第一章

 

 六月末の神田神保町、午前十一時少し前。そぼそぼと降る雨に街はしっとりと霞んでいた。少し憂鬱な気分になりそうなこの天気も、嬉しくて弾けそうな私には、全く気にならなかった。私はある古書店の前に佇み、十一時の開店と同時にドアを開けた。

「芦澤です。昨夜はお電話、本当にありがとうございました!」

「いやぁ、早速来ましたね。あなた、とても熱心に探していたからね。一刻も早く知らせてあげたくて。今、持ってくるね」

 店主はそう言って、奥から待ち焦がれていた本を出してくれた。

『レ・ヴィ・ドゥヴァン・ル・ミュール』。伸朗が大好きなフランスの写真家の作品で、一つの壁の前を通り過ぎる多種多様な人々を、同じ視点から撮り続けた連作だ。彼によれば、どんな対象も愛を持って撮影するというその写真家の、若い頃の代表作らしい。伸朗はフランス語の翻訳家で、学生時代に渡仏した際、この写真家の作品と出会ったという。

 この本を伸朗に渡して、今日こそ私たち夫婦のことを話し合おう、そう心に決めていた。伸朗の大好きなターコイズブルーの包装紙も準備してある。

 ここ数か月の私たちは、ちょっと道に迷っているだけだ。日常生活では新婚時代と少しも変わらず仲がいいのだから。

 私たちは十五年前、伸朗の二十五歳の誕生日に結婚した。

 

 帰宅すると、早速書斎の夫に声をかけた。

「なぁに」

 伸朗は暢気な顔でリビングに出て来た。私は後ろ手に持っていたターコイズブルーの包みを差し出した。

「はい、プレゼント」

「え。何?」

 丁寧に包みを開けた彼は、表紙を見た途端、顔を輝かせた。

「うわぁ! これ、僕がずっと欲しかった本じゃない。どうしたの?」

「あちこち探していて、さっき、やっと神保町で手に入れたの。お誕生日には間に合わなかったけど」

「絵里ぃ、凄いよ。めちゃくちゃ嬉しい。本当にありがとう!」

 伸朗は大喜びで私に抱き付くと、満面の笑みで両頬にキスをしてきた。伸朗は心が動いた時や、甘える時、いつも「絵里ぃ」と語尾を伸ばす。小学生みたいだなと思うけれど、彼のそういう所が愛おしくもあった。

 私たちは並んでダイニングテーブルに着くと、早速その美しい写真集を開いた。

「ああ」

 と感嘆の声を漏らすと、伸朗はすぐに写真の世界に没入した。

「綺麗だなぁ。構図はほぼ同じなのに、写真ごとにまるで違う国みたいだ。被写体の違いだけじゃないよね。季節、時間帯、光、湿度……ああ、君はいい表情してるなぁ。これからどこへ行くの?」

 彼はキラキラした目で作品の中の人々と自在に邂逅する。こういう時の伸朗が好きだ。

「この二人、雰囲気がとても似てる。きっと愛し合っているんだね。二人だけの世界にいるのかも知れないね」

「私たちも、前はこんな感じだったよね」

 ページをめくる彼の手がピタリと止まった。

「最近は……変わってきちゃったでしょう」

「……」

「伸朗。少し……話し合えないかな」

「絵里……ごめん」

 彼は私を見ないで言った。

「実は……君に言わなきゃいけないことがある」

 彼の表情はひどく強張っていた。

「まさか、他に好きな人がいるとか?」

 冗談で伸朗の緊張を和らげるつもりだった。「そんな訳ないだろう」という言葉の後に、彼の本音が語られるものだと思っていた。ところが伸朗はビクンとしてから、小さく、でもはっきりと頷いた。

「え……不倫してるの」

「ごめん」

「……嘘」

 伸朗は本を閉じた。

「ずっと、ちゃんと話さなくちゃいけないと思ってたんだ」

「ちょっと待って……どういうこと」

「……少し複雑なんだ」

「複雑って何よ。一体誰なの」

 伸朗は目を泳がせて、考えながら言った。

「……大らかで……海のような人」

「そんなこと、訊いてない」

「ごめん……」

「いつから」

「そういう風になったのは……お義母さんの一周忌の後。三月」

「じゃあ、一年と三か月? そんなに前から私を騙してたの」

「……絵里……」

「私の知ってる人?」

「君は知らない人。学生時代の知り合い。でも、結婚してからは全然連絡を取ってなかったよ。三年前に、仕事で偶然一緒になって」

「出版関係の人」

「監修」

「私に不満があったの」

「不満だなんて……君のことは、今も本当に大好きだよ。ただ……僕はもう……」

「あなたはもう、私を女として見ていないってこと」

「絵里、ちょっと違うんだ。僕がもう、夫としてやっていく自信が無いんだよ」

「自信が無い。自信が無いのに、不倫はできるの」

「……」

「あなたは一体どうしたいの」

「突然で本当に申し訳ないけど……離婚を……考えてもらえないだろうか。もちろん、君はここでこれまで通り暮らしていけるように、お金は何とかするから」

 どうしてこんな話になってしまったのだろう。

 怒りと哀しみが同時に胃の辺りから突き上げてきて、喉に大きな塊が詰まったように息苦しくなる。

〈ひどい〉と〈どうして〉が二つの鳥の群のように頭の中で飛び交う。

「いきなり離婚って……」

 怒りが膨れ上がって喉から弾け出す。

「伸朗はどうして、そう自分勝手なの。機嫌がいい時だけ調子がよくて、気に入らないことがあるとすぐに心を閉ざす。そうやってあなたが自分だけ傷つかないように黙り込んでいる間、私はいつも独りぼっちだった。それでも、私はずっとあなただけを愛してきたのに、あなたは一年以上も私を裏切って、騙し続けてきたなんて。なにが今も大好きよ! あなたはただ、好き勝手に生きて、私から愛情と人生を奪い取ってるだけじゃない!」

 伸朗はぽろぽろっと涙を溢れさせて固まった。

「ごめん……なさい」

 彼は震える声で小さくそう言うと、私の肩にそっと両手を伸ばしてきた。

「触らないで!」

 彼はピクッとして手を下ろした。

「絵里……僕……」

 彼の苦しそうな表情から、よほど言いにくい何かを打ち明けようとしているのだと思った。私は彼の中に秘められた言葉に怯えながらも、その言葉を聞かずにはいられない気持ちになっていた。だが、彼はまるで日差しを浴びた朝顔のようにゆっくりと萎んで固まっていった。

 黙り込んでいる相手を待つということは、胃の辺りをじりじりと焦がされながら、スローモーションのように大袈裟に速度を落とした「時」の中に閉じ込められるということだ。私は彼の喉の奥にこびりついた言葉が声になるのをひたすら待った。でも、伸朗はそれきり声を出さなかった。

 私はとうとう痺れを切らしてしまった。

「ねえ、何なの。言いたいことがあるなら、さっさと言ってよ!」

 すると伸朗の瞳に諦めの色が表れて、さーっと心を閉じていくのが分かった。動揺している時に追い詰めると、彼はいつもこうなる。彼は目を合わせずに立ち上がり、黙って書斎にこもってしまった。

 こんなはずじゃなかった。彼と穏やかに話し合って、また以前のような関係に戻るつもりだった。突然、思いもかけない告白と離婚などという言葉が飛び出して来て、私は狼狽えてしまったのだ。

 

「宙い夢に棲む」は全4回で連日公開予定