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 ひどい一日だった。店の鍵を閉めてから、清瀬はその場にくずおれそうになる。今日の品川さんの「やらかし」は「ホールのど真ん中で、人目もはばからずわんわん泣いた」ことだ。カフェの店員としてあるまじき行為だ。しかも泣いた理由は「容姿のことを言われたから」だという。
 男性ふたりと女性ひとりの客だった。うち一名が隣のテーブルを拭いていた品川さんに「そこのおねーさん」と声をかけ、品川さんはそれに応じなかった。「自分に話しかけられていると思わなかったから」だという。
 無視された、と感じた女性が品川さんの袖を引っ張り、品川さんは驚いて、その手を払いのけてしまった。はずみでグラスが倒れ、驚いた男性が品川さん曰く「容姿をおとしめるような発言」をした。
 気持ちはわかるけどさ、とひとりごちて、清瀬はなんとか立ち上がる。今回はあきらかに客のほうが悪い。でも、そもそも品川さんが最初に呼ばれたことにすぐ気づいていたら起きずに済んだトラブルだ。店員はいつどの方向から呼ばれるかわからないのだから、周囲の客の様子は始終気にしておくべきだと清瀬は思う。
 店の鍵を再度確認してから「CLOSED」の立札の位置をちょっと直した。夜の十時を過ぎてもなお昼間の日光をたっぷりと吸った舗道の熱が足元からはいあがってきて、清瀬の体温を上昇させる。
「品川さん。ほんとうに、呼ばれたことに気づかなかったんですか?」
 ひっくひっくと泣きじゃくる彼女に、清瀬は懸命に怒りを抑えながら言った。あなたいつもそうですよね。ほんとうはそう言いたかった。ふたつ以上のことが同時にできないタイプというか、たとえばテーブルの片付けの最中に他に気になるところがあると、すぐその場をほっぽり出してそっちに行ってしまう。ドリンクを運んでいる最中に他の客から呼ばれると、ドリンクを持ったままその客のところに直行する。ただひとこと「少々お待ちください」と言えばすむ場面なのに。他ならぬ本人が「わたし、どうもマルチタスクっていうのが無理みたいで」と話しているのを聞いたことがあるが、それにしたって限度があるだろうとつい思ってしまう。
「あのね品川さん、世の中にはひどい人だっていっぱいいるんです。わたしだってそうです。ブスとか言われたり、逆にキャバクラかなんかと勘違いして、手握ろうとするような気持ち悪い客だっていっぱいいました。でもそういうのってね、まともに受け止めてたらもう接客業とか無理なんですよ」
 数時間前に品川さんに伝えた言葉は、そのまま清瀬が日頃から自分自身に言い聞かせている内容そのものだった。適当に受け流さねば潰れる。職場を共にする者が末永く働けるように、清瀬なりの処世術を伝えようとした。でも品川さんは「でも、ほんとうに傷ついたんです、わたし」と耳を貸さなかった。
 重いため息をついて、頭の中で三つ数え、なんとか足を動かした。三つ数えることにたいした意味はない。気が重い時、疲れている時、次の行動にうつるきっかけとしてやる。誰かからそうしろと教わったわけでもないのに、いつのまにか身についた癖のひとつだ。
 ひどい、ひどい一日だった。そういえば出勤前にゴミを出す時廊下でゴミ袋がやぶれて往生したし、ガムも踏んだし、品川さんはあんなだし、青木くんもあのあとオーダーを間違えた。
 今日はもうビールでも飲んで寝てしまおう。本の続きはまた明日。明日は二週間ぶりの休みだ。
 空腹だが、自分が今なにを食べたいのかがわからない。冷蔵庫になにが入っていたかも思い出せない。パン、ハムと卵ぐらいはあっただろうか。コンビニに寄るのは億劫おつくうだ。なんせ自分が食べたいものがわからないのだから。弁当やサンドイッチの棚の前で買うものを決めかねていつまでもうろうろする自分の姿が容易に想像できる。かといって食事を抜くことは考えられない。
 品川さんは、もとは別の店舗で面接を受けて採用された。オーナーに呼び出され、「ちょっとこの子、きみに預けたいんやけどな」と履歴書を押しつけられた瞬間から、手に負えないタイプなのだろう、という予感があった。
 履歴書には誰もが知る有名大学の名と意志の強そうな太い眉と賢そうな広い額をもつ彼女の写真があった。これほどの学歴があればどこにでも就職できるだろうと思ったが、職歴には「なし」と書かれていて、意外に思ったことを覚えている。
 人を育てるのもきみの仕事やからね、ともっともらしいことを言っていたオーナーの顔を思い出して舌打ちをしそうになる。性格が悪そうに見えるから舌打ちする癖をやめたほうがいいと忠告してくれたのは誰だっただろうか、もう忘れてしまった。
 いや嘘だ。それは違う、ちゃんと覚えている。『夜の底の川』のほんとうの持ち主。生活に支障が出るから、なるべく思い出さないようにしているだけだ。
「失礼なこと言うほうが悪いんじゃないんですか? 客ならなに言ってもいいんですか?」
 そんなこと言ったって客が来なければ店はつぶれるし、わたしたちは職を失う。そう言いたかったのに言えなかったのは、彼女が正しいとわかっていたから。目を赤くして主張する品川さんは一分の隙もないほど正しかった。品川さんはいつだって正しい。以前、常連客を怒らせた時だってそうだった。
 常連客はオーナーの知り合いの女性だった。ただそれだけの理由で「紅茶に添えるレモンは五ミリの厚さに切ってくださる?」などと、超絶にめんどうくさい注文をしてくる、注文することが許されると思っている、あの女性。
 めんどうくさい彼女のオーダーを断るのは、本来ならば店長の清瀬の役目だったのだ。それなのに、オーダーを断るよりも言うとおりにしたほうが楽だとばかりに思考を鈍らせ、彼女の言いなりになっていたのは、清瀬の怠慢だった。
「あ、できません」ときっぱり言い放った品川さんを、青木くんは常識がないのだろうと表現したし、清瀬も否定しなかった。でも、もしかしたらあの時「常識」とはどういうことか、みんなでしっかり話し合うべきだったのではないだろうか。ほんとうに責められるべきは自分なのに、彼女ひとりに押しつけてしまったのではないか。
 品川さんは、清瀬に見たくないものばかり見せる。考えたくないことばかり考えさせる。したくない後悔ばかりさせる。
 肩からかけた帆布のトートバッグの中で、スマートフォンが振動していた。手に取ると、休憩中にかかってきたのと同じ番号が表示されている。切ろうとして、間違えて通話ボタンを押してしまった。もしもし、もしもし、と切羽詰まったような声が聞こえてくる。
「原田清瀬さんですか」
 その言葉のあとに、病院の名が続いた。
松木まつき圭太けいたさんという男性をご存じでしょうか」
 反射的に「いいえ」と答えそうになってしまった。「そんなやつ知りません」と意地を張りたいような気分だったが、病院からの電話だなんて、ただごとではない。松木がどうかしたんですか、と問い返す声が震える。