女という木

 

 同年代の女性の著名人がSNSやテレビに映し出されると、じっと見るようになったのは、30代半ばを過ぎてからだ。この人、たしか同じくらいだったような──そう思いながら眺めるのは、顔の輪郭や歯茎だけでなく、視線や声まで含めた全身のムードである。

 彼女たちはもとから恵まれた容姿であることに加え、頭のてっぺんから爪先までプロの手で仕上げられている。そのうえ、贅肉のない膝や、肩甲骨のあたりの身幅の薄さを見ると、節制がゆき届いた生活に触発されて、しばらくは糖質オフのビールばかり選んでみたりする。

 

 そうした同年代の観察対象を、標本木と表現した人がいる。気象庁が草木の開花時期を調べるために定めた、あの木である。

   ぱっと思い浮かぶのは、靖国神社のソメイヨシノだろう。環境に左右されにくい場所で、継続して観察される日本一有名な桜。それをヒト科にあてはめるとは、匿名ブログの中にはおもしろい視点を持っている人がいるものだ。

   しかし、女性を標本木にたとえたその書き手自身のことを、私はほとんど知らない。いちど目にした近影では、長身の美しい人だったけれど。

 それが最近になって、50代後半だと分かったのは、カイリー・ミノーグが標本木だと書いていたからである。ブログによれば、VIPだけが招かれた公演で、その人はカイリーという木が歌い踊るのを堪能したそうだ。

 

 木の具合を知るには、一番は目視である。

 私の庭には、梅だけでも7本、柿は3本、赤松は2本、楓、山茶花、山椒──さまざまな木があるが、剪定が追いつかずに年を越してしまった木は、枝の先端がもろく、簡単に折れてしまう。樹皮もカサカサして、実も葉も、早く落ちてしまうことが多い。

 そもそも樹齢が分からない。家は少なくとも130年前に建てられているけれど、木というものは、素人の管理のもとでどのくらい生きるものなのだろう。健康で長生きさせるにはどう手入れしたらいいか、日々試行錯誤である。

 

 外側が内面を表すのは人間も同じ。たかが見た目、されど見た目である。

 35歳を過ぎたら、7の倍数の年齢に7歳若く見えるようにありたいと語ったのは、医師である女友達だ。

 42歳の時点で35歳に、49歳では42歳に、56歳では49歳に見えるように努力するべきだと力説するのは、実年齢より老けて見える人は、内臓にも何かしら問題を抱えている場合が多いことを知っているからだろう。

「年相応に見られればいい」というのは、体のケアとしては下り坂をゆくようなもので、上り坂を歩き続けて初めて「あの人は変わらない」という平坦を維持できる。ひと回りは欲張り過ぎだが、3、4歳は誤差のようなもの。そう考えると、マイナス7歳というのは絶妙に目指しやすい数値かもしれない。

 

 その年齢のサインについて、こめかみは正直だと言ったのは、やたらとモテる男友達だ。

 相手と向き合ったとき、目を見続けるのは憚られる。ふっと視線を外した先にある、ちょうどいい止まり木。それがこめかみだそうだ。

 シミや生え際の白髪といった目立つものではなく、

「なんかザラザラしてたり、脂っぽかったりするんだよね」

 憎たらしいがこれは鋭い意見で、切手一枚ほどの面積が雄弁に年齢を語ると腑に落ちたのは、雑誌に掲載された自分の姿を見た時だった。 

 和室でお茶を点てている姿を横から写された一枚の、横顔の薄さにはっとした。こめかみが痩せているのである。土にたとえるなら、凹んで乾き、どこかしょんぼりしているような──。

「やつれた横顔は、よく思考してきた知性の表れ」

 肥沃なこめかみは失ったが、豊かな語彙でこう慰めてくれる友がいる。私という木なりに、手をかけて、健やかでいたいと思う。桃は桜にはなれないし、春に金木犀は咲かないのだから。

 

 見た目の若さというと、複雑な気分になった出来事が記憶に新しい。

 26年前に名古屋市で起きた殺害事件で逮捕された容疑者が、現場検証に現れた際の映像を見た。ひと目でいいから顔を見たかったが、叶わなかった。

   代わりに見えたのが、髪だ。

   報道陣のカメラのフラッシュが、うつむいた女性の頭頂部を容赦なく照らし、毛が密集した若々しい分け目と、整ったキューティクルがあらわになった。来年古希を迎える人とは思えなかった。 

 高齢になっても白髪が一切ないというのは、かなり少数ではないだろうか。

  もし染めずとも真っ黒なら、髪だけ見れば尋常ならざる木である。健康的な生活が垣間見え、それは、償いとして真っ先に手放さなければならなかったはずのものだ。

 もし染めたばかりなら、矢印が自分に強く向いているようで、状況の特異さとあいまって、ひたひたと迫ってくる奇妙な怖さがある。年齢と外見の間にある違和感が、映像より長く胸に残った。

 

 生活が外見を作っていく。

 先日、懐かしいお客様が山梨に遊びにきた。化粧品関連の仕事をしている女性で、編集者時代によくお世話になった。

 お土産に持ってきてくれたのは、人気ブランドのファンデーションだった。それを何の気なしに肌にのせてみて、白さに驚いた。

 商品のパンフレットを見ると、品番のあとに「標準色」とある。大手の化粧品会社は、日本人の顔を分析した膨大なデータを持っているはずで、この色が標本木ならぬ標本肌であることは間違いない。山梨に越してから4年経ち、私の肌はかなり灼けたのだ。

 果たして私は、白い顔のままで出かけた。洗面所の鏡で見たときは少しギョッとしたけれど、部屋着からカシミアのセーターに着替え、パールのピアスを合わせて全身鏡で見直したら、しっくりきた。肌だけを凝視するのではなく、全体を見て枝ぶりごとととのえるというのも、年齢を重ねたゆえの知恵だろう。

 

 靖国神社のソメイヨシノの観測がはじまったのは、1966年だという。もうすぐ半世紀を迎えるこの木は、神社の職員によって丁寧に手入れされ、観察され続けている。

 こう書いていると、40年で舞台を降りた標本木──安室ちゃんが思い出される。継続して観察されない場所へ消えた、稀有な木である。

 同年代の偉大な歌姫は、私が大学進学のために上京した年に、史上最年少でレコード大賞に輝いた。

 語ることにも、語られることにも、線を引いた人。

 自分で決めること、そして、振り返らないというその見事な引き際に、ふとしたとき、無性に励まされるのである。