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 小机のうえに山と積まれているのは、吟味方によって公事くじの経緯や罪状が記された御調おしらべちようである。捕らわれた者の口書くちがきも添えてあり、これらを類例に照らし合わせ、適用される刑罰を導きださねばならない。
 遠島えんとうになるのか、死罪になるのか、死罪より一等重い獄門ごくもんになるのか、罪人の命運を握っていると言っても過言ではないと、意気込んではみても、たいていは吟味の段階で刑罰はほぼ定まっている。駄目押しで刑罰の確定をおこなったり、沙汰さたの下書きを推敲すいこうしてかたちを整えたり、老中への上申じようしんしよにわかりやすく類例を添えたり、例繰方に課されているのは他からみれば地味な役目にほかならなかった。
 それでも、三つ年上で先任与力の中村なかむらかくはいつもはりきっている。
「よいか、われら例繰方はおさばきにおいて最後のとりでとならねばならぬ。お裁きがとどこおりなく進むかいなかは、例繰方の力量ひとつに掛かっておるゆえ、心してお役目にいそしむように」
 毎朝、下役の同心たちに向かって性懲しようこりも無く訓示くんじを垂れ、眠気覚ましに冷めた茶を大量にむせいか、かわやに立つ回数は多いし、冬でも鼻の頭に汗をいていた。
 例繰方は奉行やうち与力よりきに呼びつけられる機会も多い。ことに、赴任ふにんしたばかりの筒井伊賀守のようにきっちりした性格の町奉行は類例を事細かに吟味するので、第八代将軍吉宗よしむねのもとで編纂へんさんされた公事くじかた定書さだめがきひやつ箇条かじよう明和めいわのころから約五十年にわたって作成されている仕置しおき例類れいるいしゆうくらいはそらんじられるほどになっていなければならなかった。
 もっとも、御定書百箇条と例類集は評定ひようじようしよで評議をおこなう町奉行、寺社奉行、勘定かんじよう奉行の三奉行と京都きようと所司しよしだいならびに大坂おおさか城代じようだいにたいしてのみ在職中に交付され、それ以外の者は閲覧えつらんを禁じられている。本来ならば、例繰方の与力といえども閲覧さえできぬ代物しろものであった。
 とはいうものの、物事には本音と建前があり、南北町奉行所の例繰方詰所にはかならず、ぼろぼろになった写しが置かれている。新入りは何代にもわたって引きがれてきた写しを頭に入れることからはじめねばならぬのだが、又兵衛はその作業を三日も掛からずに終えてしまった。
 おそらく、類例の数は七千を優に超えていよう。それらを順不同で問われても、間髪かんはつれず、一言一句たがわずに述べてみせられる。帳面に綴られた文字を記憶する力だけは生まれつき抜きんでており、中村もその点だけは一目置かざるを得ないようだった。
 ただし、同心たちから気軽に「についての刑罰は」と問われても、又兵衛はいっさい耳を貸さない。底意地が悪いのか、はたまた、応じぬことが指南だとでもおもっているのか、だんまりを決めこむので、次第に問う者もいなくなった。
 御用部屋にあっても、又兵衛は「はぐれ」なのである。
 みずからに課された仕事はすみやかにこなし、部屋の連中がどれだけ忙しかろうが、定刻になったらさっさと片付けをしはじめる。小机のうえにはいっさい物を残さず、ばこや帳面はみずからの定めたところへ、きっちり納めないと気が済まない。
「おさきに失礼つかまつる」
 と、言い残して部屋を後にしたところで、舌打ちする者さえいなくなった。
 今の季節、日没はあっという間にやってくる。
 ひのきの香りが漂う玄関から雪駄せつたを履いて式台を降りれば、長屋門ながやもんまでまっすぐ延びる六尺幅の青板には夕陽が斜めにしこんでいた。
 又兵衛はまぶしげに眸子まなこを細めて足早に歩き、左手の小門のほうへ向かった。
 町奉行所の正門はつ(午後六時頃)まで開いているのだが、与力といえども捕物とりもの出役でやくの助っ人以外で正門を通り抜けてはならない。
 狭い小門をくぐって砂利じやりを踏みしめたところへ、小者がひとりすっ飛んできた。
「鷭の旦那」
 通りをへだてた対面には、訴人そにんの待合にも使う葦簀よしずりの茶屋が五軒ほど建っている。そのうちの一軒から飛びだした小者は、しま木綿もめん小倉こくら角帯かくおびを締めた甚太郎にほかならなかった。
「鷭の旦那、お疲れさまでござんす。じんじん端折ばしよりの甚太郎をお忘れですかい」
 胡座あぐらを掻いた鼻の穴をおっぴろげ、亀のように首を伸ばしてくる。
 いつもなら無視を決めこみ、門前で待つ中間ちゆうげんともども帰路をたどるところだが、甚太郎は腰に差した真鍮しんちゆう金具の木刀をでながら、胸をりかえらせてみせた。
「旦那もお聞きおよびかと存じますけど、あさっていう駆込み女の素姓すじようがわかりやしたぜ」
 それがどうした、例繰方には関わりあるまいと、胸のうちささやきつつも、又兵衛は横に歩きかけた足を止め、得意げな甚太郎が導くに任せて往来を横切ると、萌葱色もえぎいろのぼりがはためく茶屋の奥へと消えていった。