時代小説界の至宝、坂岡真が放つ令和最強のシリーズ『はぐれ又兵衛例繰控』 の魅力を書評家の田口幹人さんが紹介する。
■『はぐれ又兵衛例繰控【一】駆込み女』坂岡真
今年は、コロナ禍の1年だったといえるのではないだろうか。今からちょうど200年前の文政3年(1820年)の9月下旬から、ダンボ風邪と呼ばれる病が流行し、翌年2月にはその第2波が猛威を振るい、「一家十人なれば十人皆免るる者なし」といわれるほど広がったと記録されている。
坂岡真著『はぐれ又兵衛例繰控【一】駆込み女』は、ダンボ風邪が大流行していた文政4年2月、南町奉行所の与力や同心は、布切れで鼻と口を覆い、互いの間合いを遠くしながら会話をしていたという記述から物語が始まる。200年前の江戸でも、マスクを着用し、ソーシャルディスタンスを保ちながら暮らしていたのか、という妙な親近感を覚えニヤリとしてしまう。
本書は、幕政が腐敗し綱紀の乱れが横行していた江戸を舞台に、刑律や判例を熟知している例繰方与力にして、香取神道流を極めた剣客である平手又兵衛が、唯一心許せる幼馴染み・鍼灸揉み療治の長元坊とタッグを組み、市中にはびこる闇が引き起こす負の連鎖に迫る物語だ。
時代小説界に新たなヒーローが誕生した! と言いたいところだが、奉行の下で刑律や判例を調べる例繰方の又兵衛は、過去の判例を整理し判決録を保存することで吟味方をサポートする38歳の冴えない独身の男である。
同僚と交わることもせず、粛々と己の仕事をこなすタイプの堅物で、机上の帳面や文筥、さらには茶わんや皿の置き方にまでこだわりを持ち鬱陶しいほど細かい性格の男、というヒーローとは程遠い人物である。周りからはぐれ者と思われていることさえ望んでいる風変わりな又兵衛は、裏切り、騙しあい、謀略など、自身のまわりの理不尽な禍をもたらす者達を、香取神道流を極めた腕で成敗する正義感の強い別の顔を持っている。そんな又兵衛が繰り広げる物語は、おそらく多くの読者の心を摑むだろう。
本書の魅力はそれだけではない。しっかりとした読み応えのある中編で構成された、洒落、謎解き、恋情と、バラエティに飛んだ3編が収録されているが、いずれも現代の問題が物語の中に盛り込まれている。特に、コミカルになりがちな時代小説の笑いを、シリアスな情況に紛れこませた洒落っ気で表現した『駆込み女』は秀逸だった。
個性的な脇役たちやクセやアクの強い面々が次々と登場するが、読み進めてもその面々は未だ影を潜めている。彼らは今後、又兵衛とどのようにして絡んでいくのだろうか。そして又兵衛の日々の暮らしがどのように変化していくのか、「はぐれ又兵衛例繰控」から目がはなせない!