終夜営業のファストフード店に飛びこんだのは、明るい場所に避難したかったからだ。助けてくれたとはいえ、よく知らない男性と夜道に立ち尽くしているのはおそろしかった。
 明るいを通り越して無礼なほどに強い照明の店内で向き合い、あやしいものではありませんと渡された名刺の「松木圭太」の上の「株式会社カドクラ繊維」という社名で、ようやく相手が誰だかわかった。
 松木が運んできたコーヒーに口をつける頃には、震えもおさまった。
 松木はコーヒーを飲んでから「落ちつきましたか?」と言い、清瀬は頷いた。
「よくあることなんですけど、やっぱり毎回怖いです」
「よくあるんですか」
 顔をぎゅっとしかめて「もっと言うたったらよかったな」と窓の外を見る。まださっきのふたり組がそのあたりをうろついているかのように。
「きっぱりはねつけてやったらよかったんですよ、あんな失礼なやつら」
 松木にそう言われて、自分の頬が、ゆっくりと熱を帯びていくのを感じた。清瀬はその熱を最初、羞恥だと勘違いした。
「それは、あなたが男やから言えることです」
 反論してから違うと知った。羞恥ではなく、怒りだ。わたしは今怒っているのだ、と自覚した瞬間、言葉があふれ出た。
 夜の屋外で、あたりには人通りもなく、相手は自分よりずっと身体の大きい男性、しかもふたりだった。へたに刺激したらなにをされるかわからないという恐怖が、あなたにはわからないでしょ、とまくしたてた。男にはわからない。男には、わかるはずがない。
 松木は目を丸くして、それから深く息を吐いた。
「たしかにそうですね……そうか。俺、想像力かな、いや配慮なんかな、なんか、いろいろ欠けてましたね」
 すみません、と素直に謝られて、かえって清瀬が狼狽ろうばいした。こちらこそ、いいえ、ほんとに、としばらく頭を下げ合って、それから、どちらからともなく笑い出した。
 この人、いい。そう思った。くっきりとした「好き」ではなく、ましてや欲情などではぜったいになく、淡くしみじみとした「好ましい」だった。
 そのあとコーヒーを二度おかわりして、いろいろなことを話した。数時間は喋ったはずだし、楽しかったということは覚えているのだが、会話の細部は忘れてしまっている。
 松木は布製品の卸売の会社で営業をしていると言った。昭和かなと思うような古い会社だとひとしきりこぼしたあとで清瀬の職場を「おしゃれ」「おしゃれなカフェ」と連呼するので笑ってしまった。同い年だと判明した瞬間がたしか、いちばん盛り上がった。
 ひとしきり話した後で「じつは今日、『クロシェット』で食事しようと思って来たんです。閉店時間を勘違いしてて、間に合わなかったんですけど」と松木が打ち明けた。
「そうだったんですね」
「……このあいだの店員さんが、あなたが、いたらいいなと思って来ました」
 あなたは今日はついてない日だったかもしれないけど、俺はついてました、と恥ずかしそうに笑っていた松木。
 あれは六月のことだった。そのあと何度か会って、つきあいはじめて、あの頃はほんとうに毎日が楽しかった。ささいな口論はあった、何度もあった、でもその都度仲直りした。もしあのままうまくいっていたら、交際一周年を祝ったりしていたのだろうか。「もし」なんて考えても無意味だけど、でも。
「お待たせしました」
 その声とともにオムライスの皿が置かれて、清瀬は現実に引き戻される。伝票を置く店員に「ありがとうございます」と頭を下げた。
 三、二、一。頭の中で数えてからスプーンを挿し入れる。湯気が勢いを増し、黄色い卵はとろとろと崩れ落ちる。その下のケチャップライスもすくって、ことさらに大きく口を開けて食べた。食べよう。こんな状況だからこそ。
 松木になにがあったのか知りたい。ほんとうに喧嘩をしたのだとしたら、よほどの理由があったはずだ。交際しているあいだ、清瀬は松木が誰かに暴力をふるう姿はおろか、不機嫌になって声を荒らげる姿すら見たことがない。あらゆる記憶の箱を開け、ひっくりかえしてみても、暴力性の片鱗のようなものさえ見当たらない。最後に会った日もそうだった。清瀬が一方的に怒ってなじって、松木はただ困った顔をしていただけだった。
 やさしくて、素直で、まっとう。清瀬にとって松木はそういう人物だ。
 でも――ほんとうにそう言い切ってしまっていいのだろうか。ほとんど機械的にオムライスを口に運びながら、清瀬は考え続ける。
 もちろん小さな不満はいくつもあった。松木のLINEが、いつもなかなか既読にならないこと。電話に出ないということも、しょっちゅうあった。時には一週間以上連絡がとれないことも。
 毎回スマホを忘れたとか落としたとか、落としたから持ち歩かないようにしている、だからすぐに返信できなかったんだとか、そんなふうに言い訳していた。清瀬は「へえ、そうなんや」と頷いていたが、内心では「またか」とあきれていた。
 それにあの日だって、と思う。どれほど質問を重ねても「言えない」の一点張りだった。だからこっちも頭に血がのぼって、つい飛び出してしまったのだ。
 あれから何度も電話やメッセージのやりとりをした。あのことちゃんと説明して、話して、と清瀬が言うたび松木はかたく口を閉ざし、そのせいでやりとりの最後はいつも喧嘩で終わった。