甚太郎は給仕の娘に茶と名物の味噌みそ蒟蒻こんにやくを持ってこさせ、周囲を気にしながら喋りはじめた。
「必死の訴えを届けることもできずに、門前であえなく死んじまった。あさは哀れなおなごでござんす。鷭の旦那なら、放っておくはずはねえ。はなしを聞いてもらえるとおもっておりやしたぜ」
 熱い眼差しを向けられても、又兵衛は黙然もくねんと茶をすするだけだ。
 ついでに味噌蒟蒻をひとつ頬張ほおばり、美味うまそうに咀嚼そしやくする。
 甚太郎は小鼻をぷっとふくらませた。
しば高輪たかなわ車町くるまちようかくしばいしよがありやしてね、抱え主は剃刀かみそり銀次ぎんじと申しやす。あさを囲っていたのはたぶん、そいつにちげえねえ」
 髪結かみゆいあがりの小悪党で、寺の住職どもに女郎を斡旋あつせんして稼いでいる。廻り同心の紐付ひもつきとなり、密訴みつそ生業なりわいにしていた時期もあった。じかには知らぬが、噂に聞いたことはあったので、甚太郎はぴんときたのだという。
「あさの握りしめていた文にゃ『さぎんじにころされる』と書いてあった。そいつを小耳に挟んじまったそばから、縄手なわてをひとっ走りしてきたんでさあ。そうしたら、案の定、左銀次のもとから、あさっていう女郎がひとり逃げだしていた。年は二十五だそうです。場末ばすえの隠売所に置いとくにゃもったいねえほどの縹緻きりようしで、山吹やまぶきっていう源氏げんじで呼ばれておりやした。車町の山吹といやあ、近所で知らねえ者もいねえほどだったとか」
「山吹か……」
 又兵衛は遠い目をしながら、溜息とともに漏らす。
「ひょっとして、お知りあいで」
 ふいに尋ねられても応じず、又兵衛は大儀そうに腰を持ちあげた。
 床几しようぎの端に小銭を置こうとすると、甚太郎があわてて引き留めにかかる。
「旦那、はなしはまだ終わってねえ。左銀次にゃ、おっかねえうしだてがおりやす。品川しながわ宿しゆくの裏を仕切る太刀魚たちうお茂平もへいっていう元締めで。名前くれえは聞いたことがおありでやしょう」
「いいや、知らぬ」
「おっと、そうですかい。茂平を知らねえとは恐れいったな。さすが、世間知らずの例繰方……おっと、口が滑った。ともかく、一筋ひとすじなわじゃいかねえ相手でやんす。でも、あっしはどうしても、左銀次みてえな下種げす野郎が許せねえ。熱いでしょう。どうしてここまで熱くなるのか、聞いていただけやせんかね」
 涙目で懇願こんがんされ、又兵衛は仕方なく腰を下ろす。
 苦くなった茶の残りを呑み、味噌蒟蒻の味噌を指ですくってめた。
 ぐすっと、甚太郎は洟水はなみずを啜る。
「同じ裏長屋に住む居職いじよくの娘が借金のカタに取られ、岡場所に売られちまったんです。岡場所から隠売所へ落とされ、十年ものあいだ、好きでもねえ男どもに身を売らされたあげく、娘は抱え主のやつに折檻せつかんされて死んじまった。偶さか、ほとけを目にする機会がありやしてね、調べてみたら腹にも背中にも焼き鏝を当てられた痕がありやがった。誰がやったのかは、わからず仕舞じまいになりやした。どうせ、左銀次みてえな鬼畜の仕業しわざでやしょう。あっしは娘の肌に焼き鏝を当てるようなやつが許せねえ。どうしても、許せねえんでやすよ」
 又兵衛はうなずきもせず、すっと立ちあがった。
 甚太郎がそですがりついてくる。
「旦那、左銀次なんぞはにすぎねえ。鵜飼いの茂平をどうにかしなくちゃならねえんだが、茂平のやつは十手じつてを預かっておりやす。だから、小者にゃ手が出せねえ。廻り方の旦那に訴えたら、こっちがひでえ目にうだけなんです。くそっ、茂平に泣かされている娘は大勢いるってのに。あっしは、十手をかさに着た壁蝨だにみてえな連中が許せねえ。旦那だって、そうでしょう。江戸っ子なら、茂平や左銀次みてえな悪党どもをのさばらせておくはずはねえ」
「言いたいのは、それだけか」
「えっ」
「おぬしは勘違いしておる。江戸に住んでおる者がみな、江戸っ子気質かたぎというわけではあるまい」
「はあ。でも、旦那はどうするおつもりで」
「どうするとは」
「悪党どもを懲らしめてやらねえんですかい」
「懲らしめるのは、例繰方の役目ではないからな」
「だったらどうして、ここにお越しになったので」
 怒りをふくんだ目で問われ、又兵衛は平然とこたえた。
「味噌蒟蒻を食いにきただけさ」
 がっくり肩を落とす甚太郎を尻目に、急ぎ足で茶屋から逃れていく。