今朝はアラームが鳴らなかった。スマホの電源が入っていなかったせいではない。設定を間違えたわけでもない。ほかでもない、可絵自身が止めたからだ。意図的に。
起床時刻は四時五十八分。そのきっかり十五分前に目が覚めた。うすぼんやりとしたまま窓のほうを向くと、ブラインド越しにまだ朝になりきらない群青に近い空が見えた。それから迷うことなくベッド脇のスマホを掴み、アラームの設定をオフにした。これで十五分後に、鳥のさえずりをデジタル化した音声で起こされることはない。ふたたび目を閉じた。
二度目の目覚めは、もう昼の日差しがワンルームの真ん中まで差し込んでいる頃だった。こうなるとよく寝てすっきり、ではない。寝過ぎて頭が重い。もやもやした気分のまま、すっかりアラームの仕事を放棄したスマホをたぐり寄せ、横になったまま片手で操作し、SNSのアプリを開いた。
おすすめの画面に、同じタイプの投稿ばかりが表示される。見る人の傾向に合わせて好みのページを上位に並べる機能があるようだ。その圧に蹴倒されそうになりながらもいくつかの写真をタップする。
今日も「ていねいな暮らし」の住人は、早朝から白湯を飲み瞑想をし、手の込んだ料理を作っている。見たくもないのに、反射的に指が動く。それでいて楽しい気分になるのではなく、駄目な自分に落ち込む。そのループから抜け出せない。可絵のモーニングルーティンはもう白湯や瞑想じゃない。
──これじゃあまるでスマホ中毒だ。
心の中で自分を嘲笑った。
起床が遅れたせいで、一日の残りがわずかになってしまった。翻訳した本が完成したと連絡を受けていた。郵送してもらわずに、編集部まで取りに行こうと思ったのは、あのカフェを思い出したからだ。もともと今日は坂下さんの出社日ではない。編集部の若い男性から本を受け取ると、足早に路地に向かった。
路地の入り口にはこの間と同じように、小さな看板が立っていた。でも何かが違う。違和感を抱きながら近づくと、
〈免疫力を上げるコーヒーあります〉
とあった手書きのカードに、追加で何かが書かれている。よく見ると、〈免疫〉の字が×で消され、その上に小さく〈自己肯定〉と記されていた。
「自己肯定力を上げるコーヒー……」
可絵はその場でぼんやりと立ちすくんだ。
「いらっしゃいませ。ようこそ喫茶ドードーへ」
くるくるの髪の毛が寝癖のせいか、ぼわっと盛り上がっている。
「庭の席にされますか?」
とすぐに聞かれて可絵は驚く。
「前に来たのを覚えていてくださったんですね。ええと、店主さん……」
「そろり、っていいます」
珍しい名前だな、と思っていると、
「愛称です」
と、消え入りそうな声でつけ加えてうつむいた。
「今日は店内で大丈夫です」
「でも……」
店主のそろりさんが可絵の手元に目をやる。
「いいんです」
可絵は握っていたスマホをバッグに放り込んだ。
カウンターに座ると、そろりさんがちらっと可絵の様子を窺った。
「自己肯定力を上げるコーヒーにされますか?」
口に出されると重い言葉だ。可絵はそろりさんからいくぶん目を逸らせながら、
「ええ」
と曖昧にうなずいた。
可絵は「ていねいな暮らし」のページでしばしば目にするコーヒーの画像を思い出していた。sayoさんもアンティークのミルで、九州にあるコーヒー店から取り寄せた豆を挽いている、という投稿をアップしていたことがある。
何か特殊なドリップ方法を使うのだろうか、とキッチンに注目するとケトルから盛大に湯気が出ていた。
そろりさんが、コンロの火をカチリと止め、ケトルの蓋に手を触れた。その瞬間、
「わっ」
と熱さに叫んだ声が静かな店内に響いて、照れくさそうに頭を下げた。それを見ていたら、可絵は自分が鉄鍋で火傷しそうになった日のことを思い出した。なんだか可笑しくなって、つい笑いが漏れた。あのときに落ち込んでいた自分が少しばかばかしく思えた。
それからそろりさんは今度は鍋つかみを使って、用心深く蓋を開けた。湯気がもわっと広がって、彼の黒縁の丸眼鏡を曇らせた。
「スプーン山盛り二杯」
とつぶやきながら、そろりさんがすっと背筋を伸ばす。何かの儀式をするかのように、緑のコーヒー缶から、粉状に挽いた豆を掬って、ケトルに入れていく。
「え、フィルターを使わずに、豆を直に入れるんですか?」
可絵が驚いて尋ねると、
「はい」
そう真剣な顔でうなずいて、再び蓋をした。
「これで豆が沈むまで待つんです」
やがてケトルからコーヒーのいい香りが漂ってきたかと思うと、可絵の前に空のカップが置かれ、ケトルがすっと寄せられた。
「自己肯定力を上げるやかんコーヒーです。そおーっと注いでお飲みください」
「やかんコーヒー?」
「お湯を湧かしたケトルに挽いた豆を入れて、そのまま置いておくと抽出されるんです」
「たったそれだけ?」
拍子抜けして聞くと、
「はい。それだけです」
と、さも当たり前、という風に答える。
ケトルからカップにゆっくりと注ぐ。少し濁ってどろりとした重みのあるコーヒーだ。一口飲んでみると、深いこくの中に、苦みだけでない複雑な味わいを感じた。
ふと手元が明るくなって、はっと顔を上げると、いつの間にかテーブルにキャンドルが灯されていた。キャンドルホルダーには、この間と同じくジャムの空き瓶が使われている。
「このコーヒー、美味しいですね。飲んだことのない珍しい味がします」
可絵はケトルのコーヒーをカップに足す。
「ケトルの底に粉がたまっていて、それが雑味になるので、最後まで注ぎきらないほうが……」
時すでに遅し。可絵のカップには残りのコーヒーが全て注ぎきられてしまっていた。
「すみません。説明が遅くなってしまって」
そろりさんは一瞬、肩をすぼませるが、
「でも、それはそれで美味しいですよ」
そういったきり背中を向けて、シンクで洗い物をはじめた。
確かに舌触りはざらっとする。でもどっしりとした強さは、体験したことのない味わいだ。コーヒー豆の全てを余すところなく口にしているようで、野性的な魅力を感じる。
──やかんコーヒーっていっていたっけ。
すぐに検索してみようとバッグの中のスマホに伸ばしかけて手を止めた。別にいまそれを知る必要もない。それにどのみちここでは電波が入らないんだ。
「雑味か……」
口からこぼれ落ちた。
可絵は自分に問いかける。何のためにSNSを見るのか。情報を得るため? それなら必要なことだけ調べればいい。にもかかわらず、一日二、三時間は当たり前、気づけば五時間以上もぼんやりとスマホばかり見ていることもある。起きている時間の大半をそんなことに費やしている。何のために? sayoさんの暮らしを覗くため? 会ったこともなく顔すら知らない人の生活を知ってどうするのか。そもそも「ていねいな暮らし」ってどういうことなのか……。
ケトルの底にたまったどろりとしたコーヒー豆が刺激になったのか、次から次へと自分への疑問が湧いてくる。