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 清瀬が病院に到着した時、松木は集中治療室の寝台に寝かされていた。意識不明の重体だという。かたく目を閉じた松木の顔はずいぶん青白く、頬にできたり傷が痛々しかった。松木が発見されたのは駅の北口に続く歩道橋の下で、ひとりの男性とともに倒れていたという。救急車を呼んだのはたまたまその場に居合わせた女性だった。「歩道橋の上で互いの胸倉をつかみ合って喧嘩しているふたりの男性が見えて、警察に通報したほうがいいと思いバッグの中のスマートフォンをさがしているあいだに彼らがバランスを崩し、階段を転げ落ちてきた」と話している。松木は左足を、もうひとりの男性は右足を骨折している。ふたりとも命に別状はないが、病院に運ばれて数時間経過した現在も意識が戻らない。
 松木は携帯電話も財布も持っていなかった。ポケットの中にアパートの鍵が入っているきりで「鍵についていた金属製のホイッスルの中からこれが」と看護師にごく小さな紙片を渡される。
 ホイッスルは、かつて清瀬が松木にあげたものだ。プレゼントというほどたいそうなものではなかった。防災用のものをネットショップで買ったら二個入りだったので、ひとつをおすそわけした。その程度のものだったのに、松木は躍り上がるようにして喜んだ。
「いらんかったら捨ててくれていいし」
 清瀬はそう言ったのだが、「とんでもない」と首を振り「キヨチからもらったんやで、そんなん大事にするに決まってるやんか」との宣言どおり、鞄につけてみたり財布につけてみたり、はたまたチェーンを通して首からさげてポーズをとってみたり、たいへんなはしゃぎようだった。
 キヨチ。松木は清瀬をそう呼んでいた。「原田さん」が「清瀬さん」になるまで一週間、「清瀬ちゃん」になるまで一週間、それが清瀬になり、名を縮めて「キー」と呼ばれるようになり、「キー子」「キー侯爵」「キー伯爵令嬢」などとよくわからない変貌を遂げていき、最終的に「キャロライン伯爵令嬢」という原形をとどめていない呼び名になり、人前で呼ばれるのがとても恥ずかしかった。それは呼ぶほうも同じだったようで、結局ふだんはシンプルに「清瀬」、機嫌のよい時や、ふたりきりの時は「キヨチ」の使い分けで落ちついた。
 清瀬のほうは「松木さん」が「松木」に変わっただけだ。下の名前の「圭太」で呼ぶタイミングを逸しつづけたまま、会わなくなってしまった。
 ホイッスルは中が空洞になっていて、そこに筒状に丸めた紙片が入っていた。紙片には自分の氏名や住所、血液型を書く欄があり、松木はうきうきとした様子でペンを取り出し、記入しはじめた。
 そうして、「緊急連絡先」の欄に行き当たった時、ふと顔をあげ「ここ、清瀬の電話番号書いてもええ?」と言ったのだった。深く考えずに「ええよ」と答えると、松木はまたうれしそうにうなずいて電話番号を記し、丁寧な手つきで紙片をまるめてホイッスルにおさめた。
 そんなことは、今日まで思い出しもしなかった。松木もまた、このホイッスルを誰にもらったか、自分がこの紙片に誰の連絡先を書いたか、とうに忘れていたのかもしれない。
 電話口で看護師が清瀬に「この男性とどういった関係なのか」という趣旨の質問をした時、清瀬は「えっと……婚約者です」と嘘をついた。そうでも言わねば個人情報保護が云々と渋られてくわしいことを教えてもらえないに違いないという判断が咄嗟とつさにはたらいたのだ。
 バインダーのようなものを胸にかかえた看護師は清瀬と向かい合って立っていたが、誰かに呼ばれて足早にその場を離れた。話の途中で放り出されたかっこうになったが、むしろありがたい。
 婚約者って。あらためて、自分のついた嘘が恥ずかしくなってくる。けれどももし正直に答えようとしたら確実にぐだぐだした説明になってしまった。
 松木との関係ですか。ええ、松木とは今年の二月までつきあってました。忘れもしない去年の夏、七月につきあいはじめ、あ、はじめて会ったのはそのすこし前ですけどね、とにかくつきあってました。ました、って過去形なのは、二月から今日までずっと会ってなかったからです。「別れよう」とはっきり言い合ったわけじゃなくて、なんか喧嘩みたいになっちゃって、そのあと例のウイルスがあれだったじゃないですか、不要不急の外出を避けてくれって言われたら、やっぱ人に会ったりしていいの? 大事な人だからこそ今は会っちゃいけないんじゃないの? なんて悩むじゃないですか。
 それに、こっちも仕事のこととかでいろいろごたごたしてて、それでなんか今日までそのままみたいな感じで、わたしは松木と別れたいなんてもちろん思ってなかったし、いやでも、向こうはどう思ってたか知らないです、知らないですけど連絡はとってました、でも話すと毎回ぎくしゃくしてしまっていたんです。そもそも向こうが隠しごとしてるのが原因やのに、ほんと、ほんとなんです。あの、ね、どう思います? わたしたちの関係、もうだめになりかけてたんでしょうか?
 この状況で、看護師にそんな話をするわけにはいかない。
 もう一度、眠る松木を見る。複数の管につながれた痛ましい姿。ひさしぶりの再会がこんな状況だなんて、想像もしていなかった。
 歩道橋の上で喧嘩。胸倉を掴み合って。相手は知り合いだろうか。それとも赤の他人なのか。いずれにせよ、清瀬にはうまく想像できなかった。清瀬の知る松木は、いつでものんきそうに笑っている。誰かと争ったり暴力をふるったりするような人間だとは、とうてい思えない。
 廊下の先で、看護師はふたりの人間を相手に喋っている。背の高い女と、中背だががっしりとした身体つきの男。看護師が清瀬のほうを振り返ると、そのふたりも清瀬を見た。ゆっくりと近づいてきて、廊下に出てくれないか、と清瀬に耳うちする。女はパンツスーツ。男もスーツだがネクタイはしていないし、ジャケットもズボンもシャツも全体的に皺だらけだ。
「原田清瀬さんですね」
 差し出された名刺には警察署と書かれていた。ドラマでよくあるように黒い手帳を見せたりしないのだな、と思いながら受けとる。女のほうは秋田あきた、男のほうは村本むらもとというらしい。
 松木との関係をかれ、婚約者だと答えると、村本が「最後に会ったのは?」と手帳を開く。
「二月です。二月の末」
「二月末? ずいぶん前ですね」
「いや、だって今日までずっとステイホームとかいろいろ言われたし。連絡はとってましたよ」
 話すたびに喧嘩になっていましたとは、言わなくてもいいだろう。
「ああ、はあ」
 村本が疑わしげな眼差しで清瀬を見つめ、頬をいた。秋田はそれをたしなめるように軽くにらんでから、松木には他に身寄りがないのかとたずねた。
「いえ、ご両親も健在だったと思います。東京にいるって聞いてます。ただ、ふだんはあまり連絡をとらないと言ってました。だから緊急連絡先にわたしの名前を」
「なるほど。実家の住所はわかりますか?」
「いえ、それは」
 秋田はなにごとかをたしかめるように清瀬の目をじっと覗きこむ。
「婚約者なのに?」
「すみません。松木はあまり家族の話をしなかった……しない、ので」
「そうですか。じゃあ七月二十三日、今日ですね。今日の十九時十分頃、どこでなにをしていましたか」
 ああ、ドラマでよくあるやつ、と思う。自分は今刑事と話しているのだ。奇妙に現実感が薄いというか、レンズ越しに世界を見ているように目の前の光景が遠い。
「仕事中でした」
「証明できる人は?」
「……スタッフ全員と、あとはお客さんでしょうか」
 クロシェット、と村本が店名を手帳に記録するのを見ている。ふしぎな鉛筆の持ちかただ。中指と人さし指がどうなっているのか、ちょっと見ただけではよくわからない。
「あの、松木になにがあったんでしょうか」
「それを今調べているところです」
 秋田と村本が意味ありげな目配せをし、やがて秋田が写真を見せる。免許証かなにかの写真を拡大カラーコピーしたもののようだった。この男性をご存じですかと訊かれて首を振る。
「もしかしてこの人が、あの、松木の喧嘩の相手ですか」
 秋田は答えない。村本もむっつりと黙りこんでいる。部外者には教えられないことが、きっとたくさんあるのだろう。部外者。そう思ったら、すうと足元が寒くなった。自分はやっぱり、部外者なのか。
 秋田と村本は一瞬鋭い視線を交わし、それから清瀬に礼を言って集中治療室に戻っていく。集中治療室は巨大な正方形になっていて、部屋の真ん中は緊急の処置をおこなうための場所のようだった。仰々しい機械がならんでいる。それをぐるりと取り囲むようにベッドが設置されていて、彼らは松木と反対側のベッドのほうに向かった。清瀬はこっそり彼らのあとをついていく。