文政ぶんせい四(一八二一)年如月きさらぎの終わり、亀戸かめいど大森おおもりの梅も咲きそろったころから、性質たちの悪い風邪かぜ流行はやりはじめた。流行り歌にちなんで「ダンボ」と名付けられた風邪は江戸市中を席捲せつけんし、裏長屋では年寄りたちがばたばた倒れ、小石川こいしかわ養生ようじようしよは貧乏人たちで足の踏み場もないほどに埋めつくされた。
 第十一代将軍家斉いえなりの在位三十四年目のことである。
 数寄屋すきやばし御門ごもん内の南町みなみまち奉行所ぶぎようしよでは、与力や同心たちが布切れで鼻と口をおおい、たがいの間合いを遠く取りながらしやべっていた。どうながめても奇妙な光景だが、布切れを持たずに出仕しゆつししてきた者はことごとく、みなから白い目でみられた。
 例繰方れいくりかた与力よりき平手ひらて又兵衛またべえだけは、白い目など気にするふうでもなく、どこにでもあるようなつらさらしている。
「はぐれゆえ、あやつには何を言うても暖簾のれんに腕押しよ」
 と、上役たちもさじを投げた。
 はぐれとは仲間をつくらぬというほどの意味で、与えられた例繰方の役目はそつなくこなす。むしろ、何千にもおよぶ類例るいれいをすべて記憶しているので頼りにされているのだが、上役に追従ついしようする器用さもなければ、同輩や下役の同心たちといつこんみかわす親しみやすさも持ちあわせておらず、周囲からは「くそおもしろうもない堅物かたぶつ」と目されていた。
 よわい三十八で独り身、肌の色が浅黒くてひょろ長いことを除けば、これといって特徴はない。たしかに、仏頂ぶつちようづらが板に付いた「堅物」にしかみえぬものの、小者の甚太郎じんたろうだけは敬意を込めて「ばんの旦那」と呼んだ。
 鷭は夏の水面みなもに浮かぶ鳥、驚いたおなごのように「きゃっ」と鳴き、身を覆う羽毛は黒くて頭だけが赤い。
「お怒りになると、月代さかやきが真っ赤に染まりなさるのさ」
 と、甚太郎は三月みつき前にたまさか修羅しゆらを見掛けたことを自慢する。
 何でも、油屋の娘を手込めにしようとした暴漢ども五、六人が、芝居しばいまち露地ろじうらで又兵衛らしき者からこっぴどく痛めつけられたらしい。夜目に遠目だったことも重なり、人違いであろうと、はなしをまともに信じる者はいなかった。「くそおもしろうもない堅物」が市中で人助けなどするはずもないし、五、六人相手に大立ちまわりを演じられるほど強くもなかろうと、誰もが口をそろえたのだ。
 甚太郎は地団駄じだんだを踏んで口惜くちおしがった。悪漢どもから江戸を守る門番ゆえ、せっかく門番の「番」と「鷭」を掛けたのに、誰も聞く耳を持とうとしない。「鷭の旦那」と呼ぶのは今は自分ひとりだが、いずれは奉行所じゅうにわかってもらえるだろうと、甚太郎は大いに期待しているようなのである。
 当の又兵衛は意に介さない。「鷭の旦那」と呼ばれようが呼ばれまいが、どうでもよかった。
 かといって、心を動かされるものがまったくないわけではない。つきあいが悪いため、今のところは誰も知らぬだけだ。それに、みなから「はぐれ」と目されているほうが気楽だとわかっている。だいいち、面倒な縁談を持ちこまれずに済む。それひとつだけ取ってみても「はぐれ」でいることには、充分な利点があるとおもっていた。
「昨晩遅くに、駆込かけこみがあってな」
 布切れ越しにむにゃむにゃ喋っているのは、年番ねんばんかた与力の「やまちゆう」こと山田やまだ忠左衛門ちゆうざえもんであろうか。染め残したびんの白さからせば、まちがいあるまい。
「駆込みでござるか」
 こちらも布切れ越しに空惚そらとぼけてみせるのは、吟味ぎんみかた与力の「おに左近さこん」こと永倉ながくら左近さこんであろう。四角い顔が大きすぎるので、布切れからえらがはみだしている。
 ふたりは玄関左脇の廊下で立ち話をしており、又兵衛が例繰方の御用部屋から顔だけ出してのぞいても、知らぬふりをして顔を引っこめても、気にも掛けずにはなしをつづけていた。
「訴えたのはみすぼらしい身なりのおなごでな、名はあさと申す。名だけを漏らし、門前で力尽きてしもうたとか」
「ほう、死んだと」
「さよう。右手にふみを握りしめておってな、文には『さぎんじにころされる』とつたない字でつづられておったらしい」
「それはまた、物騒な文面にござりますな。あさと申すおなごは傷を負っていたのでしょうか」
「刃物傷はなかった。その代わり、ごてで焼いたあとは随所に見受けられたそうじゃ。ひどい責め苦を受けたすえの衰弱死に相違そういない。骨と皮ばかりで、ものもろくに食べておらぬ様子であったという。おおかた、さぎんじなる者に囲われておったのであろう。哀れなものよ」
「さりとて、哀れなおなごは江戸にいくらでもおります。死んだおなごの訴えを取りあげてやるほど、奉行所はひまではござりませぬぞ」
「わかっておる。常であれば、おなごの訴えはなかったことにいたすが、そうもできぬ雲行きでな」
何故なにゆえにでござりますか」
「決まっておろう、御奉行じゃ。筒井つつい伊賀いがのかみさまが運悪く駆込みのことを小耳に挟まれてな、今朝一番でわしを御用部屋へ呼びつけ、この一件どうにかせよとお命じになったのじゃ」
「ふふ、新任早々、はりきっておいでのご様子」
 鬼左近は苦笑し、皮肉めいた口調でつづける。
「伊賀守さまは何せ、昌平しようへいこうきっての秀才と評されるほどのお方、しかも、長崎ながさき奉行の任にあったときでも賄賂まいないをいっさい受けとらなんだと聞きました。清廉せいれん潔白けつぱくぶりは折紙付きといううわさがまことなら、勝手を任されておられる山田さまもさぞかし気苦労がえぬことかと、ご同情申しあげまする」
 山忠は布切れの内で、ふうっと溜息ためいきを漏らす。
「どうにか、恰好かつこうだけでもつけてもらえぬだろうか」
「致し方ござりますまい。山田さまに頭を下げられたら、嫌とは申せませぬ。ここはひとつ貸しということで、お引き受けいたしましょう。つぎの吟味方筆頭与力は、何卒なにとぞそれがしに」
「ふむ、考えておこう」
 おおかた、鬼左近からまわかたの同心へ命が下され、鼻のく岡っ引きや小者どもが町じゅうを走りまわることになるのだろう。
 又兵衛は聞きながそうとしたが、哀れなおなごの名だけは記憶にとどめてしまった。
「あさ……」