プロローグ
季節外れの雪にタイヤを取られ、少年は自転車を止めた。
前カゴと荷台に積んだ新聞が振り落とされていないか確かめ、ホッと吐いた息が早朝の曇天に白く溶けていく。
やっぱりこの坂を漕いで上るのは無理だよな。
自転車から降りると、数センチ積もった雪が足の下でサクッと音を立てた。
東京より北に位置するこのあたりでも、四月に積もるほどの雪が降るのはめずらしい。
滑らないよう足場を固め、坂の上から見下ろしてくる小さな城みたいな建物を目指して、慎重に自転車を押しだす。
四階建ての七戸しかないマンションだが、つくりが凝っていて、特に最上階の弓形の大きな出窓が目を引く。弧を描くように宙に張り出したその壮麗な窓が、発想の貧困な自分に城をイメージさせるのだろう。
重い自転車を押して坂道を上りながら、つい睨むようにその窓を見つめてしまう。
エレベーターのない新聞配達泣かせの建物。いや、それだけでなく、自分と違って、苦労して金を稼ぐ必要のないガキどもが、恵まれた環境でのうのうと暮らしていると思うと癇に障るのだ。
実際に、あの窓辺に立つ美しい少女を見たことがあった。
自分とそう歳が変わらないはずなのに、華やかなドレスをまとった少女は憂いを帯び、冷たい光を放っていた。
下界を見下ろすお姫様みたいな少女の瞳に、汗を流して働く自分の姿は哀れな蟻のように映っただろう。
惨めさと妬ましさ、そして虚しい憧憬に胸を焼かれ、逃げるようにペダルを漕いだ記憶が今も心の底にざらりと横たわっている。
ふいに身を切るような風が吹き、少年は肩をすくめる。
風に舞い上げられた雪が白く煙り、一瞬閉ざされかけた視界の隅に、赤い点が映り込んだ。
白い紙の上にポツンと落とされた血のような深紅――。
風が吹き抜けた先、薄い雪に覆われた道端に転がっていたのは、片方だけの赤い靴だった。
少年が履いている兄のお古のスノーブーツとさほど変わらないサイズに見えるが、靴ひもではなく面ファスナーで固定するタイプなのでキッズスニーカーだろうか。
その奥の側溝から、なにかが覗いていた。
なんだろうと数歩近づき、少年は足を止める。
人形――?
小さな女の子の人形が、側溝に打ち捨てられていた。
ボサボサの長い黒髪に覆われた小さな顔。
薄汚れた白いTシャツと下着しか身に着けておらず、そこから覗く手足はたやすく折れる枝切れのようにか細い。
左足の爪先に、さっき見つけた靴の片割れが引っ掛かっている。明らかにサイズの合っていない赤い靴……。
早朝のキンと冷えた空気が、剥きだしの耳を刺す。
これは、本当に人形か……?
いや、人形だ。だって、雪よりも白い蝋のような右足が、ありえない角度に曲がっている。
配達が遅れると、また嫌味を言われ、怒られる。
そう自分に言い聞かせ、その場を離れようと踵を返しかけた少年は、かすかな気配に振り返る。
首筋に、ゾワッと戦慄が走った。
さっきまで側溝の底にあった薄汚れた人形の小さな手が、まるで助けを求めるように、少年に向かって伸びていたからだ。
第一章
【土屋リサ】
えっ? お姉さん、マスコミの人だったの?
フリーライター? 悪いけど、ぜんっぜん見えないね。業界の人ってシュッとした体型のイメージあるからさ。
あー、無理、無理、無理。マスコミの人に話すことなんてないから帰って。
側溝で見つかった女の子のこと、訊きに来たんでしょ。こっちが教えてほしいくらいだよ。
警察は自分らが訊きたいこと訊くだけ訊いて、うちらの質問には「捜査中なのでお答えできません」の一点張り。なーんも教えてくれないんだから。
せめて、女の子がどこの誰だったかだけでも教えてくれよ! って……。
は? 女の子の身元、まだわかってないの?
ってか、お姉さん、なんで、それ知ってるわけ? あ、そっか、警察にも取材してるんだ?
だったら、逆に知ってること教えてよ。
警察が公式に発表したことじゃなくてもいいよ。うちらより情報持ってるはずじゃん。
すぐ近くでこんな事件が起こっただけでも不安でしょうがないのに、女の子がどこの誰かもわからないって、怖すぎるでしょ。
あの朝、警察の人にピンポン鳴らされて、「小学生の娘さんはご在宅ですか?」って訊かれたとき、あたし、頭の中真っ白になったよ。うちの子、家にいなかったから。
ううん、前日から友達の家でお泊まり会してただけだったんで、電話してすぐ無事が確認できたけど、ナナの声聞くまでは、マジで生きた心地がしなかった。
側溝で見つかった女の子の親だって、娘がいなくなったらパニクってるはずでしょ? なんで病院に駆けつけないの? 親が来ないって、意味わかんないんだけど。
は? 女の子に心当たり?
……ない、よ。だ、だって、うちのマンションの住人にそんな小さな女の子いないもん。
女子小学生はうちの娘含めて三人だけ。それも小五と小六で、みんな無事……だし、ご近所のお子さんや娘の同級生も行方不明になんかなってないし。
そう言ってるのに、警察がしつこく話を聞きに来るのは、ここの住人が事件に関わってると思ってるからだよね? なにか聞いてない? 知ってることあったら、教えてよ。
そもそも、このマンションは七戸しかなくて、一室空きがあるんで、六家族しか住んでないのよ。しかも三〇二の古河内のおばあちゃんは入院中だから、今は五家族だけ。その中の誰かが側溝に女の子を捨てた犯人だとしたら、怖くて娘を学校にも行かせられないじゃん。
えっ、まだわからないって? ああ、女の子が遺棄されたかどうか。
あれって、本当なの? うちのマンションのエントランスから、この門を通って、坂の途中の側溝まで、雪の上に残されていた靴跡は、ひとり分だけだったって。
だとしても、女の子が早朝にひとりでここを歩いたとは限らないよね?
あたしは逆に、靴跡の件はそう思わせるために犯人が偽装したんじゃないかと思……。
ちょっ、どこ行くの? え? ああ、女の子が倒れてた側溝はもう少し下だよ。
うわ、危なっ! 日陰は残雪で滑るから気を付けなよ。ああ、うん、たぶんそのあたり。
お姉さん、どっしりしてんのに、フットワーク軽いね。
それはいいけど、あたしの話聞いてた?
そうそう、偽装工作。ちゃんと聞いてんだ。警察でそんな話、出なかった? マジで?
は……? いや、犯人に心当たりがあるとかじゃなくってさ。
あたし、新聞配達の少年とっ捕まえて話聞いたんだけど、側溝に倒れてたのは五、六歳くらいに見える小さな女の子だったのに、落ちてた靴は結構大きめのやつだったんだって。
それ聞いて、あたし、ピンと来たわけ。その靴、犯人が履いてたんじゃね? って。
犯人が抱きかかえて運んだ女の子を側溝に放置して、自分の靴を彼女が履いてたみたいに偽装したんじゃないかって。
……いや、そのあとの犯人の靴跡がなんでないかはわかんないけど、推理小説とかだとよくあるじゃん、雪の靴跡トリックみたいなやつ。それ調べるのは、警察の仕事でしょ?
女の子、まだ目を覚まさないの?
早くよくなってほしいよね。
意識が戻れば、なにが起きたのか明らかになって、すべて解決するはずだもん。
でも、万が一このまま亡くなるようなことになったら、どうなっちゃうんだろう?
ああ、だめだね、そんな縁起の悪いこと言って、本当になったらあまりにかわいそすぎる。
女の子が意識不明の重体だって聞いて、ここのオーナーの野ばら先生、責任感じちゃってるんだ。防犯カメラをエントランスにつけておけば、女の子がどうやってこの建物から側溝へ行ったかわかっただろうし、一緒に怪しい人物が映ってたら、逮捕できたかもしれないって。
そりゃそうだけど、仕方ないよ。ここらは治安が悪くないから、防犯カメラが必要な事件なんて、今まで起きてなかったんだもん。
え? どうして、マンションのオーナーを「先生」って呼んでるか?
あたし、市毛野ばら先生の教室で絵を習ってるからさ。
四年前、ここに越してきたとき、野ばら先生があたしたち家族の肖像画を描いてプレゼントしてくれて、その絵がマジ最高で、ハートをぎゅっ! って鷲掴みにされちゃったわけよ。
前のアパート追い出されたのは元ダンが女つくって出てったせいなのに、無職のシンママに部屋貸してくれるとこなんてどっこもなくて、野ばら先生が迎え入れてくれなかったら、うちの子たち、どうなってたか……。
その絵? ある、ある! スマホの待ち受けにしてるから。見たい? 見たら、絶対野ばら先生のファンになるよ! ほら、これ、すごくない?
真ん中があたしで、サッカーボール抱えてるのが息子のリョウ、あたしによく似た糸みたいに細い目がチャームポイントの女の子がナナ。これ四年前だから、今は中二と小五だけど。
怖いくらい緻密に繊細にあたしたちを描いてくれてて、なのに色彩が子供の絵みたいにファンキーで遊び心があって、野ばら先生にしか描けないアートじゃない?
あたし、感激して泣いちゃって、そしたら野ばら先生が絵画教室に誘ってくれたの。
子供いるし、そんな余裕なかったんだけど、「ありのままの自分を描けば、あなたはもっと輝けるわよ」って野ばら先生が背中を押してくれて、月謝もおまけしてくれて。今では「リサちゃんはわたくしの一番弟子ね」なんて言ってもらえるようになったんだ。
えっ? 写真撮らせてもらえないかって、この絵を?
いいよ! って言いたいとこだけど、それは、ちょっと……。
あたし、頭悪いから盛り上がって写真とか見せちゃったけど、お姉さん、なんか悪用しようとしてる? 野ばら先生のこと、悪く書いたりしたら、あたし、マジでブチ切れるよ。
それ、本当? すごくいい絵だと思っただけ?
写真は撮らせないけど、だったら、これからやるグループ展見に来なよ。この絵も出す予定だし、こんなちっちゃな画像じゃなくて生で見たら、もっと感動するから。
うん、野ばら先生と数人の地元の画家さんで、グループ展やるの。
そうだ! お姉さん、野ばら先生を取材して、バーンとでっかく記事にしてよ!
こんな田舎で燻ぶってるなんてもったいない、すごい才能だってわかったでしょ?
昔、画家の岩下ちふゆが、野ばら先生の絵を絶賛して、東京に出て来てうちで絵の勉強なさいって誘ってくれたんだって。あの岩下ちふゆに認められたんだよ、すごすぎじゃない?
だけどちょうどそのころ、旦那さんが病気で亡くなって、野ばら先生は幼いふたりの娘を育てるために、画家になる夢を諦めて、美術教師になったって言ってた。
つらかったと思うけど、野ばら先生の才能なら、これからでもブレイクできるはず。
あたしがそう言うと、「もう還暦過ぎてるのよ」って野ばら先生は笑うけど、それ信じられないくらい若いでしょ? 娘の桜子さんと並んでも、姉妹にしか見えないもん、マジで。
あたしが介護の仕事してるから、「近い将来、リサちゃんのお世話になるかも」なんて言ってて、はぁ? 冗談でしょって感じ。あれだけ元気なら、そんなのずっと先のことだよ。
いつかそういう日が来たら、あたし、できることはなんでもするけどね。
野ばら先生には、実の親よりもずっとお世話になってるんだから。
あたしが熱出して寝込んだとき、野ばら先生、桜子さんに頼んで、うちの子たちの世話してくれて、お弁当までつくってもたせてくれてさ、本当にどんだけありがたかったか。
今どき、店子にそこまでしてくれるオーナーいないでしょ?
野ばら先生は、うちらにとって、マジ神。天真爛漫っていうか子供っぽいとこあって完璧じゃないけど、そこも可愛らしくて特別な、天使みたいな人で、もう大好き!
あ、やば、野ばら先生の話になると、つい熱くなっちゃって。なんの話してたんだっけ?
あれ……? 嘘、茉莉花ちゃん? どうしたの、こんな時間に? 早退?
やだ、顔色悪いけど、大丈夫?
そんなんで四階まで行ける? おばちゃん、送ってってあげようか。
だったら、野ばら先生の部屋で休んでいきなよ。たぶん、桜子さんもいると思うから。
ああ、この人はなんでもないから、気にしないで。
ちょっと、こんなに具合悪そうな子に、なんで話しかけるかな。
茉莉花ちゃん、ごめんね。本当に大丈夫? ひとりで部屋まで行ける?
うん、じゃあ、気をつけて。無理しちゃだめよ。お大事にね!
……もう、やめてよ。あの子、野ばら先生の孫娘なんだから、あたしがマスコミの人と話してたってバレて、先生に誤解されたら、どうしてくれるの!?
お姉さんは名乗らなければ、近所のおばさんにしか見えないんだから、黙っててよ。
なんか、すごい食いついてたけど、茉莉花ちゃんの美貌にテンション上がったって感じ?
それって、おばさんじゃなくて、おっさんじゃん。
茉莉花ちゃんも今回のことが不安で体調崩しちゃったんだろうな。確かに顔色悪くても、ハッとするほど綺麗だよね、あの子。
学校に茉莉花ちゃんのファンクラブができてるんだって。
うちの息子、茉莉花ちゃんと同じクラスで、なんかちょっといい感じになってるみたいなのよ。リョウもまあまあイケメンだし、サッカー部のエースだし。
そういえば、リョウ、なんで具合の悪い茉莉花ちゃんを送ってこないかな。
わかってるけど、授業中だろうがなんだろうが、あんなかわいい子ひとりで帰すなんて心配じゃない。
市毛家はお母さんもお祖母ちゃんも美人だけど、桜子さんは控えめな感じだから、茉莉花ちゃんは野ばらさん似なのよね。ただそこにいるだけで人を魅了しちゃう華のあるタイプ。
あ、そうそう、これが桜子さん一家の肖像画……って、なに、これ?
「天使の名を誰も知らない」は全4回で連日公開予定