SNS社会の恐怖を描き、第13回山田風太郎賞、第36回山本周五郎賞の候補にもなった浅倉秋成さんの『俺ではない炎上』がついに文庫化された。ある日突然「女子大生殺害犯」に仕立てられた男の決死の逃亡劇とアクロバティックなトリックが融合した傑作ミステリーだ。

 学習院大学フランス語圏文化学科教授の中条省平による解説で『俺ではない炎上』の読みどころをご紹介します。

 

俺ではない炎上

 

 

『俺ではない炎上』浅倉秋成  /中条省平[評]

 

 浅倉秋成は2021年に『六人の嘘つきな大学生』でセンセーションを呼び、一躍、人気作家となったのち、翌年に放った本書『俺ではない炎上』によって、日本のミステリー界に独自の確かな位置を築きました。

 スピード感あふれる文体、隅から隅まで考えぬかれた緻密な構成、そして、極めつきのトリック(ドンデン返し)。見事に三拍子そろった鮮烈なミステリーです。推薦文としてはそれだけで十分な気がしますが、本解説では、その魅力の本質を掘りさげてみたいと思います。

 主人公は山縣泰介。大帝ハウスという大手不動産会社の営業部長で、50代半ばのハンサムな男性です。この山縣泰介が、いきなりネット上で、[血の海地獄]と題するツイートの投稿者として特定され、ネット界隈で大騒ぎになります。このツイートには、本物と思われる若い女性の血みどろの殺人現場の写真が添付されていたからです。当の泰介はインターネットの使い方すらろくに知らないのに、自分の名前と身分と写真がネットにさらされ、凶悪な殺人犯として炎上しているのでした。まさに泰介にとって、「俺ではない炎上」というわけです。

 最初は、往年の筒井康隆(例えば「おれに関する噂」)を思わせるブラックなドタバタ喜劇のように開幕します。しかし、この悪夢のごとき発端は、まもなく、現代のネット社会における動かしようのない現実に変わります。この冒頭のスピーディな展開に、悪夢を現実にしてしまうネット社会の恐怖が鮮やかに定着されています。そして、悪夢から現実への転変を描く作者の筆には一切の遅滞がなく、不動産業のお仕事小説としてスタートした本書は、あっという間に、犯人追及から必死で逃げる泰介の物語となります。まるでヒッチコック映画のような「巻き込まれ型」のサスペンス小説がくり広げられるのです。

 このあとの展開は一瀉千里、逃げる泰介に絶え間なく危機が襲いかかり、文字どおり社会全体が一丸となって泰介を迫害にかかります。不動産業者にとって命ともいえるマイホームと家族を捨てて逃げる泰介に残されたのは、己の肉体だけです。かくして、本書は、自身の肉体を唯一の武器として外界と戦う男のサバイバルを描く冒険小説へと進展します。

 その冒険小説としての頂点が、自分の取引先だった海辺の別荘のショールームでの緊迫したアクション場面ということになります。この戦いへ身を投じることで、泰介は社会的な地位に守られ隠されていた自分という生物の本質に直面することになります。仕事が奪われ、家が奪われ、次いで車が、食事が、睡眠が、そして衣服までもが奪われました。

「泰介は自身があらゆるものを剥ぎ取られた、剥き出しの一個の塊になっていることを実感した」

 こうして、『俺ではない炎上』は、SF的な悪夢から始まって、巻き込まれ型のサスペンス、そしてサバイバル冒険小説を経て、実存の発見という哲学的な主題にまで到達するのです。これだけでもエンタテインメント小説としては大満足の充実感をもたらしてくれます。しかし、本書は、山縣泰介個人の経験を描くだけではないのです。

 先ほど本書の美点のひとつとして「隅から隅まで考えぬかれた緻密な構成」を挙げましたが、山縣泰介個人の冒険譚は、この緻密な構成を支えるひとつのピースにすぎないのです。本書は、山縣泰介を含む4人の登場人物の視点から物語られる4つのパートから成っています。ほかの3つのパートは、山縣泰介と何の関係もない大学生・住吉初羽馬と、泰介の娘・山縣夏実と、殺人事件の捜査と泰介の追跡をおこなう県警の刑事・堀健比古を視点人物としています。泰介の逃走劇を主軸としながらも、そこにほかの3つのパートが有機的に組みあわされることで、物語の奥行きはぐっと深く、また広くなるのです。これこそ小説の巧緻の名に値する技法の冴えです。

 とはいえ、それは単なる小説技術の問題ではなく、作者・朝倉秋成の世界観、哲学の表れであるともいえます。
 フランスの映画監督ジャン・ルノワールは、かつて第二次世界大戦を予見したといわれる名画『ゲームの規則』のなかで、みずから主人公のひとり、オクターヴに扮してこういいました。

「この世界には恐ろしいことがひとつある。それはすべての人間のいい分が正しいということだ」

『俺ではない炎上』でも、泰介のいい分が正しいだけではなく、初羽馬のいい分も、夏実のいい分も、堀のいい分も、いや、それ以外の登場人物のいい分も、出来事を見る視点を変えれば、すべての人間のいい分が正しいように見えてくるのです。『俺ではない炎上』という小説は、その恐ろしい真実への気づきのプロセスであるといっても過言ではないような気がします。

 この真実は、インターネットによる情報の網の目が私たちを雁字搦めに呪縛してしまった現在、さらに恐ろしさを増しています。すなわち、本書に引用される無数の無名人のツイートが証明しているように、情報を発信する人間は自分が正義であることを疑っていません。そして、正義である自分以外の他者を虚偽であると見なし、虚偽である他者の排除にむかって動くのです。その最大の犠牲者が、殺人犯にされた山縣泰介です。しかし、その泰介自身が他者をどう見ていたかが、『俺ではない炎上』のラスト近くで問題になってきます。ここに、作者がこの小説にこめた最も重要なモチーフがあるのです。

 また、本作は、インターネットによる高度情報化の危険を扱う上質の「社会派」推理小説でもあるのですが、その社会派的主題のひとつとして、世代間ギャップの問題が扱われています。

 浅倉秋成の前作『六人の嘘つきな大学生』は、就職活動を題材としていますが、ここにもすでに世代間ギャップの問題は現れていました。つまり、就活の頂点をなす新卒就職試験とは、社会的に圧倒的な優位に立つ年上の世代が、年下の世代の一生を左右する決定を一方的におこなう場なのです。

 この世代間ギャップの問題は、『俺ではない炎上』において、山縣泰介と住吉初羽馬の考え方の対立として表れています。泰介にいわせれば、最近の若い子は「頑張る」ってことをせず、効率よくスマートに生きたいと思い、ネットで検索して何でも答えがわかる時代のせいか、基礎的な「馬力」がない。一方、初羽馬によれば、新しいネットサービスを創出し利用するのは若者なのに、日本の企業は年功序列制度で固まっている。年上の上役たちは古い価値観で若者の新しい試みに難癖をつけ、ただ面倒くさく手間のかかることを美徳だと信じているため、世界に出し抜かれるのだ、というのです。

 ここまでならば、世代間ギャップに関するよくある議論のパターンといえるでしょう。
 しかし、こうした中高年と青年の対立を遠くから眺める子供の視点を出してくるところに、本書のオリジナリティがあります。山縣泰介の娘、小学校5年の夏実の同級生である江波戸琢哉(えばたん)は、ネットにはいろいろな意見が飛び交っているように見えて、じつはみんな同じことしかいっていない、本当に最低だ、絶対にこういう大人になっちゃいけない、と夏実に語ります。では、その同じこととは何か? 自分は悪くない、自分の価値観だけが正しい、ということです。えばたんは、すべての人が自分は正しいと主張する恐ろしい真実にすでに気づいているのです。世代間ギャップとは、その真実の一面にほかなりません。

 このように、すべての人のいい分が正しいという考えは、善悪をはじめとするあらゆる価値観を崩壊させてしまう危険があります。しかし、その一方で、他者の正しさに思いを致すことで、自分中心の世界観を相対化し、新しい世界の見え方へと人を導く可能性も開きます。『俺ではない炎上』という小説は、その危険と可能性をともに提示したうえで、主要な登場人物たちを後者にむけて送りだそうとしているのです。その肯定的な姿勢は、私たち読者にも生きることへの励ましをあたえてくれるでしょう。