Chapter1 2020年 7月23日の原田清瀬
ニーナが消えたあの日、夏の終わりの夕方、ぼくはごく短い眠りから目覚めてすぐに、彼女がいなくなったことがわかった。冷房で冷えきった身体を起こすと、胸の上に置かれていたなにかが落ちた。それは一冊の本だった。一ページにひとつアルファベットが書かれた、小さな子どものための絵本。どうしてそんなものを彼女が置いていったのか、その時のぼくにはわからなかった。
窓から夕陽がさしこんでいた。ベッドの端に、白いブランケットが置き去りにされていた。ニーナはそれを『ブランカ』という愛称で呼んでいた。わたしのブランカ、と。肌寒い夜にはふたりしてそれにくるまった。あるいはくるくると丸めたそれを抱えて眠ることもあった。離れたところから見ると、白い犬を抱いているように見えたものだった。
「ニーナ」とぼくは彼女の名を呼んだ。ニーナがいつも座っていた椅子に向かって。誰もいないバスルームの、彼女がいつも覗きこんでいた鏡に向かって。返事はなかった。
「あなたはわたしのことを、どれだけ知っている?」
ぼくが眠りに落ちる直前、ニーナがそう言ったことを思い出した。ぼくは落ちてくるまぶたを懸命に押し上げながら、髪をブラシで梳く彼女を見た。ニーナはぼくに背を向けていた。彼女の髪は黒く、艶やかだった。街の夜の底を流れる静かな川のように光を内包し、ゆたかに波打っていた。
「どれだけ知っている?」とニーナがまた言った。「言ってちょうだい」
「どうしてそんなことをきくの」
「どうしてもよ」とニーナ。
「なんだって知ってるさ」とぼくは答えた。それから眠った。
ぼくはなにひとつ知らなかった。彼女のことなど、なにひとつ。
膝の上のスマートフォンが振動して、休憩時間の終わり五分前を告げる。読んでいる本に集中し過ぎて休憩時間が終わっているのに気づかなかった、という失敗を清瀬は以前に一度やらかしている。それ以来アラームをセットして休憩時間を管理するようになった。
スマートフォンを見ると、まだ八分前だった。アラームが作動したのではなく、電話がかかってきたのだ。市外局番からはじまる知らない電話番号をしばし見つめる。知らない番号からかかってきた電話に出ることにためらいがある。どこの誰の電話番号なのか検索して確かめ、必要ならば自分からかけなおす。以前実家の電話をとったら不用品回収の営業で、その信じられないほどのしつこさに閉口した経験があるからだ。
今すぐ電話番号を検索しようかな、めんどうくさいな、あとでもいいかな、と考えているうちに三分過ぎた。本を閉じて休憩室の壁にかかっている鏡に向かい、髪を直す。マスクが汚れるから口紅もグロスも塗らない。鏡の横には「身だしなみ表」というタイトルのチェックシートが貼られている。爪は伸びていないか、髪はどうかと十項目にわたる。作成したのは清瀬だ。ちゃんと「店長 原田清瀬」の記名もある。このカフェ『クロシェット』の、自分以外のスタッフがチェックシートを活用してくれているかどうかは、いまいちわからない。
『夜の底の川』という本を読んでいた。小説は好きだが、外国文学はこれまであまり読んでこなかった。ものすごく読みづらいものだと勝手に思いこんでいたのだが、これがけっこうおもしろい。忙しくて二十時近い時間まで休憩が取れなかったことへのやり場のない怒りを忘れて読みふけってしまった。
三段のカラーボックスふたつ、それが清瀬の自宅の本棚だった。本というものはいつのまにか増えていくもので、今ではそこからはみ出して床に塔のごとく積み重なっている。もっとちゃんとした本棚を買いに行かなければと思うが、毎回思うだけで終わる。ここ数か月、休みは疲れて寝てばかりいる。
毎月そうたくさん本を買っているわけでもないのだが、どんどん増えていく。部屋に来る友人たちが「これ、おもしろかったで」などと言って、本を置いていってしまうからだ。おかげで読むものには困らないが、出所不明の本が自分の住まいにたくさんある、という状況になっている。ときどき、床に積んだ本が知らぬ間にものすごい高さになっていることがあり、「もしかして本って雑草みたいに自生するのでは……?」と疑ったことも一度や二度ではない。
この『夜の底の川』という文庫本も自分で買ったものではなかった。この本は出所不明ではないのだが、今このタイミングで積極的に思い出したい出所でもない。今朝、塔の真ん中あたりからランダムに抜き取った数冊に交じっていた。
まあ、いい。それはどうでもいい。「ニーナ」がどこに消え、「ぼく」が今後どうするのか、ということについても、今は考えまい。終業後に読んでたしかめよう。
「店長」
手を洗っていると二度のノックとともに休憩室のドアが開いて、青木くんが入ってきた。大学生だが、この『クロシェット』でバイトするようになってもう二年になる。背が高く、並んで立つと、清瀬の頭はちょうど彼の肩の高さになる。
「どうかした?」
店長などと呼ばれているが、高校生のお小遣い程度の手当がつくだけで権限などはない。シフトに穴が開けば出勤しなければならないし、店内でトラブルが起こればその責任を取らされる。大阪府内に三店舗ある『クロシェット』の店長の中で、二十九歳の清瀬がいちばん若い。きみ店長やってや、とオーナーからぞんざいに任命されたのは今年の一月のことだ。それからまもなく新型コロナウイルスの騒動がはじまって、スタッフが減り、結果清瀬は出ずっぱりになり、客は少ないのに仕事は増えた。貧乏くじを引かされたという思いばかりが募る。
『クロシェット』はもともと、オーナーがひとりで開いた雑貨屋だったと聞いている。パティシエの女性と結婚したことをきっかけに店舗の一部を改装してカフェをはじめたところ、これがなかなか受けた。支店を増やし、軽食なども出すカフェとして、大人気とはいかないまでも毎年黒字を計上している。
このあたりにカフェがなかったことも、オーナーにとっては都合がよかった。「ちょっとお茶でも」という時にさっと入れるような店。大阪の梅田まで、私鉄で三十分の街。パチンコ屋とたこ焼き屋はやたらと多いが、カフェはほとんどない。
「品川さんがやらかしました」
青木くんの眉がきゅっとひそめられる。
「また?」
品川さんは、いわゆるトラブルメーカーだった。清瀬よりひとつ年上の女性で、とにかく元気がいい。そこはとてもすばらしいのだが、遅刻が多い。根がずぼらなのか、ロッカーに私物を詰めこみ過ぎて二度ほど壊れた扉から雪崩が起きた。
臨機応変という概念がないらしく、数日前にも「アレルギーがあるのでマヨネーズを抜いてくれ」というオーダーを「できません」とにべもなくはねつけて客を怒らせてしまったばかりだった。こんどはいったいなにを「やらかし」たのだろう。
鏡の中の自分の眉間にも青木くんと同じく皺が寄っているのを見て、清瀬は深呼吸をする。こんなところに皺を定着させるわけにはいかない。苛立ちに呑みこまれてはならない。
「すぐ行くから」
青木くんのほうを見ずに言い、手に残る泡を洗い流した。