半年後── 一六〇一年 五月
マヌエルは学識が高いと評判のイスパニア人を雇い、龍之進とペドロ、沙羅に学問を修める場を設けてくれた。
故国の大学を出たイスパニア人は、イスパニア語、ポルトガル語、ラテン語、算術、太陽や月、星の動き、人体構造と医術といった学問を三人に教えた。これらの学問は船に乗る商人に必要だとマヌエルが考えたからだが、算術が苦手なペドロは計算をよく間違えるので、一人だけよく居残りになる。
この日もペドロは算術の復習のため、一人家に残されてイスパニア人の教えをみっちり受けていた。
龍之進は毎日のように沙羅と海辺へ行った。波打ち際を駆けてどちらが濡れないかを競ったり、貝殻を拾ったり、砂浜に文字を書いてポルトガル語を教えてもらったり……。沙羅は朗らかで、賢く、感情が豊かだ。一緒にいると、押し殺していた感情を表してもいいんだと思えるし、いやなことも忘れられる。気がつくと視界の中に沙羅を探していて、自分でもおかしいと思った。でも、こんな日がこれからも続くと思うと、なんだかうれしかった。
浜辺を歩きながら、沙羅が龍之進に微笑みかけた。
「ペドロは龍之進が来てから、前より明るくなった。よく人と話すようになったし」
「そうなの?」
「そうよ。龍之進が好きみたいね。いつもそばにいたがるし、後ろを付いて回るでしょ?」
そういえば、気がつくとペドロはすぐ横や後ろにいる。それが彼なりの好意の表れなのだと沙羅は教えてくれた。慕われていると思うとうれしい。
マヌエルが交易で家を留守にしがちなので、龍之進はペドロと沙羅と三人で過ごすことが多かった。とりわけ沙羅から異国の習慣と作法を教えてもらうため、始終一緒にいるような状態だ。二人でいるところを見つけると、ペドロは決まって割って入ってくる。それもこれもペドロができるだけ龍之進といたい、しかも独り占めしたいからだと沙羅は笑った。
沙羅は帆を畳んだ多くの船が停まる海と、対岸の新緑の山々を眺めた。龍之進もそちらに目をやる。
交易商であり船主のマヌエルは、船長のゴンサルベスと時々海に出る。ゴンサルベス船長は人商人から龍之進が逃げようとした時、家の前でぶつかった小太りの男だ。龍之進は彼が好きになれなかった。龍之進にもカルバジャル家の召使いにも横柄で、日本人や唐人、朝鮮人、カンボジア人など南蛮人以外の人々を見下しているのがわかるから。
「父は商人だったの」
沙羅がぽつりと言った。
「一年半前事故で亡くなったの。十四年前、父が交易をするために平戸に着いた時、母と出会ったんですって。父は母を気に入って……母は周りの反対を押し切って父についていったの。それから亡くなるまで母はずっとマカオにいた。よく平戸や長崎の話をしてくれたわ。どんなところだろうって思ってた。でも、ここに来てみてわかった気がする。母は、マカオにいながら、長崎を、日本を想っていたんじゃないかって。長崎はマカオと似てるもの」
「どんなところが?」
「海に突き出たところに町があって、坂が多くて、小高い丘に教会があるところ」
沙羅は龍之進を見て微笑んだ。
「龍之進とわたしは似てる。独りぼっちなところが」
はっとした。父を亡くしてから、ずっと自分だけが独りだと思っていた。でも、沙羅も同じ孤独を抱えていたのだ。
考えてみれば、マヌエルもペドロも、沙羅も、召使いたちも、故郷から遠く離れ、あるいは家族を失い、ここにいる。みんな、俺と同じ……表からはわからないだけで、それぞれが淋しさを心のどこかに感じながら生きているのかもしれない。
今の龍之進にとって、カルバジャル家にいるみんなが家族だった。彼らといると、関ヶ原の家を思い出す。心地よくて、やさしい時が流れるから。血の繋がりはないが、マヌエルも、ペドロも、沙羅も……この上なく大切な人たちで、ずっと一緒にいたい、もう誰一人として失いたくないと思った。
龍之進は沙羅と別れ、槍の稽古へ向かった。マヌエルが武士の子である龍之進に武芸の稽古をさせたいと町年寄に相談したところ、縁戚の槍の名手を紹介され、三か月前弟子入りしたばかりである。父から時々刀や槍の稽古をつけてもらっていたが、本格的に武芸を習うのは初めてだった。
海辺から水夫町へ戻って坂を上がり、慈善院の前を通りかかると、揃いの青い着物姿の童男たちがいた。そのうちの一人を見た時、他人の空似かと思い、立ち止まって凝視した。たちまち鼓動が速くなる。
「多聞……? 多聞か」
こちらに気づいた少年の目が丸くなる。「龍之進! どうして、なんでここに?」
互いに駆け寄ってまじまじと見合った。
「無事だったのか。よかった! ほんとに多聞だね? なんだか信じられない!」
「私だってそうさ!」
二人して抱き合い、そのまま跳ね回った。それから互いに体を叩いては抱き合い、それを繰り返してようやくこれが現実だと悟った。
「多聞、その青い衣はなに?」
「ああ、これ? 小神学校の着物でね。実は今長崎のキリシタン学校で学んでるんだ」
「え、キリシタンになったの?」
「うん。あれからあの雑兵に捕まって……でも、パードレに助けられたんだ。今はみんなからセバスチャンって呼ばれている。それがキリシタンの名でね。龍之進こそどうして長崎に?」
「俺はあのあと、野盗に捕まってさ。人商人に売られて長崎へ連れてこられたんだ。でも、親切なポルトガル商人に引き取られて、今はここで暮らしてる」
「ほんとに? そっか……お前もいろいろあったんだ。でも、これからまた会えるね!」
色々と話がしたいからと多聞を誘って慈善院を離れ、カルバジャル家の借家に連れていった。
「ここが今の家さ」
多聞は家屋の全体を見回した。「へぇ、立派だね。その着物もだけど、本当にいい人に引き取られたんだね」
「うん。家に入る?」
「ううん、まずはゆっくり話そう。積もる話もあるし」
龍之進は多聞と再び足を進めて岬のほうへ向かった。
「あのさ、実は俺も受洗したんだ。タデウスっていう名でさ。でも、家では龍之進って呼ばれてる。それにしても多聞も捕まってたなんて。俺はてっきり寺に戻れたもんだと思ってた」
「私だって……龍之進なら逃げられると思った」
悔しそうな多聞の表情を見て悟った。なにか隠している。多聞は滅多に怒らないし、悔しがる顔も見せない。
「多聞、あそこで分かれようと言ったの、あいつらの目をごまかせるとか言ってたけど、違うんだろ? なにか他に理由があったのか?」
多聞は一瞬言葉を詰まらせた。「いや……」
「あの雑兵に捕まったとか言ってたけど、もしかして……囮になったのか? 俺を逃そうとして、わざとあの雑兵の目につくようなことをしたんじゃないだろうな」
多聞の顔が強張った。図星だったらしい。
「なんでそんなこと──」
「私といたら逃げるのが遅くなるよ。龍之進は足が速いし、一人なら逃げきれるかもしれない……そう思った。お前は一人竹刀で戦って私を先に逃がそうとしてくれたし、私のお父も死ぬ間際、龍之進のお父に助けられたと言ってた。父と子揃って助けてもらうわけにはいかないよ。命懸けなんだから。きっとお父も龍之進の足を引っ張るなって言うよ」
あの短い間に、多聞がそんなことを考えていたとは思いもしなかった。
龍之進は岬から海鳥が舞う碧い空と海を見つめた。暖かく心地よい風が顔を撫でる。
「でもさ、俺が関ヶ原の様子を見に行くと言わなければ、今もあの村に──」
「ううん、おかげでお父に会えたし。最期にお父と話せて私はうれしかったよ」
無言のまま煌めく海を見つめた。しばらく二人してそうしていた。
生まれてからあの時まで村を離れたことはなく、あのままあそこで生きていくのだと思っていた。多聞ともずっと一緒だと思っていたのに、関ヶ原の戦場でなにもかもが変わってしまった。住む場所も、周りの人々も、生きる道も。今、多聞も俺もこれまで想像もしなかった世界へ飛び込んでいる。
多聞を誘って岬の崖下へ下りた。緑の葉が生い茂る木々を搔き分けると、岩の裂け目がある。先に入っていき、多聞を手招きする。中は奥行きのある空洞になっていた。
「ここは弁天窟っていうんだ。弁天様を祀ってたんだけど、何十年か前にキリシタンが取り払ってそのままになってるんだって。寒い日は暖かいし、暑い日は涼しいよ。一人になりたい時、よくここに来るんだ。俺のとっておきの場所さ」
多聞は首をめぐらして岩屋の中を見回した。「へぇ、奥もあるんだね」
龍之進は大きな岩に座った。「さっきパードレに助けられたと言っただろ。どこで会ったんだ?」
「京都でね。あの雑兵たちに京都で売られそうになったから、隙を見て逃げ出したんだ。そしたら雨が降ってきて、腹が減って道端に座り込んでたら声をかけられた。私はたまたま教会の前にいたんだよ。パードレは教会の中に私を招いて食べさせてくれて、ここにいたいとお願いしたらあれこれ訊かずに受け入れてくれた。小神学校で学べるようにもしてくれて。そうだ、あの戦の半月後、京都で石田様が処刑されたって知ってる?」
足元にあった小石を拾い、外へ放った。
「パードレから聞いたよ。でも、俺にとっちゃ、どっちが勝っても負けても同じだ。お父がいないんじゃ……それで多聞は小神学校で学んでからどうするんだ?」
「パードレになろうと思ってる。もう関ヶ原に戻るつもりはないよ」
「え? どうして? 多聞にはおっ母もお兄も──」
「お父が死んで、おっ母が大変なのはわかるし。お兄とお姉はおっ母を助けられるけど、私はあまり役に立たないから。それに男は女よりも食うしね。庄屋様はあの戦のせいで飢饉になると言ってただろ。一人でも食い扶持は減ったほうがいいからさ」
「聞いてたのか、和尚様との話を」
「うん。家に食い物がないのはわかってたし」すると急に話題を変え、多聞はやけに明るく言った。「学問はいいよ。南蛮の知識を得るのは楽しいし。小神学校では日本の読み書きはもちろん、南蛮言葉も習って、日本だけじゃなく南蛮の書物も読むんだよ。南蛮の笛や琴、太鼓を奏でてさ。そう、茶の湯も嗜むしね、ぜーんぶおもしろいよ!」
多少の強がりが入っているのはわかっていた。でも、それには触れないことにした。
「そっか。昔っから学問が好きだもんな。うん、お前に合ってるよ!」
「ありがとう」
多聞ははにかんで微笑んだ。
「パードレのそばにいると、驚くことばかりなんだ。今にも死にそうな病人の世話をしたり、売られた童を銭を払って引き取って読み書きを教えたり。自分の食い物を削っても病人や童に与えるんだよ、親でも子でもないのに。あんな慈悲深い人たち、見たことないや。私もあんなふうに温かくて、情け深い大人になりたいなぁ」
それから二人して海岸から岬へと上がった。岬の先端で普請が行われている。ひと月以上前、キリシタンたちが献金し、長崎で一番大きく立派な教会堂の普請が始まったのだ。
「楽しみだなぁ。この教会ができるのが。パードレがおっしゃっていたんだけど、日本で一番大きいんだって!」
普請場には大工や職人たちの掛け声や木材を大工が手斧で荒削りし、鑿で木材を割る音が響いていた。
雲の晴れ間から光の帯が海へ伸びている。普請場とその奥に広がる空と海に顔を向ける多聞は、龍之進の知らない、どこか遠くの世界を見つめていた。
多聞は新しい居場所を見つけたのだ。その聡明さを活かせる場所を。
眩しさと淋しさを感じる反面、龍之進も奮起しなければと思った。
「パードレか。お前ならきっとなれるよ!」
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