 淡泊、淡泊ってやたら言っててさ。今でもその言葉は大嫌いだよ。その言葉を妻が言うたび、怒りが腹の中でどんどん膨らんでいって。この場で殴ってやれたらどんなにいいだろうかって本気で思った。後から考えたら、俺は、妻をこらしめてやりたかったんだと思う。そのためには、碧……その……不倫相手との関係を、妻に、証明してみせるしかなかった。
 その頃、不倫相手は、俺とのことで精神的に病んで仕事を休んでて。俺は、禁止されていたのに、彼女の家にいってしまった。
 平日の昼間だった。火曜日だったな。昼過ぎで、雨が降ってた。何もかも覚えてるよ。何十分もインターホンを鳴らし続けてさ。やっと出てきてくれた彼女はやつれきって、泣きはらした目をしてた。髪の毛をピンク色のゴムで一つにしばってたこと、着ていたTシャツの柄と靴下の色、全部覚えてる。
 玄関でもまた三十分ぐらい押し問答して、やっと室内に入れてもらえた。使い古したちゃぶ台越しに向かい合って話した。二人でそんなふうに話したのは、あのときが最初で最後だったな。
 彼女の言葉のすべてが、俺にはショッキングすぎて、断片的にしか覚えてないんだけど、だいたい、こんなようなことを言ってた。『先生は自分にとって雲の上の存在だから、最初に車で体を触られたとき、怖くてさからえなかった』とか、『ずっとやめたかったけど、話をきいてもらえなかった』とか、『友達に不倫をやめたいって相談したら、それは不倫じゃなくセクハラだよって教えられた』とか。
 その友達っていうのは男なんだよ。家族ぐるみの付き合いをしてる幼馴染とかで、しょっちゅう彼女に電話をかけてくるやつで。そいつが俺をハメようとしてるんだって、そうとしか考えられなくなった。そいつさえいなければこんなことにはならなかった、そのことで頭の中がいっぱいで。そのときふと、彼女が言ったんだ。
『先生に、ずっと聞きたかったことがある』って。彼女が妻に電話したとき、『うちの夫は性に淡泊だから女に手を出すはずはない』と言われた、と。でも、彼女のしってる俺は、淡泊なんてものじゃない。
『どっちが本当の先生なんですか』って。
 そのとき、自分でもよくわからない感情にとらわれた、というか。ああいうふうに、取り乱す、っていう反応が自分の身に起きたことが、今までの人生で一度もなかった。気づいたら嫌がる彼女を、そう、嫌がってた、彼女は嫌がってたんだ、そんなにはっきり抵抗されたわけじゃなくて、いつもそうだったから、いつも彼女は、やんわり拒絶した。俺は、女性なら体裁を保つためにそれぐらいの拒絶はしてしかるべきだし、そこを強引にいくのが男だと思いこんでたんだよ。とにかく俺は、そんな彼女の体を強引に、ベッドに押し倒した。
 服を脱がせている途中で、彼女が『生理中だから』って言った。だから、最後まで行為はせず、途中まで、その、いわゆる挿入行為はせず、途中まで彼女にさせて、その様子をスマホで撮影しようとした。
 妻への証明のためだった。うん、そう、俺は証明したかったんだよね。俺は淡泊な男じゃない、決して。家族を養うために黙々と働くだけのロボットでもない。一人の女性と熱烈に愛し合うことのできる、男らしい男なんだと、妻に知らしめてやりたかった。
 でもその後、服を脱がしているときに弾みで彼女をベッドから落として、頭をテーブルにぶつけて怪我をさせてしまって、目的は完遂できなかった。そこではっと我に返って、手当もせずに、逃げた。
 幸い、ケガは軽症で済んだよ。でもこの行動のせいで逮捕されることになった。当然だと思う。俺がやったことは、犯罪だ。
 誤解でも行き違いでもなんでもない。俺は、今までずっと認められなかった。俺がしていたのはあくまで恋愛であって、セクハラでも、まして犯罪なんかじゃない。彼女を愛していたから、すべて愛ゆえの行動だったんだって、信じ続けてた。違うよね、俺は、加害者だったんだよね」

 その後、スイッチが切れたように薫は黙り込んだ。雄太と奈月が二人で何かこそこそ話していたが、あまり耳に入らなかった。その間に生きづら会はお開きになった。雄太がホットのミントティーを淹れ直し、手作りのアップルパイをテーブルに並べた。
 アップルパイは小さな円形で、中心部が網目になっている。その網のところをフォークでつついてみると、サクッと音をたててパイが崩れた。その瞬間、甘い香りがふわっと鼻先を漂い、薫は一口食べずにはいられなかった。りんごのフレッシュな甘みと、シナモンのほのかな刺激が口に広がる。
「こんな手のこんだもの、いつ作ったの」奈月が聞いた。「すごくおいしい。お店のものみたい」
「たいしたことないよ。パイは冷凍シート使ったし。今日の昼にささっと作ったよ」
 毎度、生きづら会の終わりに食べるスイーツを、薫も奈月もとても楽しみにしていた。とくに奈月は、普段の食事は残してばかりなのに、雄太の手作りスイーツとなると、あまった分までぺろりと食べてしまうこともある。
「……あの、奈月はさ」ようやく薫は口を開いて、姿勢を正した。そして、あたたかいミントティーで喉を潤す。「俺の話を聞いて、不愉快じゃなかった?」
「え? どういう意味?」
「女性として、俺のことを気持ち悪いと思わない?」
「うーん」と奈月は難しい顔で黙り込む。「……まあ、自分が実際に被害にあったら恐怖かもしれない。でも、この会では、どんなエピソードが飛び出しても、否定したり非難したりしたくない。それをやったら、この会はもう終わりだから」
「そうだね、ありがとう」薫はささやくようにつぶやく。「あの、話しながら気づいたことがあるんだけど。俺はずっと、過去の不倫のこと、あ、いや、セクハラと事件のことに、きちんと向き合わなくちゃいけないと思ってた。反省しなくちゃいけないって。ここで話すことで、向き合えるんじゃないかと思ってた。それはでも、今改めて考えてみると、最終的には彼女と和解することが目的だったんだよね。いつか会って謝りたい。もう一度会えたときのために、彼女に許してもらえる自分になっていたい。そんな自分本位のことばかり考えていた。もちろん今後も反省は必要だけど、それとは別に、俺は、もっと家族のこと、というか妻との……」
 そのとき、そばにおいてあったスマホがブブっと震えた。ショートメールだ。
「あ、きっと妻からだ」
「え、妻の話をしてたら、妻から連絡?」奈月が自分の頬を両手で挟んで言う。「それって生霊~」
 薫は笑いながらメールの内容を確かめた。それは、妻からではなかった。
 泥棒からだった。

 

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