じりじりと、初羽馬の指はリツイートボタンに引き寄せられていく。
 事件の存在を白日の下に晒さなければ――そういった美しい正義感というよりは、ひょっとすると世紀の瞬間に立ち会えるのではないかという期待と、それを誰の目にもわかるよう証拠として残しておきたいという虚栄心だった。まだリツイート数は二十六のまま。これが仮にすでに一万リツイートされていたなら、何てことなく無視を決め込むことができていたはずだった。情報の賞味期限がとっくに切れている。乗り遅れたバンドワゴンの後ろに未練がましく飛びつくほど、決まりの悪いことはないのだ。ただ、今は違う。今なら二十七番目に自分の名前を刻むことができるのだ。これから千、二千、あるいは一万、二万と拡散していくであろう情報の二十七リツイート目には、新元素の発見にだって劣らない価値がある。
 初羽馬のフォロワーは千人ほどで、同年代の女性もいれば、界隈では有名な気鋭のIT系ブロガーもいた。せっかくフォローしてくれている人に常識のない人間だとは思われたくない。刺激的な写真をそのままリツイートするのは得策でないと考え、友人同様にコメントを添えることにする。
[【閲覧注意】これはちょっと冗談では済まされない空気を感じる。警察に通報したほうがいいかもしれない]
 投稿後、素早く四度ほど読み直し、なかなか悪くない引用の仕方ができたのではないかと自身に太鼓判を押した。瞬く間に一つ、二つ、砂が一杯に詰まった土嚢に穴を開けたように、次々にいいねとリツイートが溢れだしてくる。自分が開いた店に大行列ができたような自己肯定感が胸を震わせる。やはり、リツイートの判断は間違っていなかったのだ。
 ひと仕事終えた満足感に画面から顔を上げたところで、時計の針が想定もしていなかった時刻を示していることに気づく。冷え切ったトーストとコーヒーを慌てて胃袋に詰め込み鞄を掴んだところで、しかし髪のセットが済んでいないことを思い出す。マッシュの頭髪に動きをつけるようにワックスをなじませ、駐車場に止めてある黄緑色のフィットハイブリッドのもとへと走る。基本的には電車で通学をすることにしていたが、田舎であるがゆえに一本逃してしまうとなかなか次が来ない。
 あっちのほうで一人暮らしするなら、車が必要だろ。じいちゃんが買ってやるよ。
 中古ながら程度のいい車をプレゼントしてくれた祖父に感謝をしながらエンジンをかける。授業開始から二十分遅れで講堂に潜り込み、出席票を出すことに成功する。キャンパス内のコンビニで昼食を買ってサークルの部室の扉を開けるまで、例のツイートのことはすっかり頭のどこかに追いやられていた。
「初羽馬、あれヤバいな。めっちゃ近くじゃん」
「何だよ、あれって」
「山縣泰介だよ」
「……誰?」
「え、あれっきり追っかけてないの? 初羽馬がリツイートしてた人殺しのやつだよ」
 友人に言われてTwitterを開くと、一時停止を解除したように興奮が蘇る。ものの数時間で、事態は信じられないほどの進展を見せていた。初羽馬のもとにも、いいねとリツイートを知らせる大量の通知が押し寄せている。あまりの急展開に情報を処理しきることができず、たまらず経緯を紹介するまとめサイトへと飛んだ。
 例の[血の海地獄]のツイートは、結局十一万五千リツイートを記録していた。驚異的と言っていい伸び方だった。もはや誰も疑いを挟む余地はない。紛うことなき「炎上」状態だ。それはすなわち、それだけ多くの人がかの呟きを本物であると見なしたということでもあった。これは冗談や売名目的のドッキリではない。本物の殺人事件の可能性がある。
 騒動がここまで大きくなれば、当然ながら特定班が動き出す。果たしてこのアカウントの持ち主は、こんな非道な行いをした畜生は、どこの誰なのだ。万が一すべてが巧妙なドッキリであったのだとしても趣味が悪い。ネットに劇薬を散布した愚か者は誰だ。微かな情報を頼りに世界中のあらゆる人間が「たいすけ@taisuke0701」の正体を暴きにかかる。
 最初に判明したのは、写真が撮影された場所であった。
 決して鮮明とは言えない写真であったが、おそらく公園で撮影されたのであろうということは初羽馬にも判断できた。しかし写っている人工物は街灯と公衆トイレくらいで、女性が横たえられている地面にもこれという特徴はない。さすがに特定は不可能であるように――少なくとも初羽馬には――思われた。
[この公園ぽいな。角度が違うけど、トイレの外壁と街灯の位置関係は完全一致]
 全国の公園を北から南、虱潰しに調査して場所を特定したと考えるのはあまりに非現実的だった。どこかの誰かがたまたま見知った公園との共通点を発見できたのだろう。いずれにしても、ほんの些細な情報から公園の場所が見事に特定された。投稿者はGoogleのストリートビューのキャプチャを添付し、二つの写真が同じ場所を示していることを証明してみせる。確かに初羽馬の目から見ても、投稿者の提示する公園が撮影場所であると断言できそうであった。しかし場所が明らかになると、また別の種類の驚きが初羽馬を包み込んだ。
「万葉町……って、すぐそこじゃん」
「だから言ってんだよ。めっちゃ近くだって」
 徒歩圏内であるとは言いがたい。しかし初羽馬のいるキャンパスから四、五十分も歩けば到達できる公園であった。地方都市なので高級住宅街と呼べるかは怪しいところであったが、万葉町が県内有数の住宅街であることは間違いなかった。立派な門に、広い庭、高級車がずらりと並んでいる光景が初羽馬にも容易にイメージできる。
 ネットの向こう側、言うなれば遠い世界で発見された殺人事件が急に馴染み深い輪郭線を獲得したことに、初羽馬は震えた。唇を噛むと凍ったように冷えている。一度スマートフォンの画面から距離をとり、部室の暖房が正常に稼働しているかを確認する。
 続いて特定班は「たいすけ@taisuke0701」の勤務先を明らかにしてみせた。
 証拠となったのは[自慢のゴルフバッグ]というコメントとともに投稿された、十年前の写真であった。ゴルフバッグについているキーホルダーに「大帝ハウス:五十周年記念コンペ」という文言が小さく確認できることを、誰かが目ざとく発見した。五十周年記念コンペのキーホルダーを持っているということは、外部の人間とは考えにくい。アカウントの持ち主は大帝ハウスの社員なのではないだろうか。そうでなくとも、大帝ハウスと取引のある企業に勤務している可能性は極めて高い。
 こうなると半ば自動的に、現場である万葉町の公園から最も近い場所に位置する大帝ハウスの拠点に調査の手が伸びる。するとまもなく公園からほんの数キロの地点に大帝ハウス大善支社が存在することがわかり、ホームページに記載されていた情報から大善支社営業部長の下の名前が「たいすけ」であるという事実が瞬く間に判明する。
 営業部長、山縣泰介。
 ホームページにはフルネームと顔写真、そして簡単な挨拶の文言が記されていた。
 我々は地域住民の皆様に密着した家づくりを目指しています。衣食住という言葉がありますが、この中でもとりわけ住が大切であります。皆様の夢を叶えるのが大帝ハウスの使命ですので、何でもご相談を――月並みだが温かみのある言葉を並べた山縣泰介は、挨拶を以下のような言葉で締めくくっていた。
 私自身も大善市万葉町に住んでおります。趣味のゴルフにも行きやすく、心の底から大好きな町です。理想の家、一緒に造りましょう。
 今回の一連の騒動をいったん置いてフラットな目で見れば、山縣泰介は実にハンサムな男性であった。誰もが知っている大手ハウスメーカーの営業マンらしく、短く整えられた頭髪は清々しい。顔の造形も端正だった。理想形とも思える面長で、瞳には往年の名優を思わせる力がある。着用しているスーツも体に綺麗にフィットしており、ネクタイの柄も品がいい。記載されている入社年から概算すると五十代半ばであることが窺えたが、写真を見る限り実に若々しく体形に崩れもない。浮かべている笑みも誠実そうでありながら、しかし伝えるべきことはしっかりと伝えてくれそうな芯の強さを感じさせ、仮に自分が家を建てようと思ったのなら、なるほど、彼に任せてみてもいいのではないかと思える雰囲気を持っていた。
 大帝ハウス、大善市万葉町、ゴルフ、そして名前が「たいすけ」。
 かなり濃厚には思われたが、まだ確定とは言えないのではないか。そんな慎重派も、「たいすけ@taisuke0701」が過去に[庭に花が咲きました]というコメントとともに投稿した写真の庭と、ストリートビューで見つかった「山縣」の表札がかかった万葉町の庭が一致していることを知ると、確信せざるを得なかった。
 例のアカウント、「たいすけ@taisuke0701」の持ち主は、山縣泰介だ。
 こんにちは山縣泰介さん、逮捕確定ですね! 山縣泰介さん人生終了、記念リプ失礼します。どうして人殺し自慢をしてバレないと思ったんですか? きっちり死刑になってくださいね。
 大量のリプライが寄せられた「たいすけ@taisuke0701」はしかし、いかなる応答をすることもなく、そのまま逃げるようにアカウントを削除した。Twitter社の規制によって強制的に削除されたのではなく、自らの意思でアカウントを消したのではないかというのが大勢の見解で、個人情報が晒されたことによって焦って逃亡を図ったあたりがまた事件の信憑性を一段階上へと押し上げた。もちろんアカウントを削除したところで情報が幻のように消えてしまうことはない。周到な誰かがキャプチャをとっており、アカウントの情報は細大漏らさず複写されていた。もう誰も、「たいすけ@taisuke0701」のことは、忘れてくれない。確実に、永遠に。
 では、万葉町の公園はどうなっているのか。肝心の死体は今どこにあるのか。あるいは死体はフェイクなのか。
 それを調査するべく現地に向かうことを決めた、よくも悪くも暇で行動力のあるYouTuberが数組報告されており、すでに何人かの一般人がアカウントのことを警察に通報したという報告も上がっている。また呟きの中にあった『からにえなくさ』という謎の言葉の真意を探る考察が繰り広げられている――というのが、現在の炎上騒動の経過であった。
 数時間分の遅れを取り戻した初羽馬は、買ってきたパスタサラダの封を切るのも忘れてしばし呆然とした。自己顕示欲と好奇心からリツイートした[血の海地獄]のツイートであったが、ここにきてようやく手のひらに収まっていた一連の事件が刺激的なトピックではなく、事実としての悲劇であることに思いあたる。おそらくあれは合成写真ではない。となれば当然のことではあるが、事実としてどこかに殺されてしまった女性がいるのだ。不謹慎な興奮は、やがて山縣泰介という人間に対する不快感へと形を変えていく。