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 槍の稽古を終えて帰ると、店の軒先でマヌエルが待っていた。

「龍之進、さっき荷が届いた」マヌエルは店の間に所狭しと置かれた積み荷の間を縫って手招きする。「欲しいと言っていただろう?」

 龍之進が掛け物を取ると、人の頭くらいの大きさの球体が現れた。

「ペドロはカルタ、沙羅は衣装人形で、龍之進は地球儀だったね。これがそうだ。世界の絵図がこの球体に貼りつけてある。ここが日本だよ」

「え? こんなに小ちゃいんだ!」とてもがっかりした。

「そう……まあ……」マヌエルは苦笑する。「そしてここが長崎だ。この地球儀はオランダ製でね。ここがオランダで、ここからこういうふうに海を渡って、この長崎まで来たんだよ」

 マヌエルは巧みに地球儀を回しながら、人差し指で航路を描く。

 龍之進は興奮した。「すごい! こんなところから?」

「そうだよ。この地球儀は一年以上かけて何人もの人を介してようやく龍之進のもとに届いたんだ」

「手に入れるの、大変だった?」遠慮がちに訊いた。

「気にすることはない。これがわたしの商いでもあるんだから」

「商い? マヌエル父様は船で品を運んでるんだよね?」

「ただ品を運ぶんじゃないよ。欲しいと思っている人のところへ欲しい品を手に入れて届けるんだ。例えば、マニラではビスケットや小麦粉、牛肉が不足しているから、これらを積んでマニラへ行くととても喜ばれる。国や土地によって欲する品は違うんだよ。それを把握して、彼らの望む品を届けるんだ。海に危険は付きものだけど、国や人のためになるやりがいのある生業だ」

「へえ……」

 海の向こうの異国。まるで想像できない。でも、異国の人々と付き合い、珍しい品々を手に入れてくるマヌエルがとても大きな人のように思えた。

「ポルトガルはどこ?」龍之進は地球儀を回した。

「ここだよ」

「沙羅が生まれたマカオは?」

「ここ。長崎にはマカオから定期船がやってくる。マカオから絹、緞子、麝香、金を運んできて、長崎からは銀を運ぶんだ。日本は大明の生糸や絹が欲しいし、大明は銀が欲しいから、双方の要求に合っている。わたしはその仲立ちをしているというわけだ。そして生糸と絹を安く日本の商人に譲っているので、とても喜ばれているんだよ」

 地球儀を回す龍之進の胸はときめいた。こんな大きい世界が海の向こうに広がっているなんて。マヌエルのように異国へ行って商いができたら……考えるだけでわくわくしてくる。

「俺もいつか海に出たいなぁ」

「そうか。じゃ、もう少し大きくなったら船に乗るか?」

「え、いいの?」

「いいとも。それまでさまざまな異国や商いについて教えよう。龍之進、覚えなくてはいけないことがたくさんあるぞ」

 龍之進は大きく頷いた。マヌエルも微笑み、龍之進を抱きしめた。

 海に出る。この地球儀の世界へ。日本を出て海の向こうへ行くんだ。

 マヌエルはいつも新しいことを教えてくれる。広い世界を見せてくれる。きっとマヌエルといるこの場所が俺の居場所で、進むべき道の入り口なんだ。

 

 

二年九か月後── 一六〇四年 二月

 長崎の町はますます大きくなった。岬の突端に壮麗な被昇天の聖母教会が完成すると、迫害で追われたキリシタンが長崎へ流れてくるようになり、今や八千人以上の人々が住む町に。岬を含む内町の外に田畑をひらいて外町ができ、新たな町家が今も建ち続けている。

 槍の稽古のために龍之進が家を出ると、ゴンサルベス船長とパードレ・バレンテが並んでこちらへ向かってくるのが見えた。バレンテはゴンサルベスと別れたあと、「タデウス、訊きたいことがある。付いてきなさい」と、声をかけてきた。

 龍之進はバレンテに従い、木造瓦葺きで三層造りの被昇天の聖母教会に向かった。敬虔なキリシタンはこの教会に日に三度訪れてミサに与り、教義や聖歌を学び、連祷を唱える。その他にも祈りや告解をするために訪れるので、教会の前で何人もの信者たちとすれ違った。

 バレンテに続いて、教会の二階の廻縁に上がった。稲佐山を頂く対岸は冬枯れで、潮を含んだ寒風が時々廻縁を吹き抜ける。

「長崎へ来て何年になる? いくつになった?」

「三年です。今年で十六になりました」

 三年前バレンテと初めて会った時も似たようなやり取りをしたのを思い出した。

「うむ。ちゃんと教会に来ているか? パードレに告解をしているのだろうな」

 龍之進は敬虔なキリシタンではないと自覚しているので、返答に困った。なんて答えたらいいんだろう。迷っている間、別なことも考えていた。この人はいつも気取った話し方をする。言葉を選んでいるせいもあるんだろうけど、いちいち空く間にもったいぶったわざとらしさを感じる。

「こら、聞いているのか」

 バレンテが目を細めて睨んだ。

「は、はい、パードレ。あの……」

「信心が足らぬようだな。ところで、信心深い者から聞いたのだが、カルバジャル家には邪な者たちがよく訪れているとか」

「邪な? パードレ、おっしゃる意味がわかりません」

「キリストの教えに従わない者たちという意味だ。長崎には表向きはキリシタンを装いながら、邪教を信じる者がいる。ポルトガル人しかり、イスパニア人しかり。日本人もキリシタンを自称し、平気で神社や寺へ参るであろう?」

 寒風を受けたバレンテは黒いマントの襟首を寄せた。「カルバジャル家では、肉をよく食べるのか?」

 話題が唐突に変わった気がした。「肉も魚も食卓に出ます」

「四月頃、晩餐に種無しパンと焼いた羊肉、苦菜を食べたことは?」

「え? なんですか?」

「過越の祭……聞いたことは?」

「いえ」

「金曜も土曜も肉を食べるのか? 金曜日の夕方から土曜日の夕方までどのような食事をしている? 温かい料理は出ているか? 金曜日の夕方から土曜日の夕方まで召使いはなにをしている?」

 なにを知りたいのだろう? さっぱりわからない。

「食べてはいけないものについて聞いたことはないか?」

「いいえ。あの、パードレはなにをお知りになりたいのですか?」

「そろそろ四旬節が始まるが、カルバジャル家では昨年肉を食べていたという告発が寄せられた。それはほんとうか? 豚肉は食しているか?」

 嫌な予感がした。軽はずみに答えてはいけない。

「覚えていません。豚肉かどうか、意識したことがないので」

「聖人像はあるか?」

「聖母像があります」

 バレンテは、その青い目でじっと龍之進を見据えた。「タデウス。敬虔なキリシタンは他の信者の行いにも厳格な目を向けていることを忘れるな。もうよい。下がりなさい」

 龍之進は、バレンテがなにを言いたいのか理解できなかった。カルバジャル家で暮らして三年二か月。確かにマヌエルには、少し不可思議なところがある。マヌエルは他に名が三つくらいあり、ペドロの話では国によって使い分けているという。訪問者は拒まないが、自ら出向くことは少なく、あまり外出したがらない。そのせいか教会に熱心に通うほうではなかった。でも、それにどういう意味があるのか。

 バレンテとのやり取りが気になったので、帰宅してすぐマヌエルに話した。話しながら、一年前を思い出した。ペドロが高熱を出し、滋養のために鶏肉入りの汁物を食した時のことを。たまたま町年寄がやってきて「四旬節に肉を食べている」と難じた。ペドロの滋養のため、教会の許可を得ているとマヌエルは説明したが、バレンテはあの時のことを言っていたのだろうか。

 

 その日の夕刻、家主と町年寄が訪ねてきた。マヌエルを店の間に呼び、三人で話し始めた。

「この家から出ろと? 突然どうしたのですか」

 マヌエルの当惑した声がする。

 龍之進がそっと店の間を覗くと、強張った顔をした家主が見えた。

「パードレから聞きよったと。マヌエル殿がキリシタンのふりばするユダヤ教徒やと。マカオからやってきた総司令官もあんたが隠れユダヤ教徒やと証言したそうばい」

 渋面の町年寄が重々しく口を開いた。「長崎はキリシタンの町ばい。キリシタンであるがゆえ、商いができるんや。あんたをキリシタンと信じたけん、こん借家ば口利きした。ばってん、あんたは我らば欺いた。あんたが我らに売っとった生糸や異国の品々もまがい物かと言い出す者も出てきとる」

「ほんものです、偽りなく! 生糸もわたしが大明で買いつけた最上のランキンです」

 マヌエルの主張に訊く耳を持たないとばかりに、町年寄は片手を振った。

「それに、わたしはユダヤ教徒ではありません。みなさんと同じキリスト教徒です」

 町年寄と家主がなにを怒っているのか、話す内容の意味も龍之進にはわからなかった。

「ばってん、パードレがそう言いよった。ランキンの中に質の劣るフスカンやランカンを交ぜとうと。ほんなこつ言うと、イエズス会の生糸より安かけん、なにかからくりがあると思とった……パードレたちの話では教会の活動ば妨げるためと?」

「そのようなことはありません。ただ、みなさんにより安くと──」

「とにかくなにも言わんで、こん家から立ち退いてくれ」

 町年寄は深々と頭を下げた。それから家主を先に帰すと、マヌエルににじり寄り、小さな声で言った。

「マヌエル殿の過去になにがあったかはわからん。ばってん、日本人のため尽力してくれた心に空言はなかと信じとるけん。マヌエル殿の寄付で貧しか者がどんだけ救われたか」

 町年寄はマヌエルの手を両手で握った。

「こげんごとになってしもて、すまんことですばい。儂らはパードレに従う信者やけん、あんたんごと、庇うのは難しか。ええか。マヌエル殿、二、三日のうち、もっと早かかもしれん、イエズス会の手の者がここへやってくるやろう。一刻も早うここば出んね。儂にできるんはこんくらいばい。よかね、早う!」

 町年寄も出ていくと、マヌエルは従者のベル以外の召使い二人を奥座敷に呼び、当座のお金を渡して暇を出した。それから、ペドロと沙羅、龍之進を呼んだ。

「ペドロ、沙羅、龍之進、すぐに荷物をまとめなさい。明朝早くにこの家を出る」

「あの二人はどうして一緒じゃないの?」龍之進は訊いた。

「それが彼らのためだ。彼らなら、すぐに新しい雇い主が決まるだろう」

「父様、どこへ行くの?」

 マヌエルは、ペドロの肩に手を置いた。「平戸へ行く。そこからマニラだ」

 事情を訊くこともできないまま、手近な荷物をまとめて寝床に入った。なかなか寝つけなかった。突然カルバジャル家から二人去り、自分を含めた五人はこの家から追い出され、長崎を追われる。どうしてこんなことに。

 俺の家族が壊れていく……。

 いつの間にかうとうとし、ふいに揺り起こされた。目を開けると、沙羅の顔があった。すっかり寝入っていたらしい。

 夜明け前、揃って笠を被った日本人のなりをし、マヌエルと従者ベルに続き、ペドロ、沙羅、龍之進は家を出た。

「やっと落ち着けると思ったのに」

 不安と緊張で顔を強張らせながらも、名残惜しそうに家を見上げるペドロを見て、龍之進は自分がしっかりしなければと思った。

「ペドロ、俺のそばを離れるな」

「うん。龍之進がいれば、僕ね、どこに行っても淋しくないよ」

 龍之進はペドロを抱きしめた。「俺もさ。ずっと一緒だ」

 雪が舞う中、まだ暗い長崎の外町を抜けて田畑の広がる道を急いだ。

 海沿いの山道を進む頃になると、周りはぼんやりと明るくなっていた。粉雪が絶え間なく降り、波の音が聞こえる。

 しきりにマヌエルは後ろを振り返っていたが、突然「つけられている!」と叫んだ。

 一斉に走り出した。駆け出す前、追っ手は三人だったのに、龍之進が振り返ると、いつの間にか十人くらいに増えている。

 あっという間に追いつかれてしまった。彼らはポルトガル人に率いられた日本人だ。行く手を阻んだにもかかわらず、なおも龍之進たちが逃げようとするので、刀と槍を構えて襲いかかってきた。

 マヌエルは沙羅とベルを、龍之進はペドロを庇いながら先へ進もうとした。マヌエルは腰に差した剣を抜いて前方の道を開き、先に沙羅とベル、龍之進とペドロを行かせると最後尾で応戦した。が、兵と刃を合わせるうち、剣が折れてしまった。

 マヌエルの危機にいち早く気づいた龍之進は自分の脇差を届けようと、ペドロを庇って背後にいる兵から頭や肩を槍で叩かれながらも、ペドロの背中を力任せに押した。

「ペドロ、先に行け。早く!」

「でも───」

「いいから!」

 兵の槍を左手で握り、身を回転させて兵に接近する。抜いた脇差を喉元に突きつけて槍を奪い取った。勢いよく槍を左に振って兵の横腹を打ち、続いて右に回して他の兵の脚を打つ。

 折れた剣を持つマヌエルに駆け寄って脇差を差し出した。「これを使って!」

「ペドロ!」

 沙羅の叫び声がした。見ると、ペドロとベルが兵に捕まっていた。

 ポルトガル人に腕を摑まれたペドロは逃れようとして暴れ、その男の足を思い切り踏みつけた。男は手に持った剣の柄でペドロの頭を勢いよく突き、さらに横から殴打した。ペドロの首が不自然に撓るほどの力だった。次の瞬間ペドロはゆっくり崩れ落ちた。

「ペドロ!」

 沙羅とマヌエルが駆け寄った。マヌエルが抱き寄せたが、ペドロは頭から血を流し、力を失って動かない。

 ペドロに気を取られた隙に、龍之進は兵から肩に槍の一撃をくらった。よろよろと後ずさるとずるりと足が滑り、あっと思った時には体が宙に浮いていた。崖が頭上に見えた。

 

 

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