自動ドアが開き、ふたり連れの客が入ってくる。ひとりは入院病棟で見かけたあの女性だった。松木とともに倒れていたという男性の母親らしき、あの。
 もうひとりは若い女性だ。男性の姉か妹、あるいは妻、といったところだろうか。髪が長くて、ものすごく華奢きやしやな人だ。清瀬の斜め前のテーブルに案内され、腰を下ろした。
「わたし、さきにお水をもらってきますね」
 女性の口調で「姉か妹」の線はないと知れた。母親らしき人は悄然しようぜんとしていたが、女性がなにごとかを言うと頷いてメニューを開き、注文を決めたようだった。注文を伝え、店員が去っていくと同時に、ふたりは頭をくっつけるようにして喋り出す。
 清瀬は彼女たちがなにを話しているのか知りたかったが、この位置からではよく聞こえない。皿の上で半分残ったオムライスが冷えていくのを見つめながら逡巡しゆんじゆんしたのち、覚悟を決めて立ち上がる。彼らのテーブルに近づいて「突然すみません」と頭を下げた。
「あの、わたし、松木圭太の知り合いの者です」
 病院から電話があって、と説明している途中で「松木くんの?」と年配の女性が首を傾げた。
「そうです」
「……座る?」
 年配の女性が言って、若い女性に目配せする。若い女性は掬いあげるように清瀬を見たのち「どうぞ」と自分の隣を手で示した。なにからどう話せばいいのかわからないまま声をかけてしまったが、相手のほうから「今回は」と切り出してくれた。
「とんでもないことになってしまって……」
「あの、いったいなにがあったんでしょうか」
「わたしらにもわからへんのよ。なんで喧嘩なんか……昔からほんまに仲よくしてくれてると思ってたから」
 岩井いわいいつき。それが、松木と一緒に倒れていた男性の名だという。年配の女性はやはり彼の母親だった。
 松木と岩井樹さんは、小中と同じ市立の学校に通っていた。岩井家は弁当屋を営んでおり、樹さんは現在、それを手伝っている。
 松木は中学卒業と同時に父親の仕事の都合で東京に引っ越し、大学卒業まで東京で暮らしていた。卒業後に大阪のカドクラ繊維に就職し、岩井家の近くにアパートを借りた。中学卒業まで暮らした町でなじみ深かったからだ、と話していた。大阪に戻ってからの松木と樹さんは月に一度は会って食事をするほど親しかった。岩井さんはそこまで一気に説明して、水をごくごくと飲んだ。
 松木が大阪で生まれ育ち、いっとき東京で生活したのちまた大阪に戻ってきたということは、清瀬もいちおう知ってはいた。でもそれ以上のくわしいことは松木が話したがらなかったので、謎のままだった。松木はいつも自分の家族が絡む話題になると、とたんに口が重くなった。気にはなったが、いつか話してくれるだろう、と思ってもいた。いつか。今よりもっと関係が深まるとか、結婚を考えだしたとか、そういうタイミングで。
 樹さんの存在も知らなかった、と思ってから、いや違う、と思い直す。松木は「このあいだ友だちと飯食った時に」とか「昨日は友だちの家に行って」と、よく話していた。
 でもその友だちの名前までは聞いていなかった。そういえば松木の話には個人名があまり登場しない。会社の人、近所の人、友だち。
 長いつきあいの、いちばん仲いい友だちがいる、そのうち紹介したい、とも言っていた。ようやく思い出した。あれは、樹さんの話だったのか。
「殴られた痕は、樹さんのほうが多いです」
 それまで黙っていた若い女性の、切りつけるような鋭い口調が清瀬をすくませる。
「まおちゃん」
 岩井さんがたしなめるように名を呼ぶと、彼女は軽く唇をんだ。まお、というのか、この女性は。
 この人は、うちの息子と、ええと、と岩井さんが口ごもると「おつきあいしてます」とまおさんがあとをひきとる。清瀬は殴られた痕は云々のくだりに驚いてしまって、まだ声が出せない。
「あの、それはどういう意味……」
 むりやり絞り出した声は、自分でも嫌になるほどかすれて、弱々しかった。
「松木さんが一方的に樹さんを殴っていたんじゃないか、と言ってるんです」
 まおさんの強い視線が清瀬をとらえる。
「そんな……」
「まおちゃんは、その場におったんよ」
 岩井さんが口をはさむ。救急車を呼んだ女性というのは、この人なのかもしれない。
「どういうことなんですか?」
「わたし今、岩井さんの家にお世話になっているんですけど……」
 ある事情があって身を寄せている、という言いかたを、彼女はした。
「樹さんに電話がかかってきて、『ちょっと出てくる』って言って、外に出ていこうとしたんです。嫌な予感がして、ついていきました。でも途中のコンビニでまかれちゃったんです。樹さん、わたしを連れていきたくなかったみたいで」
「電話? それは、松木がかけたんですか?」
「知りません。樹さんのスマホがないんです。たしかに持って出たはずなのに、どこかにいっちゃって……わたしは樹さんをさがして歩いてて、歩道橋で誰かと誰かがもみ合ってるのを見つけただけなんです。薄暗かったし、遠かったから最初は気づかなかった。それが樹さんと松木さんだとわかって、わたし、ほんとにびっくりして……」
 まおさんが肩を震わせ、両手で顔を覆う。岩井さんが腕を伸ばして、その華奢な肩に手を置いた。
「悪いのは松木さんです」
 顔を覆ったままの手のひらからこぼれるまおさんの口調は確信に満ちていた。
「そんなわけ……」
 清瀬は反論しようとしたが、言葉が出ない。

 ――あなたはわたしのことを、どれだけ知っている?

 数時間前に読んでいた本の文章が、なぜか思い浮かぶ。
 わたしはいったい、松木のことをどれだけ知っているんだろう?
 また肩を震わせはじめたまおさんが、ふっと息を漏らした。笑ったように聞こえた。
 そんなわけはないと思いつつ、その横顔を盗み見る。覆った両手の下で、彼女の唇の両端が持ち上がっている。驚いた清瀬がまばたきをしたその次の瞬間には、もう笑みは消えていた。
「まおちゃん、落ちついて」
 正面に座っている岩井さんには見えなかったようだ。手を伸ばして懸命にまおさんの肩をさすっている。見間違いではない。清瀬はたしかに、彼女が笑ったのを見た。

 

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