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「ていねいな暮らし」の住人たちは、まだ家族が起きてこない早朝や一日の終わりに、自分のためだけにていねいにコーヒーを淹れるのが豊かな時間だ、と揃って口にする。インスタントコーヒーを淹れるのですら面倒だと思う可絵は、やはり駄目な人間なんじゃないか、と落ち込んだこともあったが、それは本当に情けないことなのか。鉄のフライパンで上手に餃子が焼けないことが果たして恥ずかしいことなのか。
「私、誰かがいうおしきせの素敵に押しつぶされそうになっていたんです。そうじゃなきゃ駄目だ、って自分を追いつめて」
 SNSに縛られていた日々のことを可絵は打ち明ける。
「ぼくは思うんですけれど」
 静かに聞いていたそろりさんが、おもむろに口を開いた。
「自分を取り繕ったり自慢をするのってパワーがいるんですよ。だからSNSなんかでそのパワーを真っ正面から受け止め続けるのってけっこう疲れるんじゃないかな、って。よそ見しているぐらいがちょうどいいんですよ。ほら、リスみたいにね」
 マスクのせいでくぐもっているのか、低く静かな声が可絵を安心させる。
「リス?」
「そう。リスって、冬の間は巣穴の中にこもって過ごすんです。秋の間に食料を集めておいて、自分はふかふかの冬毛になって。そうやって冬をうまいことやり過ごすのです」
 両方の頬にいっぱいの木の実を詰め込んで巣穴に運ぶリスの姿を想像していたら、気持ちまであたたかくなってきた。
「やり過ごす……」
 毎日を快適にしたいと思ったはずなのに、気づけば「ねばならない」にがんじがらめになっていた。
 黙り込んだ可絵を見守っていたそろりさんが、キッチンの引き出しをガタゴトあけた。何かを探しているようだ。
 しばらくして、ちびた一本の鉛筆が可絵に差し出された。
「これを」
 渡されるままに手に持つと、
「芯を持つ、です」
 とこの上なく自信を持った口調でいう。
「え?」
 可絵がとまどっていると、
「あなたに必要なのはこれです。自分自身の芯を持つことです」
「あ、駄洒落だじやれ?」
 吹き出してしまった。が、そろりさんはいたって真面目だ。それからまたゴトゴトやっていたかと思うと、今度は使い古された鉛筆けずりを差し出してきた。三センチ四方ほどのプラスチック製の箱に金具のついた懐かしいタイプのものだ。
「芯を研ぐ。研ぎ澄ます、です」
 これならどうだ、といわんばかりの表情だ。
「他人の基準に振り回されて自分を見失ってはもったいないです。自分がいいと思えばいい。ただ、そのためには自分の研ぎ澄まされた芯を持つことが大切なんです」
「芯……」
 両手に持った鉛筆と鉛筆けずりに目を落としていると、そろりさんがキッチンから出てくる。
「よかったらそれ、お持ち帰りください」
 にこやかにいわれたが、鉛筆なら家にも沢山ある。やんわりと断る。
「そうですか」
 残念そうに肩を落としたそろりさんが、はたと顔を上げ、
「ところでアメリカ人って薄いコーヒーが好きなんだと思います?」
 といきなり妙なことを尋ねてきた。
「さあ」
 と首を傾げた。きっとインターネットに答えはあるだろう。でもいまはそれよりも、と、可絵はとんがった鉛筆を想像しながら右手をぎゅっと握りしめた。心に芯を持つ、か。なるほどね。
「ごちそうさまでした」
 お会計をしようとバッグに手を入れると、何か硬いものに触れた。前に編集の坂下さんにもらったお菓子がそのまま入っていた。賞味期限はまだ先だと、入れたまますっかり忘れていた。
「あのこれ、よかったらどうぞ。ひとりじゃ食べきれないので」
 と包装を解いて、小分けのパックをひとつ渡す。
 そのときにふと思った。坂下さんはご自身の暮らしぶりを自虐的に笑っていたけれど、あれはどこかギスギスしていた可絵に対するやさしさだったのかもしれない。そんな心づかいこそがていねいさなのではないか。それに彼女は、食事は宅配ばかりと肩をすくめていたが、だからといって、決して駄目な人間なんかじゃない。価値基準はそんなところではない。手本になる人間は、可絵のもっと身近にたくさんいた。
 雑味だって旨味になる。自分が美味しいと思えばそれでいい。人まねじゃなくて、自分の価値基準を持つ。自分が快適なら、それが理想の暮らしになるのだ、と。
 顔を上げるとキッチンの奥の柱に飾られた、小さな額に入った絵に目が留まる。
「あれ、ドードーですよね」
 ブルーの背景に淡いピンクやグリーンが混ざりあった水彩で、店名のドードーが描かれている。飛べない鳥のこちらを向くつぶらな瞳がなんともキュートだ。
「ええ」
 そろりさんが眼鏡を持ち上げながら、その絵をちらりと見てうなずく。
「ドードーって『不思議の国のアリス』にも出てくる鳥ですよね」
「不思議の国」に迷い込んだアリスは、テーブルの上にあった瓶の中身を飲んで小さくなる。自分の涙の海におぼれながらも流れ着いた海岸で、ドードーに出会うのだ。
 有名なジョン・テニエルの挿絵によれば、アヒルのようなくちばしの先はカギ状に曲がっていて、ずんぐりとした体型はダチョウに似ている。柱の額のドードーも丸いからだに短い足で立っている。
「絶滅しちゃいましたけどね」
 そろりさんが苦笑する。発見から百年ほどで絶滅してしまったそうだ。
 可絵は子どもの頃にアリスの本に夢中になって、いつか原語で読めるようになりたい、と思ったのが英文学の分野に進んだきっかけだった。いまの仕事の原点だ。
 忘れていた幼い日の記憶が可絵を素直にさせた。
「そのせいでしょうかね。このお店にいると、なんだかおとぎ話の中にいるみたいです」
 店の外は静けさに包まれていた。青みがかった空をじっと眺めていたら、かすかに星の瞬きが見えた。
 ──必要だったのは、何か、ではなく、こういうささやかな時間だったのかもしれない。
 可絵はしばらく森の中に身を委ねていた。

 立ち去るお客さんを見送ったそろりは、いそいそとキッチンに戻って、コンロの火をつけました。
 さっきテーブルトップにこぼしてしまった豆が小皿によけたままになっています。それを沸騰ふつとうしたお湯にざっと入れて、もらったばかりの包みに目を近づけます。
「お、黒糖羊羹だ」
 満面の笑みで、封を開けました。ケトルの中ではコーヒーがほどよく抽出された頃です。
 今宵も静かに夜が更けていきます。

 

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