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 どう使用するのやら、清瀬には見当もつかない灰色の装置の陰で、彼らの様子をうかがう。仕切りのカーテンが開いて、年配の女性が出てきた。太めの身体に、短く切った髪。意識不明の男性の母親かもしれない。秋田と村本は清瀬の時と同じく彼女を廊下に誘導した。清瀬はすこし離れたところに立って、聞き耳を立てた。
「松木くんはそんな悪い子と違います」という女性の叫び声が聞こえた。この人は松木と知り合いなのか。
 秋田たちが話を終え、女性は急ぎ足で集中治療室に戻った。その体が、カーテンに隠れて見えなくなる。秋田たちを見送ってから近づいたら、カーテン越しにすすり泣くような声が聞こえてきた。清瀬はゆっくりとその場から離れる。
 すぐに帰る気にもなれず、清瀬は病院の中を落ちつきなく歩きまわる。壁にはり出された面会制限に関する注意書きのポスターを見上げた。体温が三十七・五度以上ある方はご遠慮ください。入院病棟に入る前にアルコール消毒をお願いします。未就学児の面会はお断りしています。面会時間を三十分以内に制限しています。
 先月までは面会自体が禁止されていた、という意味のことが書かれている。もし、という仮定には意味がないが、松木がここに運ばれていたのが先月以前だったら、顔を見ることすらかなわなかったのかもしれない。
 真新しい、きれいな病院だった。三階までは吹き抜けになっていて、エスカレーターで行き来できる。市内にこんな病院ができていたなんて知らなかった。
 今は暗くてよくわからないが、中庭も美しく整えられているようだ。やたら広いが、あちこちに大きな文字の案内表示があるから迷子になる心配も少なそうだった。
 案内表示の矢印のひとつが、左に向いていた。食堂、と書かれている。一階に食堂があることを知ると同時に、清瀬は空腹を感じた。矢印を確かめ、歩き出す。こんな時にもしっかりと食事をとろうとする自分を、強欲かつ冷淡な人間のように感じた。
 食堂はしかし、すでに閉まっていた。がっかりしながら病院から出たところで、ファミリーレストランを発見する。来た時は気が動顛どうてんしていて、目に入らなかったのかもしれない。
 窓際の席につき、メニューを開いて目に入ったデミグラスソースのオムライスを注文した。店員が去った後で、それが松木の好物だったことを思い出す。
 テーブルに両肘をつき、両手でぴったりと顔を覆いながら、清瀬は今起こっていることを整理しようと試みたが、浮かぶのは断片的な松木の記憶ばかりだった。片頬にのみ浮かぶえくぼや、夜中に冷蔵庫を覗きこんでいる時のすこし丸まった背中や、それからペンを持つ手の動き。
 清瀬が最初に心惹かれたのは、松木本人ではなく松木の書く文字だった。ほれぼれするような迷いのないしなやかな曲線、きっぱりとした直線で構成された文字たち。松木は『クロシェット』に客として来ていた。
『クロシェット』はケーキ類のテイクアウトができる。その日、テイクアウト用のカウンターに立っていた清瀬は、ガラスケースの前に立って長いこと腕組みをしている男性の存在には、もちろん気づいていた。顔を近づけたり一歩下がったり、首をかしげたりして選べずにいるらしいことはわかったが、じろじろ見るわけにはいかないので「あなたのほうを見てはいないけど存在は認識していますし、あなたが注文を決めた時にはすぐに応対できますよ」と知らせるために「視線は直接向けないが、顔と身体だけは男性のほうを向いている」という状態で待機していた。
 しばらくそうしていたのだが、男性が「はー、ぜんぜんわからへん」とつぶやいたのが聞こえたために「お困りですか」と声をかけた。
「仕事のトラブルの謝罪で手土産として持っていくお菓子なんですけど、どういうのがいいか、さっぱりで。ちなみに女性が多い事業所なんですけど、ええと、七人中六人ぐらい」
 これとかどうですかね、と男性がロールケーキを指さしたので「それはやめたほうがいいと思います」と即答した。清瀬は『クロシェット』に勤める前、フリーペーパーをつくっている小さな会社で雑用のアルバイトをしていた。手土産を受けとる機会も多かったが、切り分けて皿に載せねばならない大きなケーキやカステラなどをもらうと、ほんとうにうんざりした。めんどうだし、社員たちはみんな自分の机に書類やらなんやら散らかしていて、皿を置こうとするといつも「邪魔だ」と叱られる。
 男性は清瀬のすすめたとおり、賞味期限が比較的長い、個包装の焼き菓子を購入した。「領収書ください」と頼まれたが、清瀬は男性が口にした「株式会社カドクラ繊維」という社名の「繊」の字が思い出せなかった。うーんと眉根を寄せている清瀬を見て、男性はすぐにメモ用紙に大きく「繊」と書いた。その字の美しさに驚いた。
 領収書を頼まれた際に清瀬が漢字をど忘れして書けなかったことは、それまでにもよくあった。『クロシェット』で働きはじめたばかりの頃に「あんた、こんな簡単な漢字も知らんの?」と年配の女性客に怒鳴られ、恥ずかしいやらくやしいやらでバックヤードで泣いてしまったこともある。
 清瀬が「ありがとうございます」と頭を下げると、男性は「この字、ごちゃごちゃしてますから無理もないです」となんでもないことのように笑った。字の次に、その笑いかたをいいと思った。相手を上にも下にも置かないような、平たい態度。それができる人は残念ながらあまり多くないのだということは、接客業に携わってから嫌というほど思い知らされた。
 再会したのは、一か月後だった。閉店後に清瀬が店のドアに施錠をしていると、背後から声をかけられた。若い男ふたり組で、かなり酔っ払っていた。
「お仕事終わりなん? お姉さーん」
「どっか行こうや、お姉さーん」
 無視しているといきなり肩を掴まれ、顔を覗きこまれた。
「あれ、かわいく見えたのに前から見たらあんまたいしたことないな」
 笑われて、頭に血がのぼった。
 その時「お待たせ」と誰かが割りこんできたのだった。それが「繊」の字の男性だと、すぐにはわからなかった。ふたり組への警戒で心と身体が硬直していたし、わけのわからないことを言う第三の男の登場に混乱と恐怖はピークに達していた。しかし男性が清瀬に「行こうか」と促し、彼らをまっすぐに見て「この人になにか用ですか?」と強い口調で訊ねると、ふたりはへどもどしながら去っていった。
「あの、だいじょうぶですか」
 そう声をかけられるまで、清瀬は自分が震えていることに気づかなかった。その時ようやく、助けてもらったのだと理解できた。