又兵衛が部屋から抜けだすと、長元坊も焼き鏝を提げたまま従いてくる。
「又よ、おもいだしたぜ。あさってのは、十年前に拐かされた指物師の娘だったな。たしか、下女奉公していた商人の一人娘とまちがえられ、御殿山の門前で花見帰りに拐かされた」
商人は身代金を要求されたが、奉公人を救うための金は払えぬと突っぱねた。それ以来、あさは行く方知れずとなり、町奉行所は下手人に繋がる端緒を得ることもできなかった。人違いで拐かされた娘のはなしは次第に忘れられていき、半年も経たぬうちに人々の口の端にものぼらなくなった。
「何でか知らねえが、おめえはあんとき、必死になって娘の行方を追っていた。十年経った今なら、理由をはなしてくれてもいいんじゃねえのか」
父につづいて母も逝き、天涯孤独になったころの出来事だ。春雨の降るなか、増上寺の近くを当て所も無く彷徨いていると、十五、六の娘が露地裏で濡れた子犬を抱きあげて暖めようとしていた。
「そいつが、あさだったのか」
「ああ」
なぜ、声を掛けてくれたのかはわからない。娘の直感で、放っておけば死んでしまうとでもおもったのか。ひょっとしたら、拾った子犬に向けるのと同じ憐みを抱いたのかもしれない。
あさは奉公先で頼りにされるのが嬉しいと言い、気に入っている自分の名は居職の父親が付けてくれたのだと、自慢げに教えてくれた。
──どんなに辛くても、明けねえ夜はねえ。誰にでも朝はやってくる。だから、愛娘にあさと付けたんだって、おとうが教えてくれたんだよ。
行きずりの娘に言われた台詞が胸に沁みた。自暴自棄になりかけていた心が洗われたようにおもった。だから、数日後に拐かされた娘の名を聞いたとき、又兵衛は居ても立ってもいられなくなった。
「それだけのはなしだ」
「なるほど、ようくわかったぜ」
あさは傷ついたからだを引きずり、高輪から数寄屋橋御門内の南町奉行所までやってきた。
最後の力を振り絞り、もっと生きたいと訴えたかったにちがいない。
又兵衛は駆込みのはなしを聞き、宿命のようなものを感じたのである。
十年経ってようやく、雨の日の借りを返す機会が訪れた。
十五の娘に言われた台詞に助けられ、どんなに辛くても明けぬ夜はないと、あれから何度胸に繰りかえしてきたことか。
又兵衛は来し方を振りかえり、過酷な宿命を呪ったのである。
どうして、ふつうに暮らしていたあさが掃き溜めに堕とされ、挙げ句の果てに死なねばならなかったのか。
拐かされた経緯をきっちりと調べあげ、供養してやらねばなるまい。
又兵衛の強いおもいを、長元坊も汲みとっていた。
「さてと、つぎは太刀魚だな」
焼き鏝を溝に抛り、海坊主は袖を颯爽と靡かせる。
品川宿を牛耳る十手持ちが相手となれば、すんなり片付くはずはなかろう。
ふたりは昼なお暗い露地裏から抜けだし、松林のざわめく東海道へ戻っていった。
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