小さな楽観は見事に打ち砕かれ、ずんと心臓が重くなる。一時間ほど前に見た数値を正確には思い出せなかったが、増えているのは間違いなかった。
『死刑執行はよ』『目の顔つきからして凶悪犯顔』『バカすぎて震え止まらん』
どうやらネット上にはまともな日本語が使える人間は一人もいないらしい。直接関係のないことにまで苛立ちを覚えながら画面をスクロールすると、多くのアカウントが引用している『死体画像投稿犯、山縣泰介まとめ』というリンクが目にとまる。タップしてみれば、先ほど支社長に見せつけられたのと同じようなまとめサイトへと遷移する。
ちょっとした偶然の一致が、いくつか重なってしまっただけに違いない。
たったこれだけの情報で犯人扱いしていたのか。こじつけもいいところだと鼻で笑えるものだと思っていたのだが、精読していくうちに泰介の肌は粟立った。支社長室で見たまとめサイトと取り扱っている内容はほぼ同じであったのだが、あのときは混乱状態の中、情報の一部を断片的に拾い集めて事態の全容を漠然とイメージしていたにすぎなかった。しかしページの頭から順に経緯を追えば、ネット上に広がっている「たいすけ@taisuke0701」=「山縣泰介」の図式がいかに妥当なものであるのか、泰介自身であっても認めざるを得なかった。「たいすけ@taisuke0701」の呟きを写し取ったスクリーンショットの数々に目を通す度に、泰介の心は大きなスプーンで掻き出されるように、ゆっくりと、力強く、抉りとられていく。
[自慢のゴルフバッグ]――数年前に買い換えてしまったが、間違いなく泰介が一時期使用していたゴルフバッグであった。大帝ハウス五十周年記念コンペのキーホルダーのことも覚えている。ゴルフバッグは基本的に車のラゲッジスペースに入れっぱなしにしているのだが、写真の背景はどうやら泰介の家の外壁のようだった。荷物の積み下ろしをする際、数時間ほどゴルフバッグを庭に置いておくことがあるのだが、まさしくその数時間を押さえた写真だ。
[庭に花が咲きました]――どこからどう見ても泰介の家の庭であった。
[ドライバーを買いました。今から使うのが楽しみです]――かつての泰介が慎重に検討を重ねて購入した、思い出深いキャロウェイのドライバーだ。これも庭に置いておいたゴルフバッグの中から飛び出た一本を撮影した写真だ。
[ゴルフは孤独なスポーツですが、だからこそやり甲斐があると信じています]――他でもないそれは、泰介の口癖だ。
どこからどう見ても、山縣泰介が運営しているアカウントだ。
泰介のことをよく知らないから騙されてしまうのではない。泰介のことをよく知っている人間であればあるほど、泰介のものであると信じてしまうアカウントであった。泰介自身でさえ錯覚しそうになる。これは本当に自身のアカウントなのではないだろうか。あまりにも巧妙で、自然で、だからこそ歪で異様なアカウントであった。
これは偶然の一致や、不幸な貰い事故などではない。
何者かが十年もの間、ネット上で泰介を演じ続けていたのだ。
お前は、いったい誰なんだ。心の中で問いかけた瞬間にスマートフォンが震えだしたので、思わず滑り落としそうになる。妻の芙由子が電話をかけてきたのだ。家族への連絡を失念していたことを思い出しながら慌てて通話ボタンをタップすると、かなり取り乱した様子の芙由子の声が響いた。しゃくり泣きの間に挟み込むようにして言葉を紡ぐが、なかなか意味のある文章にならない。
「パートの、高橋さんに、高橋さんから、聞いて……ネットの、さっき」
わかってる。大丈夫だ。把握してる。
泰介は芙由子を落ち着かせるために強い言葉をかけ続けた。芙由子は化粧品通販のコールセンターでパートをしていた。おそらく高橋という名の同僚に騒動を教えられ職場から電話をかけてきたのだろう。
「言うまでもないが、全部、デタラメだからな。信じる必要なんて一つもないし、誤解はきっとすぐに解けるから、安心しろ」
ほとんど願望でしかない言葉に、芙由子はわかったともそうだよねとも言わず、ひたすらに嗚咽を響かせるだけであった。危険な野次馬がいるかもしれないから絶対に家には近づかないように、そして娘の夏実ともども今日は実家に泊めてもらえるよう手配して欲しい。泰介は念を押した。芙由子の実家も万葉町にあった。十年以上前のことになるが、泰介たちの家から歩いて十分程度の場所に、大帝ハウスの施工で一戸建てを建てている。問題なく泊めてもらえるはずだ。
「夏実に連絡はできそうか?」
微かに、うん、という返事が聞こえたのを確認する。
「たぶん何も問題はないと思うが、こっちは無実なんだ。学校でも堂々としていなさいと伝えておいてほしい。早退なんて間違ってもさせる必要はないからな。ネット上のあれは全部完全なデタラメなんだ」
それが洟を啜る音なのか、了解を意味するうんなのかが判別できないことが多く、泰介は何度も芙由子にわかったな、頼むな、大丈夫だなを繰り返した。ようやく明瞭な、わかった、が聞こえたところで、泰介はよろしく頼むと言って電話を切った。迷惑をかけて申し訳ないという言葉は、意識的に口にしなかった。どう考えてもこちらに非はないのだ。会社にも、社会にも、もちろん妻にだって謝る必要はこれっぽっちだってない。
立ち上がったままだったブラウザアプリを呼び出しもう一度まとめサイトに目を通すと、最下部にコメントを書き込めるスペースがあることに気づく。これがどこの誰の目にとまるのか、どれほどの効力を発揮するものなのかもわからないまま、それでも何かしら意思を、自分だけが知っている真実を、どこかに刻み込んでおく必要が、泰介にはあった。
[山縣泰介は犯人じゃない。何も悪くない。これ以上は騒がないほうがいい]
投稿するのボタンをタップし、そのままブラウザアプリをスワイプして閉じる。
泰介は激しく動揺していたが、心の内側の内側――核となっている芯の部分では、いつかハッピーエンドが訪れるであろうことを疑っていなかった。泰介を装ったアカウントが問題のある投稿をしていたのは事実だが、実際のところ死体は発見されていない。泰介を陥れようとした何者かの存在は認める必要がある。ただ殺人犯に仕立て上げようとしたところで、肝心の事件が存在していないのなら、これ以上事態は悪くなりようがない。
どれくらいの時間がかかるかは想像もつかないが、誤解は間違いなく解けるのだ。
それにしても、犯人はいったい何者なのだ。
まともな仕事ができる精神状態にはなかったが、手を動かしていたほうが余計な思考にとらわれずに済みそうだった。ネガティブを払い落とすようにPCを鞄から取り出そうとしたところで、オフィスから持ってきた郵便物――封書の存在に気づく。
どうせ新人教育のためのセミナーか教材の広告なのだ。内容を一瞥したらすぐに処分するつもりで封を切り、折りたたまれたA4用紙を取り出す。読み始めて間もなく時が止まり、指一本、ぴくりとも動かせなくなる。
山縣泰介さま
事態はあなたが想像している以上に逼迫しています。
誰も信用してはいけない。誰もあなたの味方ではない。
唯一助かる可能性があるとすれば、選ぶべき道は一つだけ。
逃げる、逃げ続ける。それだけです。
私はあなたに逃げ切って欲しい。
どうしても辛くなったら「36.361947, 140.465187」
セザキ ハルヤ
読み終わって紙面から顔を上げたとき、つけたままにしていたテレビの音が耳に届いた。すでに警察の密着ドキュメント番組の時間は終わり、報道フロアで女性アナウンサーがニュースを読み上げている。まもなく映し出されたのは、見慣れた万葉町第二公園の公衆トイレだった。
女性の死体が、発見された。
リアルタイム検索:キーワード「死体/発見」
12月16日16時02分 過去6時間で1521件のツイート
・死体が発見されたらもう言い逃れのしようはないな。大帝ハウスの電凸配信見たけど、会社は体調不良で帰ったの一点張り。体調不良になることがそもそも犯人だってことの証明だし、警察に突き出さないで帰宅させる会社も謎。普通の会社じゃない。俺の会社なら即アウト。
引用:【真報新聞ウェブ】大善市万葉町で女性の遺体発見
マキタコゴロウ@イデアスジーン代表@kogorou_makita
・大善市の例の件。死体を最初に発見したのが警察じゃなくYouTuberなのが頭痛い。犯人はもちろん極刑でいいけど、警察も真面目に働け。ネット上では昨日から散々話題になってたのに完全なる職務怠慢。真面目に税金納めてる人間を馬鹿にするな。
えるご@ergo_nakamura
・大帝ハウス平均年収:922・5万円
人殺して、死体遺棄して、バカッターしても問題なし。いつもの上級国民無罪。
引用:【日電新報オンライン】大善市でYouTuberが遺体発見「ネットの騒動を見て」
パンタロン@求職中@BiPUSbMj556TOS
・警察がいかに役に立たないか、皆さんよくわかったと思います。私がストーカー被害に遭ったときも同じでした。どれだけ切実に訴えても全然動いてくれません。今回も被害者の女性はSOSを送ってた可能性があると思います。殺されてからでは、死体になってからでは本当に遅いんです。許せない。
引用:【真報新聞ウェブ】大善市万葉町で女性の遺体発見
りじゅ@Love_Rose_Life
この続きは、書籍にてお楽しみください