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 路地の先には小さな一軒家があった。
 入り口の〈開店中〉の札に誘われるように、金色のノブを握る。ギギギという音を出して水色のペンキで塗られた重いドアをひいた。
 こぢんまりした店内はあちこちに古い木材が使われていて、まるで山小屋のようだ。タイル張りのキッチンの向こうでお湯を沸かしていた店主が振り向いた。
「いらっしゃいませ。ようこそ喫茶ドードーへ」
 丸首のセーターにコットンパンツ。黒い厚手の胸当てエプロンをかけた背の高い男性だ。可絵より少し年上、三十代後半か四十代前半くらいに見える。寝癖のような縮れ毛は、天然パーマなのか、それともそうしたセットなのか。小さな顔には大きすぎるマスクの上で、黒縁の丸眼鏡の奥の目がわずかに微笑ほほえんだ。
「ひとりなんですが……」
「はい。うちはおひとりさま専用カフェです」
 そういえば看板にそう書いてあった。
 昼と夜の間の中途半端な時間のせいか、店内には客が見当たらない。店主はそのフォローをするかのように、
「でも一日一組限定や完全予約制などではありません。念のためお伝えしておきますが」
 と続けた。接客業をしておきながら、たぶん人見知りなのだろう。目を逸らせながら訥々とつとつと話す。
「おしゃれなお店ですね。こんなところにカフェがあるなんて、これまで気がつかなかったです」
「よくいわれます。森のせいでしょうか」
 店主が首を傾けるのに釣られ、可絵も窓の外に目をやった。
 確かにごく普通の住宅地には不釣り合いなほどに樹木が生い茂っている。それだけに見つけた人は自分だけの秘密の隠れ家にしたいのだろう。SNSなんかに投稿して広めたくない、という意識が働くのか、取引先も近いこのあたりの情報は、わりと頻繁にチェックしていたはずなのに、全く知らなかった。
「知る人ぞ知る、って感じなんですね」
 可絵が前のめりになって尋ねると、
「来たい人だけ来てくれればいいと思っているのです」
 と、店主がもじゃもじゃ頭に手をやった。
 カウンターには五脚のスツールが並んでいる。ひとり客専用とはいえ、五人で満席か。今は席の間隔を保つために、席数を減らしているのかもしれない。あちこちに仕切りのアクリル板が並ぶ。こうした光景や、店員のマスク姿での接客もいまではすっかり見慣れた。飲食店は大変だな。おそらく大きなお世話だろうが、そんなことを思いながら入り口に近い席に座った。
「コーヒーいただけますか。あの、表に書いてあった免疫力を上げるっていう」
 注文してから、可絵は手にしていたスマホをカウンターに置いた。
「あ」
 それを見て店主がすかさず声をあげた。
「大丈夫です。写真は撮りませんから」
 可絵があわてて手を振ると、
「いえ。店内は電波が入りづらいんです。もしお使いになるのでしたら」
 淡々と店主が続ける。
「庭のお席はどうでしょう」
「え? 外にも席があるんですね」
 窓越しに見ると、暗くなりきる前の澄んだブルーの世界が広がっていた。可絵は促されるままに席を立った。
 入ってくるときには気づかなかったけれど、こんもりした木々に囲まれた芝の生えた空間に、ぽつりと木製のテーブルセットが置かれていた。
 赤と白のギンガムチェックのビニール製のテーブルセンターがかけられたテーブルと低めの椅子は、子供用かとまごうような小ささだ。
 おそるおそる座ってみたら、体がすっぽりとはまった。可絵はふっと肩の力を抜いた。
 手持ち無沙汰にスマホを操作し、さっきブックマークした免疫力に関する記事のページを開く。読んでいくと効果のある食べものの最初に「玄米」と書かれていた。
「玄米か」
 そういえばsayoさんも、毎日玄米を土鍋で炊いているって前に書いていたっけ。「玄米の炊き方」で検索をすると、たくさんのページの候補が並んだ。おすすめの土鍋も紹介されている。
 可絵は、鉄鍋の餃子の残骸ざんがいを思い出していた。
 頭の中にキッチンが映し出される。冷蔵庫と壁の隙間に置かれているほうきは、毛の先がぐにゃりと曲がり、周囲にホコリが溜まっている。ほうきなんて百円ショップでも売っている。ホームセンターだとしても数百円だ。そもそもワンルームマンションに掃き掃除の必要なんてあるのだろうか。掃除機があるではないか。にもかかわらず、良質の素材で日本の手仕事だ、というsayoさんのコメントに魅力を感じた。量販店の三十倍もの値段のするそれをネットショップで注文した。届いたほうきで部屋をいただけで、優越感にも似た気持ちに満たされた。でも、それも一度使ったきりだ。
 脳裏のカメラのアングルを上げる。
 食器棚の奥には竹のせいろが眠っている。せいろで蒸した温野菜は二日食べただけで飽きてしまった。窓の外のベランダはどうだろう。バジルの苗木を買って育てた。水をやるだけで順調に伸びたが、ある日、葉に大きな穴が空いていた。よく見ると葉の裏に虫が付いていた。気味が悪くて手を離した。それ以降、ベランダを見ないようにしている。おそらくあのバジルは全部虫に平らげられてしまっただろう。
 自分が失格の烙印らくいんを押されたような気分になった。
 ──もう失敗はしたくない。
 いくつかの紹介サイトから、玄米の炊き方を教えてくれるオンライン講座を見つけ、即座に申し込んだ。

 お客さんを庭のテーブルに案内したそろりが、キッチンに戻ってきました。
 冷蔵庫からショウガを取り出し、皮をむいて、薄切りにします。それから食器棚に並ぶ食器の奥から、ガラスの筒に金具の付いた器具を出しました。これは中蓋を下げてコーヒーを抽出するフレンチプレスという道具ですね。蓋を開け、挽いたコーヒー豆をスプーン二杯、ショウガの薄切りを三枚、最後に何種類かのスパイスを加えました。
 ホーローのケトルの蓋が揺れて、カタカタと音を立てています。
 そろりは口から白い湯気が威勢良く立ちのぼっているケトルをコンロからおろし、ガラスの筒にお湯を注ぎ入れます。最初はコーヒー豆が浸る程度の量を、それから手を止めて一呼吸、あとはゆっくりと筒の八分目くらいまで満たしていきます。
 しばらく蒸らす時間が必要です。その間に手付きのバスケットを用意し、底にクロスを敷きました。
「カップとソーサー。それからナプキンも」
 窓の外に目をやります。
「少し冷えてきているかな」
 カウンターの脇にあったタータンチェックの膝掛けを丸めました。
 コーヒーもほどよく蒸らされてきました。中蓋を途中まで落としたフレンチプレスに服を着せるようにネルのクロスで包んで、バスケットにそおっと入れました。
「これでよし」
 うまい具合に全てが収まると、満足そうにうなずいて、ロープに取り付けたフックにバスケットの持ち手を吊るしました。
 お客さんに声をかけようと窓から庭を覗くと、あたりはすっかり暗くなっています。少し待たせすぎてしまったのかもしれません。
「コーヒー入りました。そちらで受け取ってください」
 と、声が届くように身を乗り出していってから、そろりは不器用に滑車を動かしました。
 この滑車は、店内の柱と庭の真ん中に立っている楡の木の幹とをロープで繋いで手動で動かす仕組みになっています。そろりの手製ゆえにいびつなところもあって、ガタゴト揺れたりもするのですけれどね。
 顔を上げたお客さんの手にはスマートフォンが握りしめられています。彼女はゆっくりと近づいてくるバスケットを見守りながら、
「こんな風に届けてもらえるんですね」
 と、にこやかに笑いました。
 バスケットが無事にお客さんの手元に渡ったのを窓から確認し、
「免疫力を上げるコーヒーです。ハンドルを下げてからお飲みください」
 とだけ伝えて、そろりはまたキッチンの奥に戻ってきました。