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 送信元は編集部の坂下さかしたさんだった。
〈ゲラが届きました。ご自宅にお送りしましょうか? ちなみに私は今日は出社日で、定時まで席におりますので、ご来社大歓迎です。当方と致しましてはどちらでも構いません。ご都合お聞かせください〉
 この仕事は、下手すれば全く人に会うことなく本が出来上がってしまうこともある。ましてやリモートワークが推奨されるようになってからはなおのことだ。原稿のやりとりはメールで出来るし、打ち合わせだってオンラインで事足りる。
 翻訳者と編集者双方で修正など数度のやりとりを重ね、ある程度進んでくると、原稿が実際に本として印刷される形になって、プリントアウトされる。これがゲラと呼ばれるものだ。この段階でようやくデータから紙の形になる。
 絵本や子ども向けの作品なら数枚で収まるが、大人向けの小説ともなればA4サイズの用紙が百枚近く。それなりのボリュームになる。もちろん自宅まで郵送されてくることもあるが、たいていは編集部に足を運ぶ。
 少なくともこれまでは可絵はそうしていた。
 しかしいまでは郵送はもちろん、ゲラがPDFなどのデータになってメールで送られてくることも当たり前になった。行ったところで、担当編集者が出社していなかったりもするのだから、わざわざ足を運ぶ必要もない。仕事としては全く問題ない。むしろタイムロスがない分、はかどる。でも人と会うことなく本が仕上がっていくのは、どことなく味気ない。だからだ。時間に余裕があれば、運動不足解消がてら、担当編集者の出社日に合わせてなるべく出向くようにしている。
 いまお世話になっている編集部は、中央線に乗り、途中で各駅停車の総武線に乗り換えて数駅、そこから歩いて十分ほどのところにある。ドアツードアで三十分ぐらいあれば着く。
 可絵は焦げ臭さの残るキッチンに背を向け、クローゼットから仕事用のショルダーバッグを取り出し、肩にかけた。

 編集部のあるビルの一階は小料理屋が入居しているが、半年ほど前から閉まったままだ。臨時休業の貼り紙はすっかり色あせている。
 古めかしい書体で定員五名、と書かれたエレベーターに乗ると、ガタンという振動とともにゆっくりと上昇し、三階でドアが開いた。エレベーターホールや中扉はなく、そのまま部屋に繋がっている構造だ。
「失礼します」
 奥を覗いて声をかけると、
「小橋さん、ご足労いただき恐縮です」
 アイボリーのカットソーにからし色のキャミソールワンピースを重ね、ブーティと呼ばれるくるぶしまでのブーツを履いた坂下さんが駆け寄ってきた。
「誰もいらっしゃらないんですね」
 以前なら三十名近くの編集部員が慌ただしく働いていた室内が、いまはしんと静まり返っている。
「基本、在宅勤務でって会社からはいわれているんです。出社は一ヶ月に一度、なんて人もいるんですよ」
「できちゃいますよね。編集のお仕事はパソコンとスマホさえあればどこででも」
 社内に並ぶデスクトップのパソコンが、主が来ずに所在をなくしている。
「そうなんですけどね。でも私なんかは自宅やカフェだとどうしても集中できなくって。会社のほうがコピー機もあるしモニターの画面も大きくて捗るんです」
 と笑いながら、
「こちらがゲラです」
 とA4サイズの茶封筒を手渡してくれる。厚さ三センチほどになった封筒の口から中を見ると、紙の束のところどころからピンクや黄色の付箋ふせんが顔を覗かせていた。
「けっこうありますねー」
 付箋は編集者から翻訳者への問い合わせの箇所、つまりは修正依頼の印だ。
「いえいえ、大半は統一とかですから」
 坂下さんは目を丸くして、とんでもない、という表情を見せる。
 統一、というのは、一冊を通して表記を揃えること。例えば「わたし」と「私」のようにひらがなと漢字が混在しないように、とか、「あたし」のようにいいかたが違う場合どちらにするか、といったことだ。一冊の中で不自然に感じないように、という気遣いだが、シーンや内容によっては、あえて混在させるのもひとつの表現方法だと思う。そのあたりは翻訳者の裁量に関わる。
 そもそも英語ではいずれも一人称の「I」。それをどう訳すかで登場人物のキャラクターや関係性が変わってくる。日本語の美しさを感じながら言葉を選んで紡いでいけるのは醍醐味だいごみでもある。
「それからこれ、おみやげです」
 細長い紙包みには、金沢の老舗しにせ菓子店の名前が大きく書かれている。
「ご実家に帰られていたんでしたね」
 メールで聞いていた。
「ええ法事で。でも東京から行ったところで迷惑かけてもいけないので、お経聞いてお墓参りだけして、日帰りでした」
 東京在住者が、いまやすっかり悪者扱いだ。地方では東京ナンバーの車は石を投げられるだの、近所の人に見つからないようにこっそりキャンプ場で落ち合うだの、都市伝説まがいのことが、どうやら現実に起こったりするらしい。そんな困難をかいくぐって辿り着いたおみやげだと思うと、重みが違ってくる。しずしずと頭を下げて両手で受け取った。
「重い」
 気持ちの上だけではなく、実際にかなりの重量感だ。まさか金塊や小判でも入っていて「おぬしも悪よのう」「いえいえお代官様も」的な賄賂わいろではないかと勘ぐりたくなるほどだ。もっとも編集者から翻訳者への賄賂なんて「締め切り守ってくださいね」というプレッシャー以外の何ものでもないが。
「精一杯がんばります」
 と思わず口をついて出そうになる前に、
「ひとくち羊羹ようかんです。真空パックなので日持ちしますよ」
 と中身を明かされた。
 なるほどあんがみっちりのずっしりだったわけだ。

「小橋さんはどうされてますか?」
 話題はお互いの日常の暮らしぶりに移る。
「私はこれまでも在宅の仕事なので、とりわけ変わりはないですけど。それでも家で過ごす時間は増えましたね。一日中、外出しない日もありますよ」
「自炊とかされてます?」
「ええ、まあ」
 曖昧あいまいに答える。具だけになった餃子を思い出しながら、果たしてあれを自炊と呼んでいいものかと自問する。
「いや、出来てないですね」
 きっちり訂正。こういう時に自信を持って「やっています」といえたらどんなに素敵だろう。返事よりも吐いたため息のほうが大きく聞こえた。
「いいじゃないですか。私なんて毎日ウーバーさんですよ」
 最近よく聞くテイクアウトの料理を宅配してくれるサービスだ。出前のアウトソーシングといったところか。
「手抜きし放題」
 坂下さんが肩をすくめる。
 確か彼女は夫とふたり暮らしだ。ひとり暮らしの自分ならまだしも、テイクアウトばかりで夫から文句をいわれたりしないのだろうか。そんなことを考えながら、ゲラの入った封筒とおみやげの包みを、肩にかけたままのバッグに脇の下からごそごそと入れていると、
「スケジュール、ややきつめですがお願いします」
 坂下さんがぺこりと頭をさげた。やっぱりそうきたか。
「了解です」
 羊羹分、肩が重くなった。

 編集部を出ると、もう夕方になっていた。これから戻って夕飯を作る気力もない。そういえばこの近くに自然食のお弁当をテイクアウトできる店がある、と前にネットで見ていた。
 スマホでサイトを検索していると、可絵の脇を、車がスピードを上げて通り過ぎた。大通りを避け、一本奥に入った。
 その店を見つけたのはその時だ。
「あれ? こんなところにカフェ?」
 目線の先に、膝下くらいの高さの小さな看板が出ていた。
〈おひとりさま専用カフェ 喫茶ドードー〉
 その下に〈免疫力を上げるコーヒーあります〉と慌てたようにマジックで走り書きしたカードが画鋲がびようで留められていた。
「え、免疫力を上げる? これはまさにいまの私のための店……」
 検索画面を閉じて、路地を入った。