可絵はスマホをテーブルに置き、バスケットからカップ&ソーサー、それに布に包まれた細長いガラスポットを取り出す。
「へえ。フレンチプレスなんだ」
 いわれたとおりにハンドルをおろし、カップに注いだ。一口飲むと、スパイシーな香りに包まれた。
 ──スパイス入りのコーヒーなんて珍しいな。
 コーヒーの苦みにスパイスの香ばしさがブレンドされ、砂糖を入れていないのに、まろやかな甘みを感じる。鼻からすっと息を吸い込んだら、本当に深い森の中にいるように思えた。
 肌寒さを感じ、ブランケットを膝にかけながら、改めてバスケットを覗くと、隅のほうにジャムの空き瓶のようなものがある。取り出してみると、瓶の中には円錐型えんすいがたのティーキャンドルが入っていた。ワンタッチ式のライターもある。
「これでキャンドルに火を灯すってことね」
 カチャリとライターに火をつけてキャンドルの先に近づけると、ポッとまわりが明るくなった。スマホの画面に夢中になりすぎていたせいで、すっかり日が暮れていたことに気づいていなかった。
 木々のざわめく音が可絵を包み込んでいた。キャンドルの灯りが揺れるのを眺める。
 ──なんか落ち着くなあ。
 外出の機会が減ったおかげで、自由に使える時間は以前よりも増えた。にもかかわらず、常に何かに追われていたようにも思う。こんなふうにぼんやりと過ごすのは久しぶりだ。
 たっぷりと時間をかけてコーヒーを飲み、可絵は席を立った。庭から店の中を覗くが、店主はキッチンの奥にいて、こちらには気づいていない。
「持っていったほうがいいかな」
 可絵は飲みおえたコーヒーのセットをバスケットに詰めて、店内に入る。キャンドルだけが灯された店内は静かで、他の客は誰もいなかった。
「ごちそうさまでした」
 バスケットを店主に手渡しながら、
「どうして免疫力を上げるコーヒーなんですか?」
 と聞いてみる。店主は眼鏡を両手でちょっとずらし、掛け直す。マスクのせいで曇ったレンズが明るくなった。
「ええと……」
 レンズ越しに目をパチパチと瞬かせながら、
「ショウガにシナモン、カルダモン、それから八角。あとはブラックペッパーも少し入っています」
 と暗唱するように指を折る。
「そんなに色々? だからあんなにスパイシーだったんですね」
 鼻孔をくすぐった香りを思い出す。
「どれも体を温める効果があるスパイスなんです。免疫力を上げるには、冷えは禁物ですからね」
 店主がピンと背筋をのばしていうところを見ると、自信作なのだろう。そういえば、さっき見たサイトにもそんな食材が並んでいたっけ。
 ──なんだか面白いお店だったな。
 可絵は帰り道、心なしか体がぽかぽかするような気がした。

 オンライン講座のおかげで、土鍋で玄米を炊くのにもずいぶんと慣れてきた。最初の何回かは吹きこぼれてコンロを汚したりして落ち込んだけれど、
「みなさん最初はそういうものですよ」
 と、講座を主宰している玄米研究家の講師が励ましてくれた。玄米は食物繊維やビタミンが豊富で栄養面に優れているだけでなく、便秘解消や美肌にも効果があるそうだ。
 十人程の受講生はみな向上心が高く、それも刺激になった。
「水分量を多めに炊いたほうがやわらかくなるかな、と思って試してみたんですが、そういうわけでもないんですね。やはり適量が大事なんですね」
 という研究熱心な人や、
「玄米を食べるようになって、子どもたちがぐずらなくなったんです」
 という子育て中の人もいて、年齢層も幅広い。
「玄米生活になってから、すっかり免疫力が上がったように感じます」
 と、可絵も積極的に発言した。
「はじめての玄米」全四回のコースが終了すると、次にステップアップ講座が用意されていた。
発酵はつこう玄米のコースもありますよ」
 講師の言葉に、画面の向こうに歓喜の笑顔が並んだ。炊いた玄米を何日かかけて発酵させることで、栄養価があがったりデトックス効果が高まったりするらしく、専用の炊飯器まであるという。
「人気のコースなので、気になる方はお早めにお申し込みくださいね」
 受講生が一斉にうなずいた。
 発酵玄米に興味があったわけではないけれど、このまま続ければ、可絵もていねいな暮らしの住人たちに近づけるんじゃないか、と意気込んだ。
 申し込みの初日にサイトにアクセスすると、すでに空いている日時は限られていたけれど、それでもなんとか一席確保できた。住所や支払い方法などの入力を進めていくと、最後に注意事項と同意のチェック欄があった。
〈この講座は新型コロナウイルスワクチンの接種をされない方のご参加はご遠慮いただいています〉
 オンラインなのに接種証明や接種予定の確認がいるんだな、と不思議に思ったが、それだけ気を遣っているのだろう。そのままチェックをして最終確認に進もうとして手を止めた。
「違う……」
 そうではない。
〈この講座は新型コロナウイルスワクチンの接種をされる方のご参加はご遠慮いただいています〉
 この春から本格的に始まったワクチン接種も、医療従事者から高齢者へと順調に進んでいる。我々の世代にも自治体や職場単位で行う職域接種など、さまざまな機会が与えられている。
 もちろんワクチンに関しては様々な意見があるのは知っている。接種するしないは個人の自由だと思うし、体質的に出来ない人もいる。未知のワクチンだから不安だという考えももちろん理解できる。ただ、こうして差別するのは行き過ぎではないか。同じ思想でなければ講座を受けることも出来ないのは、明らかにおかしい。
 これまでは、オンライン講座を紹介するポータルサイトで講座の情報を得て申し込みをしていた。あらためてこの玄米研究家の名前で検索をかけると本人の公式サイトが見つかった。そこには「反ワクチン」「反原発」といった言葉とともに過激な主張がぎっしりと羅列されていた。
「何これ……」
 健康的な食事をしたかっただけなのに、気づいたらこんなところに誘導されていた。ただていねいな暮らしがしたかっただけなのに。
 可絵は心臓の妙な高まりを鎮めたくて、玄米生活をはじめてからしばらく訪れていなかったsayoさんのページを開いてみた。
 ここならきっと救ってくれる、そう思ったのに、画面に並ぶ正方形の写真たちは以前とはすっかり様子が変わっていた。
 草花をのせた木のスツールはなく、かわりにだだっ広い無機質な空間ばかりが続いていた。最新の投稿にはてかてかと光る真っ赤な箱状の家電がアップされ、商品名が大々的に表記され、その最新式のオーブンレンジがいかに優れているかを書き連ねたキャプションが添えられている。
〈キッチンがすっきり、時短、空いた時間でおとなの習い事〉
 #で区切られた意識の高い言葉が続いた。いくつか前の投稿を見ても、玄米もほうきも鉄のフライパンも見当たらなかった。それでも最後はいつもの言葉で締めくくられていた。
「ハッシュタグは、ていねいな暮らし」
 可絵は呪文のように呟いてみる。でもこれはきらめく魔法の呪文なんかじゃない。呪縛だ。いいでしょ、素敵でしょ。ていねいの押し売りだ。
 ──もううんざり……。
 スマホを閉じ、机に付けた両肘の間に頭を埋め、目を閉じた。