一読したあと、タイトルを改めてじっくりと見比べてみると(単行本『南蛮の絆 多聞と龍之進』を文庫化に際し、改題)、多聞と龍之進の二人が、さまざまな苦難を周囲の協力を得ながら、一つ一つ乗り越えて、まっすぐに成長していくその姿が改めて思い浮かんできて、胸に熱いものが湧いてくる。小説、それも大河小説をじっくりと読み込んでいくことの喜びがここにある!
■『青天の双帆』大村友貴美 /小梛治宣 [評]
『首挽村の殺人』(2007年)で第27回横溝正史ミステリー大賞を受賞したあと、『死墓島の殺人』(2008年)、『霧の塔の殺人』(2009年)、『共謀』(2010年、文庫化の際『犯罪に向かない男』に改題)、『存在しなかった男』(2012年)と、年に一冊のペースで本格長編ミステリーを世に問うてきた作者の仕事ぶりは、まさに一冊入魂の気概に満ちており、いずれも読者に一行たりとも読み飛ばしを許さないような濃密なものであった。ショッキングな幕開けで一気に読者を物語の世界に引き込み、周密なプロットと細やかな描写力、そして鮮やかな逆転劇で幕が閉じられる。
読者を決して裏切らないエンターテインメントとしての面白さと、小説の読み応えを感じさせる深い余韻を与えてくれる作家であることは、この五作を読めば瞭然である。そして、さらに私が作者らしさを感ずる点は、作品の底流に「歴史」への愛着と社会に虐げられた人たちへの温かいまなざし、さらに格差や差別に対する批判的な厳しい視線である。
行間から滲み出してくる作者のメッセージが読む者の心の琴線に触れてくる。トリッキーなミステリーの面白さは言うに及ばず、さらに奥の深い人間の物語がそこにはある。だから、「小説」を読むことで得られる真の感動を味わい尽くすことができると言ってよい。読後の余韻はそこから生まれるものでもあろう。
こうした5編の長編のあと、作品の傾向に変化が見られてくる。底流にあった「歴史」への愛着がはっきりと表面に浮上してきた、と私には思われるのだ。連作ミステリーの『前世探偵カフェ・フロリアンの華麗な推理』(2012年)並びに『奇妙な遺産──村主准教授のミステリアスな講座』(2014年)では、キャラクターの特異さや斬新さに目を引かれるけれども、「歴史」の香りが、かなり強まってきていることは一読瞭然である。とくに、『奇妙な遺産』に登場する文学部史学科准教授の村主周一郎は、俗世とは無関係、しゃべり出すと「すべての道は歴史に通ず」といった感じの西洋史マニア、コスプレ好きの奇人である。
連作集一冊で終わるには惜しいキャラクターだ。
そして2016年に満を持する形で刊行された『梟首の遺宝』こそは、本格的歴史ミステリーと呼ぶに相応しい長編であった。岩手の山奥で350年以上守られた「ドチリナ」の謎が解き明かされたとき黄金伝説が蘇る。伝奇的趣向もたっぷりと加味された横溝正史賞作家としての一面をも覗かせた秀逸な作品である。おそらくこの作品の根幹ともいえる隠れキリシタンの歴史に関わる部分が、本書『青天の双帆』執筆の背景になっているのではないかと私は推察している。
これまでは歴史を扱いながらも主な舞台はあくまでも現代であったが、『梟首の遺宝』から3年後の2019年に刊行された『緋い川』では、明治時代の東北地方の山間集落で起きた猟奇的な殺人事件を、鉱山病院へ新たに赴任した若き医師が挑むことになる。その背景には現代に通ずる公害の問題も作者ならではの視点から追及されている。主人公が貧困と医療の限界に直面して苦悩する姿が私には新鮮であったが、それはまた形を変えて、次の作品に受け継がれていくことにもなる。
そして、その次の作品こそが、作者初の本格歴史小説である本作『青天の双帆』ということになる。本作は、双葉社文芸総合サイト「カラフル」連載時(2020年6月10日〜2021年7月12日)は「双樹、戦ぐ」だったが、単行本化に際して「南蛮の絆 多聞と龍之進」(2022年)と改題、さらに今回「青天の双帆」に改められた。この3つのタイトルを並べてみると、本作の輪郭がくっきりと浮かび上がってくるようである。双樹、双帆の「双」は、本作の主人公、多聞と龍之進のことであり、「樹」は二人が大きく成長していく、その様であり、「帆」は海原を渡っていく二人の姿であろう。「青天」は、常にそうありたいと願う二人の心の有り様を表しているとともに、二人には青い空とそれを映し出す青い海とが、まさしくぴったりだからでもあろう。「絆」は、もちろん二人の、いかなる状況や運命に晒されようが、決して喪われることのない固い友情そのものである。
一読したあと、タイトルを改めてじっくりと見比べてみると、多聞と龍之進の二人が、さまざまな苦難を周囲の協力を得ながら、一つ一つ乗り越えて、まっすぐに成長していくその姿が改めて思い浮かんできて、胸に熱いものが湧いてくる。小説、それも大河小説をじっくりと読み込んでいくことの喜びは、そんなところにあるのだろうと、本作を読んでいると気付かされる。
では、本作の中にも少し立ち入ってみることにしよう。
物語の発端は、西暦1600年(慶長5年)、天下分け目の戦いの戦場関ヶ原、兄弟のように育った幼馴染みの多聞と龍之進は、人さらいに捕らえられ離れ離れになってしまう。
龍之進は西軍の一兵として闘っていた父を亡くし、みなし児となり、多聞は足軽の父の最期を看取った直後であった。龍之進は武芸に秀でていて体力に自信がある一方、多聞は知力に長け、勉強好き。うしろ姿は双子のように見えるが、性格は対称的な二人でもあった。
この12歳の二人が、その後数奇と言わざるを得ない運命をどう受け止め、生き抜いていくのか。作者の筆は、それを時の経過に沿いながらあたかも木像を丹念に彫り上げるように描き出していくのである。
まず龍之進は、長崎で南蛮人(ポルトガル人)の貿易商のもとに売られる。ところが彼は運が良かった。買い手のマヌエル・カルバジャルが実の息子のように養育してくれたのだ。そして、このマヌエル家で一人の少女沙羅と出会う。父がポルトガル人、母が日本人の「いいようのない美しさ」をもつ彼女の両親も、龍之進と同様に亡くなっていた。この沙羅こそ、龍之進が、永遠に面影を追い続ける存在となる。マヌエルは、実子のペドロ、友人の娘沙羅、そして龍之進に分け隔てなく学問を学ばせ、三人は実のきょうだいのように暮らしていたが、その幸せが一瞬の内に崩れ去るときがやがてやってくるのである。
一方、多聞はどうなったのか。ポルトガルのパードレに助けられた後、京都で洗礼を受け、神学校で外国語を学び外国の書物に目を通すことに生き甲斐を見つける生活をしていたのだった。まさに、想像もしていなかったような異次元の世界へ飛び込んだようなものだ。それは龍之進にも言えることだったが、この二人は、長崎で再会することができたのだった。
ところが、数年後二人には再び離れ離れになる運命が待っていた。こののち龍之進の行く手を阻む仇敵であり続けるパードレ・バレンテの陰謀によって、マヌエルは異端者の烙印を押され、牢に入れられてしまったのだ。一人だけ逃げ延びた龍之進は、多聞の手を借りて牢内の二人を救い出そうとするが失敗。インドのゴアの異端審問所へ送られたというマヌエルを追うべく、傭兵となってマカオへ向かうのだが……。
本作の舞台となる江戸幕府の黎明期は、内政、外政ともに大きく変動を遂げつつある時代である。それまで海外貿易の主役であったポルトガルが、オランダにその座を脅かされ、キリスト教に対する弾圧が日毎に厳しさを増し、やがて、キリシタン大名だった高山右近ら多くのキリスト教徒がマニラ・マカオに追放される(1614年)。それにもかかわらず、この頃のキリシタンの総数は、全国で6、70万人を数え、奥州や蝦夷地にまで拡がっていたという。
こうした中、多聞はパードレを目指すイエズス会士として、龍之進は「龍王」と呼ばれる貿易商へとたくましく成長し、マカオで邂逅することになるのだが、二人の試練は、まだまだ続く。果して、龍之進は、沙羅と巡り合うことができるのか。出会えたとすれば、その後二人には、どのような運命が待っているのか。1600年の関ヶ原で幕を開けた本作が、幕を閉じるのは、1644年だ。12歳だった龍之進は、50代半ばである。
多聞、龍之進、そして沙羅、この三人の日本と海外とを繋ぐ生きた証をじっくり体感していただきたい。そこからは、歴史小説の新しい可能性が垣間見えるようでもある。とりわけ、私が感銘したのは、マカオで龍之進と多聞が、日本人のための慈善施設を運営するために奔走する場面である。おそらく、作者にしか書けない、否、作者だからこそ筆を尽くし得たのだと言えるかもしれない。そういう意味では、読み所、読み逃しに出来ないシーンがちりばめられた一編ともいえるのではなかろうか。再読することで、さらに深みが増すということも、最後に付け加えておきたい。