猪野勝也係長が、萩尾秀一に言った。

「捜査一課の菅井すが いから電話で、ハギさんに現場に来てほしいと言うんだが……」

 萩尾は何のことかわからず、思わず聞き返していた。

「現場って、何の現場です?」

「捜査一課なんだから、強行犯の現場だろう。たぶん、殺人じゃないのか?」

「強行犯の現場に、なんで俺たち三課が……」

 捜査一課は、テレビドラマや小説でも活躍する刑事部の花形だ。猪野係長が言ったとおり、殺人や強盗、放火といった強行犯を担当する。

 一方、萩尾たち捜査第三課は、盗犯の担当だ。捜査一課に比べてずいぶんと地味な印象があるが、実は最も多忙なのが三課なのだ。

 隣の席の武田秋穂が、興味津々の顔で言った。

「行ってみましょうよ」

 秋穂は三十二歳だが、今時の三十二歳はまだまだ若い。彼女はこれから刑事としての経験を積んでいくことになる。

 盗犯担当の三課は、捜査センスを磨くのには持ってこいだと萩尾は思っている。だが、秋穂はどうやら密かに捜査一課に行きたがっている様子だ。

 若いから仕方のないことだと、萩尾は思う。刑事なら誰でも一度は、捜査一課で華々しく活躍したいと思うのではないだろうか。

「しかし、菅井がねえ……」

 萩尾はつぶやいた。「あいつは、エリート意識の塊で、三課なんかには、はなもひっかけないようなやつだ。それが、俺たちを呼ぶってのはどういうことだ……」

 秋穂が言う。

「助けを求めているってことでしょう」

「どうかね……」

「それ以外に考えられます?」

 萩尾が黙っていると、猪野係長が言った。

「とにかく、行ってみてくれよ。どうするかは、それから考えてもいいだろう」

 現場の所在地を聞き、萩尾は席を立った。秋穂はすでに立ち上がっていた。

 

 現場は、渋谷区恵比寿西しぶ や く え び す にし一丁目の雑居ビルだった。一階が飲食店になっている。

 萩尾たちはいつものように、電車で恵比寿までやってきた。現場に到着したのは、午前十一時頃のことだ。

 すでに鑑識の作業は終了したということで、所轄と警視庁本部捜査一課の捜査員たちが、現場検証をしている様子だった。

 菅井が萩尾たちを見つけて近づいてきた。

「遅いじゃないか」

 まずは文句からだ。菅井らしい。

 萩尾は言った。

「係長に言われて、すぐに出かけてきたんだがな……」

「ドロケイはのんびりしているな」

 ドロケイは泥棒刑事の略だ。もちろん自分たちではそんな呼び方はしない。

 厭味いや みなどに付き合ってはいられない。

「それで、三課に何の用なんだ」

 とたんに、菅井の表情が曇る。

「それが……。どうにも不可解なんだがな……」

「もったいぶってないで、何があったのか教えてくれよ」

「ホトケさんが消えたんだ」

「ホトケさん?」

「オロクだよ」

 ホトケさんも、オロクも遺体のことだ。

「遺体が消えたってことか?」

「そう。現場から消えた」

 萩尾は思わず、秋穂と顔を見合わせていた。それから、菅井に尋ねた。

「それはいったい、どういうことなんだ?」

「まあ、現場を見てくれ」

 促されて、萩尾は部屋の中に入った。その部屋は空き家のようだった。カウンターがあり、床は板張りだ。どうやら、かつてバーか何かの飲食店があったようだ。

 部屋の隅に椅子とテーブルが乱雑に積み上げられており、それがほこりをかぶっていた。

 床におびただしい量の血だまりがある。血はほぼ固まっており、それがまるで型取りをしたように何かの形を残していた。

 人の体の胴体のように見える。両足のつけ根と、両腕も見て取れる。

 萩尾はそっと、秋穂の表情を見た。窃盗専門なので、殺人などの現場にはあまり馴染な じみがないはずだ。もしかしたら、気分が悪くなったりするのではないかと思ったのだ。

 だが、それは杞憂き ゆうだった。彼女は、しっかりと現場を見ていたし、さらに部屋の隅々に視線を走らせている。それは刑事の眼差しだった。

 萩尾は菅井に言った。

「あそこの血だまりの中に、人が倒れていたんだな?」

「そういうことだ」

「血が固まるまで、倒れていたということだな」

「鑑識によると、血液は十分ほどで凝固しはじめるので、この跡だけでは、どれくらいの時間、人が倒れていたのか、また、どれくらい前に消えたかは、わからないそうだ」

 萩尾は考え込んだ。

 たしかに血液は十分ほどで固まりはじめる。そして、量や状態によって固まり方には差がある。だが、だいたいのことはわかる。

 血だまりに人の形が残っているということは、ある程度固まるまでそこに人が倒れていたということだ。

 人体から血液が流れ出して血だまりを作り、それが固まるまでの間、誰かが倒れていたということだ。

 秋穂が言った。

「これだけの出血だと、おそらく助からないですね」

 菅井が秋穂に言った。

「知った風な口をきくじゃないか」

 それに対して萩尾は言った。

「知った風じゃなくて、知っているんだ。これでも武田はれっきとした刑事だよ」

 菅井は、萩尾の言葉にはこたえず、秋穂に言った。

「鑑識でも、この出血の量だとおそらく失血死しているだろうと言っていた。つまり、自分で移動したとは考えられないってことだ」

 萩尾は足跡を探した。

 血だまりを踏めば、必ず足跡が残る。血液は、ほぼ人体全体を覆うくらいの範囲に広がっている。

 萩尾が考え込んでいるので、菅井が苛立たしげに言葉を続けた。

「つまり、だ。誰かが死体を持って行ったとしか考えられない。だが、どうやって持ち出したのかがわからない。ドロケイなら、こういうの得意なんじゃないかと思って声を掛けたんだ」

「つまり……」

 萩尾は言った。「俺たちに助けを求めているということだな?」

 菅井は顔をしかめて言った。

「誰かが殺人現場から死体を盗み出した。盗みのことなら俺たちより、あんたらのほうが詳しいだろうと思っただけだ」

「しかし……」

 萩尾は腕組みして言った。「これは、どう考えてもあり得ない」

「だが、実際に、死体は現場から消えているんだ」

 萩尾はさらに考えた。だが、結果は同じだ。この状況で死体を盗み出すなどというのは不可能なのだ。

 萩尾は菅井に言った。

「経緯を詳しく説明してくれ」

「午前九時半頃、一一〇番通報があった」

「通報者は?」

「上の階に勤めている人物だ」

「そこも飲食店か?」

「いや。オフィスだ。市場調査の会社が入っているということだ」

「通報者はそこの社員ということか?」

「そうだ。そして、その人物が死体の目撃者でもある」

「通報した段階では、死体はあったんだな?」

「だから通報したんだよ」

「どういうふうに目撃したんだ?」

「あそこに明かり取りの窓があるだろう。出入り口の脇だ」

 菅井はそちらを指差した。萩尾はそれを確認した。窓ガラスには模様が入っており、透明ではなかった。

 萩尾は尋ねた。

「窓が開いていたということか?」

「五センチほど開いていたそうだ。所轄の地域係員が駆けつけたときに、その隙間すき まを確認している」

「通報者は、その隙間から中を見たわけだな?」

「そういうことだ」

「なぜ、中を見たんだろうな」

「異臭がしたんだと言っていた」

 萩尾はうなずいた。

 人が死んでいる現場の異臭は、腐敗臭とは限らない。おびただしい量の血液も異臭を放つし、殺人などで唐突に死を迎える人は、たいてい糞尿を洩らす。

 現場からはたしかにそういう臭いがしている。刑事たちには馴染みの臭いだ。

「それで……?」

「所轄の地域係員が窓から中を見て、異変に気づき、すぐに署に連絡をした。次に駆けつけたのは、機動捜査隊だ。彼らも、窓が開いていたのを確認しているし、そのときに中の様子を見ている」

「ドアの鍵は?」

「かかっていた。所轄の捜査員がやってきて、ビルの管理をしている不動産会社に連絡を取り、鍵を入手した。そして、ドアを開けて捜査員が中に入ると、血だまりだけで死体がなかったということだ」

「待ってくれ」

 萩尾は驚いて言った。「所轄の地域係員がやってきてから、ドアが開くまで、警察官が何人かこの戸口の外にいたわけだな?」

「そういうことだ」

「非常口は?」

「部屋の出入り口はここしかない」

「だったらなおさらのこと、誰かが死体を持ち出すなんて不可能だ」

 菅井は、さらに苛立った声になった。

「何度も言わせるなよ。実際に起きたことだ。俺たちには訳がわからない。だからさ……」

 だから、俺たちに助けを求めた。そういうことだ。

 萩尾は言った。

「その通報者から話を聞きたいんだが……」

 菅井が言った。

「その必要はない。別に事件そのものの捜査を頼んでいるわけじゃないんだ。あんたらは、死体がどうやって消えたのか、それを考えればいいんだ」

「詳しい状況を聞かなければ、謎の解きようがないよ」

「経緯は、今俺が説明したとおりだよ」

「通報者の口から直接聞きたい」

 菅井は顔をしかめてから、近くにいた捜査員に声をかけた。

「おい、通報者はどこにいる?」

「車で話を聞いていると思いますが……」

 それを聞いて萩尾は秋穂に言った。

「行ってみよう」

 

 階段を下りながら、秋穂が萩尾に言う。

「ハギさんは、見当が付いているんですか?」

「見当……?」

「死体がどうやって消えたか……」

 萩尾はかぶりを振った。

「いや、こいつはどう考えても不可能だよ」

「でも、菅井が言ったように、実際に起きたことなんですよ」

「菅井さん、だろう。呼び捨てにするな」

「でも、三課の腕の見せ所じゃないですか」

「とにかく、通報者から話を聞いてみよう」

 パトカーの近くにいる地域係員に声をかけて、通報者の所在を尋ねると、パトカーの中にいると言われた。捜査一課の捜査員が調書を取っている。

「ちょっと、その人に話を聞かせてもらえないか」

「何だ、あんたは?」

 若い捜査員だが、横柄な態度だ。

 捜査一課にいると、自然とこうなってしまうのだろうか。萩尾はそんなことを思いながら言った。

「菅井には言ってある」

「ああ、三課ですね。もう少しで終わりますから、待ってください」

 パトカーの外で待たされた。

 秋穂が言う。

「礼儀を知らないやつですね」

「そう目くじらを立てるな。何事も仕事が優先だよ」

 五分ほど経って、若い捜査員がパトカーを降りた。

「機捜も、所轄の刑事も、捜査一課の我々も、彼から話を聞きました。もう、訊くことはないですよ」

 萩尾はこたえた。

「俺たちは俺たちで訊きたいことがあるんだよ」

 萩尾は、後部座席に座った。通報者の横だ。秋穂は助手席に座り、体をひねって後部座席のほうを向いた。

 萩尾は、隣の男に言った。

「いやあ、何度も同じことを質問してすいません」

「まったくですよ。いつになったら解放してもらえるんですか」

 男は体はそれほど大きくはないが、筋肉質に見えた。

「お名前と年齢を教えてください」

「もう、何度も言いましたよ」

「すいません。警察官がお話をうかがうときの、約束事みたいなものなんで……」

加藤芳雄か とう よし お、四十五歳」

「現場の一階上の会社にお勤めだそうですが……」

「そう。『恵比寿マーケティング』という会社です」

「通報されたのは、何時頃のことですか?」

「正確には覚えていませんが、たぶん九時半頃ですね。出社の途中でしたから……」

「エレベーターでなく、階段を使われたのですか?」

「いつもそうしています。運動のために……」

「それで異変に気づかれた……」

「ええ。異臭がしました」

「それから、あなたはどうしましたか?」

「部屋の出入り口に近づいてみました。すると、ドアの脇の小さな窓が少し開いていました。そこから中が見えたんです」

「何が見えましたか?」

「血だまりの中に、人が倒れていました」

「人が倒れていた……。間違いありませんね?」

「間違いないですよ。死体に間違いないと思いましたね」

「どうして死体だと思ったんですか?」

「血の海の中に倒れていたんですよ。ぴくりとも動きませんでしたし……。それに、あの皮膚の色ですね。見たことがないくらい真っ白でした」

「それで、一一〇番通報されたんですね?」

「ええ。一一〇番してから、ビルの前で警察の人が来るのを待ちました」

「ビルの前? 部屋の前ではなく?」

「おそろしくて部屋の前にはいられませんでしたよ。だから、階段を下りて、ビルの前の歩道で待ちました」

「最初に到着したのは、制服を着たお巡りさんですね?」

「ええ。自転車に乗ってこられました」

 それが、菅井が言っていた所轄の地域係員だろう。

「それからの経緯を細かく知りたいんですが……。そのお巡りさんは、どうしました?」

「部屋を見に行くからいっしょに来てくれと言われました。だからいっしょに行きましたよ。お巡りさんは、俺と同じように窓の隙間から部屋の中を見て、すぐに無線で連絡を取りました」

「それから、あなたはどうしましたか?」

「外で待つように言われたので、そうしました。次にやってきたのは、覆面パトカーに乗った人たちですね。私服でした」

 機動捜査隊だろう。彼らは普段、車で担当地域内を巡回している。これを密行と言う。無線が入ると、ただちに駆けつけて初動捜査を始める。

 加藤が続けて言った。

「その私服の人たちにも話を聞かれました」

「それから、どうなりました?」

「刑事さんと鑑識の人たちが来ました。刑事さんにも話を聞きたいと言われてこのパトカーに乗りました。それが終わると、今度は今までここにいた刑事さんです」

 所轄の刑事に質問され、さらに捜査一課の捜査員に話を聞かれたということだ。

「その間、あなたはずっとこのパトカーの中にいらしたんですね?」

「ええ、そうです」

「もう一度、訊きますが、あなたが見たとき、たしかに死体があったんですね?」

 加藤は、妙なことを訊く、と言わんばかりに怪訝け げんそうな顔になった。

「そうですよ。だから通報したんです」

 

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