里山界隈の世界線

 

 いつどこで覚えたか定かでないのに、ふとした時に出てくる言葉がある。私にとっては「世界線」がまさにそれだった。

 親友と食事をしていた時のこと。ある有料コミュニティの話題になった。すでに入会している知人が勧めてくれたのだが、メンバーになるとどんな良いことがあるのかと聞いた私に、その人は「腕のいいドクターがいる美容整形クリニックの情報が回ってくる」と教えてくれたのだった。そもそも高額な会に入る余裕のない私が、顔をどうこうするわけもない。

「そういう世界線を生きてる人たちがいるんだよ」

 私はこう言って、コミュニティに集う裕福な女性たち(男性たちも)のことを親友に説明したのだった。

 親友は「セカイセン? なにそれ」と言ったきり、単語には大して興味を示さずにパスタを食べていた。SNSには近寄らず、よそ様から距離を置いて泰然としているこの友を前にして、私は恥ずかしくなった。酔って楽しくなり、聞きかじった言葉で軽薄に哲学してしまったから。

 

 私は他人に興味がある。さらには、その人がどんな発言をして何を書いているかに刺激を受けることが多い。すぐに思い浮かぶのは「田村でも金、谷でも金」や、「私は初めて副大統領になる女性かもしれないが、最後にはならない」という演説。名言をいろいろと引き出しにしまっては、執筆の足がかりや雑談の種にしてきた。

 そうした中で、世界線という言葉は、言葉集めの正規ルートではなく、流し見のSNS経由で学習してしまったようだ。

 

 実生活で自分以外に「世界線」を使う人を見たことがなかったのだが、ある時ついに出会った。遠矢山房のお客様だ。

 思わず「いま、世界線って言いましたね」と食いつくと、その方はハッとして「使っちゃいました」とバツが悪そうにした。世界線というのはやはり、晴れやかな気持ちで使う言葉ではないのだ。

 その方の用法はこうだ。海外で暮らす友人(外国人)のSNSには、日本人のフォロワーがたくさんいる。友人が東京に旅行にくることになった際、おすすめの場所を教えてと投稿すると、たくさんの情報が集まったそうだ。

「すごい世界線ですよね」

 その人は隔世の感を込めてこの言葉を使った。真っ先にガイドブックを購入する自分には信じられない世界だ、と。

 

 それなら「世界」で済むはずなのに、なぜ私たちは線を付けるのだろう。

「世界」だと自分も含まれてしまう。線は文字通り、自分とは違うと線を引くためではないだろうかというのが、私たちのひとまずの答えだった。お客様は感嘆ゆえの一線だったが、私のそれはもう少し複雑だ。

 

 鏡を見て気分が沈むことが増えた。これといって大きな変化ではない。なんとなく顔の輪郭がぼやけるとか、肌の色がくすむとか、その程度のこと。お金をかければこうした悩みは解決できる。実際にその手の処置をした人は、時間を取り戻す代わりに自然な表情を失っているので、すぐに「済み」だと分かる。あんな風になりたいわけではないが、それでも、自分に潤沢にお金をかけられることが心からうらやましい。

 

 姥捨山伝説を描いた『楢山節考』(深沢七郎)で、老母おりんは還暦を過ぎてなお丈夫な歯を自ら折ってしまう。貧しい村では、老人が健康な歯をしていることは恥なのだ。もう食べる気がないことを表明し、おりんは息子に背負われて山へ入る。今や高齢者が山へ入ることなどない。豊かな層はますます器官を丈夫に保ち、欲望をのみ込んでいく。

 

「世界線」に次いでもうひとつ気になる言葉がある。「界隈」だ。

 ある日、港区中学受験ママ界隈というタイトルの動画がスマホに流れてきた。きっと息苦しい内容だろうと察しがつく。

 首都圏模試センターによると、2025年度の私立国立の中学受験者数は5万2300人(18%)で、過去40年間で3番目に多いそうだ。

 となると加熱するのが塾通いだ。有名塾ともなると3年間で300万円は下らない出費に加え、盆暮正月ごとに数十万円のオプションもある。こんなに頑張ってきたのだから、ここで出費を渋ったせいで子供が試験に落ちたらと思うと悔やんでも悔やみきれない。塾は親心の弱みを突いてくる。

 番組では、親が中学受験に突進するあまり子供の居場所がなくなり、塾帰りに交番に避難する事例が紹介されていた。子供に「(こんなに勉強が辛くて)生きている意味がない」と泣かれたと話す母親もいた。そんなことを悪びれずに披露して、おかしいとは思わないのだろうか。

 たまに東京に行くと、広告をはじめとするメッセージの多さに驚く。環境とは景色だ。欲望と恐怖を同時に与えれば世界を支配することができると言ったのはマリリン・マンソンだが、あれだけ広告に囲まれていれば、影響を受けないわけにはいかないだろう。そこのあなた、他の人はもっと高い点数を取っているよ、もっと美しいよ、もっと貯めているよ──つくづく難儀だ。

 

 いっぽう、こちら里山ママ界隈で景色を独占するのは、今の時期ならドクダミをはじめとする草だ。草刈りしてもまだまだ生えてきて、摘んで干してお茶にしたり焼酎に漬けてチンキにしたりもする。毎日数時間を費やしても作業が終わらない。港区中学受験ママ界隈には信じられない生活だろう。

「私立に通わせないの? それやばいよ」

 かつての仕事仲間だったある女性に言われたことを思い出す。彼女から見れば私は無責任で無計画な母親なのだ。

 別のある女性は、山梨の私の家に遊びにきた時にこんな話をしてくれた。

 ぶどう畑を散歩しながら、子供の姿がたくさんあることに驚いた。みんなでサッカーをしたり、虫を捕まえたりして遊んでいる。丘の向こうからおーいと手を振る子がいて、おーいと手を振り返す子がいる。すごいね、子供って、そうじゃなきゃねと彼女は言った。自分に言い聞かせているようだった。

 彼女がそんな風に子供たちを観察していたことが意外で、だからこそ打たれるものがあった。その彼女も、東京に戻れば自分の信じるやり方で働き、家族を守っていく。ひとりとひとりで差し向かう時、世界線だの界隈だのは消えてしまう。

 

 港区中学受験ママ界隈が娯楽番組として成立するのは、富裕層の狂騒は数字が稼げるからだ。よその島を見物して腐す人がいて、富裕層は経済力を誇示するためにさらに露悪的になる。

 そういう番組を見ていると、しばし自分の人生に集中することを忘れて胸がざわつく。そんな時はスマホを置いて庭に出る。草、水、生き物の音がある。人は人、うちはうち。分かっているのに、気を抜くと欲望と恐怖は生活の中にするりと入ってくる。

 子供にも欲望と恐怖に溺れない術を教えなくてはと思うものの、私だってちゃんと泳いでいけるか自信はない。せめて自然に囲まれた環境を用意したいと願うのは、人間に備わった生存本能なのかもしれない。

 自然の中で暮らしていると、この世界は人間のためだけに作られているわけではないことがよく分かる。四季の移ろいとともに自分も年を取ることが自明で、そうなると不思議なもので、生きてやろうじゃないかという気持ちになる。