プロローグ
プロサッカー選手を目指す子供たちに伝えたい3つのこと
僕には、「後世に語り継がれる選手になる」という目標がある。
心の中には常に「人生は一度きりなんだ」「サッカー人生も残りの人生も悔いなく終えたい」という思いがあり、だからこそ、サッカーをやっているからにはできるだけ上に行き、多くの人の記憶に残る選手になりたいと思っている。
2022年には、たくさんの人に「三笘薫」というサッカー選手を知ってもらうことができた。子供の頃から夢見ていたワールドカップに出場して、「三笘の1ミリ」と世界中で報じられた最後まであきらめないプレーなどで注目してもらうこともできた。
また、日本のプロサッカー選手が所属する一般社団法人日本プロサッカー選手会(JPFA)の「JPFA最優秀選手賞」もいただけた。栄えある第1回受賞者であることはもちろん、同業者である他のプロ選手たちからの投票で最優秀選手に選ばれたことが何より嬉しかった。
受賞の対象となった2022年は、僕の転機となる濃密な1年だった。11月から12月にかけて行われたワールドカップ・カタール大会が最大のイベントだったが、その他にも色々な出来事があった。
3月には、日本代表のワールドカップ・カタール大会出場がかかったアジア最終予選・オーストラリア代表との試合で、ゴールを決めることができた。これが、僕にとっての日本代表初ゴールだった。
8月からは、目標としていたイングランドのプレミアリーグにデビュー。世界最高峰のリーグでプレーすることは、とても刺激に満ちている。プレミアリーグには世界中からトップレベルの選手が集まっている。例えば、僕が所属するブライトンにも、11月のワールドカップ・カタール大会で優勝したアルゼンチン代表のアレクシス・マクアリスター選手がいる。僕にとって、プレミアリーグでの経験がワールドカップで戦うという自信につながったことは間違いない。
激動のプレミアリーグ、ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFCでの、2022/23シーズンを通して、サッカー選手として大きく成長できたと実感している。ただ、ここまでたどり着くまでは、決して平坦な道のりではなかった。僕は幼少期から普通の子のようにサッカーを始め、サッカー一筋に生きてきた。日々、愚直な努力をし、たくさん練習をした。一試合一試合を大事にし、厳しいトレーニングも欠かさずに行った。それでもまだ世界の壁は厚く、今でも自身のアップデートを欠かすことができない。成長し続けるために、サッカーで世界レベルの選手になるためには何が必要なのか? 僕はこのことをずっと考え続けている。
今、僕が何を考えているか──その答えは2023年1月に前述のJPFA最優秀選手賞をいただいた時に、海外に挑戦してみたい子供たちに向けて送った「3つのアドバイス」の中にある。ここに改めてまとめておきたいと思う。
1つ目は、「自分にしかない武器を持つこと」だ。
少年時代、大学時代はもちろん、川崎フロンターレ、ベルギーのロイヤル・ユニオン・サン=ジロワーズ、プレミアリーグのブライトンでプレーする現在も、僕には「ドリブル」という武器があった。ドリブルという自分の武器があるからこそ、常に自信を持って相手に立ち向かうことができた。自分にしかない武器を持っていることは、子供たちからJリーガーまでプロアマを問わず、必ず大きなアドバンテージになる。サッカーだけではない。社会に出て企業で働く際、自分にしかない武器があれば、大きな強みや自分を信じる力につながると思う。
2つ目は「自分を分析する力」を身につけることだ。
将来、海外に出て活躍したいのならば、自分が「なりたい姿」をイメージすることが重要になる。みなさんも、理想の自分を漠然とではなく具体的に思い描いてみてほしい。将来のイメージは具体的であればあるほど効果的だと思う。そして、現在の自分の体力、技術、得意なプレーの特徴やプレースタイルなどをしっかり分析したうえで、そこにたどり着くまでに必要なことを試合などから逆算して、日々の練習や生活に落とし込んでいくのだ。
最後は「毎日の努力を積み重ねる」だ。
将来なりたい自分になるためには、毎日少しずつ努力して成長を積み重ねていくしかない。本気で夢に向かっていくならば、1日も時間をおろそかにせずに努力できるはず。一日一日をとにかく大切にすることで、勉強や食事、睡眠などすべての時間が、サッカーでの成長にもつながっていく。
僕自身、小さい頃から夢を持ち続けていた。そして、そのためにすべきことを毎日実践してきた。「将来なりたい自分」にたどり着くために逆算をして、技術やフィジカルといった選手としての能力を伸ばす計画を立て、色々な知識や考え方を学び取りながら、成長してきたのだと思う。
僕が毎日努力し続けてこられたのは、「後悔したくない」という気持ちが強かったからだ。もちろん、今少年時代を振り返れば「もっと、こういうトレーニングをしておけばよかった」と思うこともあるが、それでも、その時できる精一杯で一日一日を大事に過ごしてきたという自負はある。
そういう子供の頃から重ねてきた成長の体験は、僕の中にしっかりと残っている。目標を設定し自分をアップデートし続ける考え方は、現在も僕の大事なメソッドになっているが、筑波大学でご指導いただいた蹴球部の小井土正亮監督をはじめ多くの方々に、「その経験を伝えていかないのはもったいない」とのお言葉をいただいた。
僕自身も子供の頃、日本代表の先輩でありヨーロッパで長くプレーされた本田圭佑さんを取り上げたテレビ番組を見て、どんどん上へと進んでいく選手の考え方に感化されたことを覚えている。
僕には、「自分が学び取ってきたことを、次に続こうとする日本人選手や子供たちに伝えたい」という気持ちが強くある。また、これまでの自分の歩みを振り返ることは、この先の自分の進み方を自身が整理することにもつながると思う。
本書では、僕のサッカー選手としての歩みを振り返りつつ、普通のサッカー少年だった僕が、その時々で自分の目標や理想像に向かって自身をアップデートしていった考え方や練習法、フィジカル、メンタル、食事、教育法、言葉、海外挑戦などすべてについて書いている。なぜ体の小さかった僕が大学卒業後に、日本代表や世界最高峰のプレミアリーグでプレーできるようになったのか? 本書がサッカーに励む子供たちや中学、高校、大学の選手、さらにはお父様、お母様、指導者の方々、そしてビジネスパーソンなどを含むすべての人の一助となれば幸いだ。
2025年9月 三笘薫
第1章 サッカーとの出会い
~三笘薫を作った少年時代の「ドリブル基礎練習法」
「三笘家の教育」「食事」~
兄との1対1で芽生えた「負けない気持ち」
子供がサッカーなどのスポーツを始めるのは、友だちや兄弟など、周囲がきっかけになることが多いが、三笘もその例に漏れない。日本代表選手にまで上り詰めた三笘の「負けず嫌い」は、幼少期に芽生えていた──。
サッカーを始めたのは3歳の頃だった。
僕が5月生まれということもあり、薫という名前には「風薫る5月」という意味が込められているそうだ。
僕は川崎フロンターレのホームタウンである神奈川県川崎市で育ったが、生まれたのは大分県で、僕のいとこも大分トリニータのアカデミーに所属して、ゴールキーパーをやっていた。僕より3歳年上の兄もサッカーが好きだったし、そういった環境だったため、僕がサッカーに夢中になっていったのも自然なことだったと思う。
サッカーを始めた頃の記憶で一番印象的なのは、やはり兄だ。兄は僕よりも先に川崎市内のクラブチームに入っており、チームの練習に僕も時々参加させてもらうこともあったため、どんどんとサッカーが楽しくなっていったことを覚えている。
その頃の僕にとって、「ホームスタジアム」は家の近所の公園だった。いくつもの公園で遊んでいて、泥だんごを作っていた。水の量を調節して固めたり、砂をかけてカチカチにしたり……。作った砂山に穴をあけて、水を流したりもしていた。想像力を働かせながら、夢中になって遊んでいたことを覚えている。僕のその後のサッカー人生にどれぐらい役に立ったのかは分からないが、こういった泥遊びも子供の想像力アップにつながると言われている。
中でも、一番よく通ったのは宮前平公園だ。野球をやっている友だちが多かったので、野球をして遊ぶことも多かったが、僕にとってはやはり、サッカーが一番。サッカーゴールなどの設備はない普通の公園だったが、壁に何度も何度もシュートを蹴ったりしていた。一人でドリブルの練習に取り組んだのはまだ先の話で、当時は公園の木をゴールポストに見立てて、シュートを蹴り込むことに夢中になっていたのを覚えている。
幼稚園や小学校に入ったばかりの頃は、リフティングもできなかった。それでも、ボールを蹴るのが楽しくて、何度も練習していくうちに、100回できるようになっていった。「98、99、100……」100回リフティングに成功した瞬間のことは今でも覚えている。今までできなかったことが少しずつできるようになる──そうすることで、サッカーの楽しさも増していったのだ。
一緒にサッカーをする友だちも、自然と増えていった。気がつくと、「遊びといえばサッカーしかない」になっていて、公園の両端にある2本の木をゴールに見立て、よくみんなで紅白戦をやっていた。チームメイトは兄と、兄の友だちということが多かった。小学校の頃はたった1学年上でも「体格差」が大きく出てくるため、遊んでいて競り負けることが多く悔しい思いをしたのを覚えている。
中でも、一番のライバルは兄だ。体はもちろん兄のほうが大きいし、そのぶん筋力などもあるので、ボールを操る技術でも兄のほうが上手なのは当然である。それでも僕は、「負けて当然」とは思わなかった。「どうすれば兄に勝てるのか」と、考え続けていたのだ。
ある日、いつものように兄や仲間たちと近くのサッカー場でサッカーをしていた時のこと。きっかけは他愛もないようなことだったと思うが、サッカーでの勝負なのに、悔しさからつい手が出てしまい、兄と殴り合いのケンカに発展してしまったのだ。一緒に遊んでいた友だちが怯えてしまうくらいに、2人でヒートアップ……。あの頃は、とにかく兄に負けるのが悔しくて仕方なかった。
ケンカはよくないとは思うが、思い返してみれば、あの頃から「勝負へのこだわり」があったのだと思う。兄とはよく1対1の勝負もしていた。色々な場面で、一番負けたくない存在である兄がいてくれたことで、現在まで続く僕の「負けず嫌い」が強くなっていったのだと思う。
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