昼休憩が終わって席に戻ると、午後の定例ミーティング用の資料の束が、デスクの真ん中に置かれていた。その一番上に、正方形のポストイットが一枚貼られている。

 

 次回から、会議資料の作成など急ぎでない仕事は、前日までに依頼くださるようお願いいたします。庶務 

 

 はあ、とため息をついて、向かいの席にいる後輩の上野に渡す。

「はい、これ」「ありがとうございます」と上野は立ち上がって受け取ると、顔の前で手を合わせた。今朝、彼に「庶務のおばちゃんにかわりにお願いしてほしい」と頼まれたのだ。

「今度から自分で言うか、ちゃんと前日までに依頼してよ」「えー、そんなこと言わないでくださいよ。だってあのおばちゃん、おっかないんだもん」 

 ミーティングルームに移動する途中も、 「あのおばちゃん、本当に超おっかないんすよ」と上野が話しかけてきた。「今朝なんかマネージャーにむかって、俺らの請求書のまとめ方が雑すぎるって学校の先生みたいに𠮟り飛ばしてたんすよ。見ました? まじであのおばちゃん、自分を何様だと思ってるんだろ」

「みんながきちんとやらないからじゃない?」響は言った。

「いやいや、こっちは繁忙期でそれどころじゃないっすよ。ちょっとは空気を読んでくれてもいいのに。俺の持論すけど、中年女性って結婚してるかしてないかでやさしさの度合いが段違いっすね。独身で庶務のパートなんかやってるあのおばちゃんみたいな人が、一番性格が悪い。ここで長年、何人もの庶務を見てきた俺にはわかるっす」 

 長年って……ほんの五年かそこらでしょ、と思ったが響は何も言わなかった。そもそも彼女は本当に独身なのだろうか? 何か根拠はあるのか? ないに違いない。勝手に決めつけているのだ。上野はすたすたと先を歩いていく。

 この会社は日本でも有数の大手エネルギー関連企業で、従業員数はグループ全体で一万人を超える。ここ数年は御多分に漏れず、コンプライアンスだのダイバーシティだのと社内啓蒙活動に力を入れているが、古く保守的な体質は、なかなかかわらない。響が現在所属している、東京近郊の支社ともなるとなおさらだった。社内はハラスメントすれすれの噂話が毎日のようにとびかっている。 

 響が埼玉支社法人営業二課に異動してきたのは、今から三年前のことだった。それまでは、もっぱら本社勤務だった。三十歳前後で地方の支社に異動し、結果を出す。それはわが社では出世の定番ルートだった。

 支社には計七つのミーティングルームがあり、それぞれの広さに合わせて、トカゲ、ミドリガメ、ワニなどの爬虫類の名前がつけられていた。最大の二十人〜三十人用の大会議室はコモドドラゴン、最小の四人用はヤモリ。今日、響のチームが押さえているのは、十人規模のスッポン。 

 ドアをあけると、チームのメンバーはほとんどそろっていた。一番奥のホワイトボードの前に、リーダーの黒木が立っている。黒木は会議のとき、絶対に座らない。壁から壁へ、ずっとうろうろ歩き続ける。やせ型の高身長なのもあり、暇をもてあましたキリンみたいだと響は常々思っていた。目が合うと、いつもはすぐにそらされるのに、今日はなぜかきつく睨み返された。 

 この金曜午後の定例ミーティングは、黒木が半年前、チームリーダーに着任してすぐはじまったものだった。前のリーダーは地元採用の高卒社員で、とてものんびりした人だった。チーム全体ものんびりしていて、誰もが目標を「次の異動までミスしない」に設定しているように見えた。ところが黒木が隣の一課から異動してきた途端、すべてが様変わりしてしまった。一番やる気のなかった上野まで、「結果をだして本社にいく」と息巻き、ミーティングでは我先にと発言するようになった。

「全員揃ったか。じゃあはじめるか」黒木が言うと、さっそく上野が手をあげて、今、自分が取り組んでいる営業計画をまとめた資料をくばりはじめた。響はため息をつきながら、壁の時計を見る。残り時間五十九分。 

 今日もひたすら自分の気配を消して、時間が過ぎるのを待ち続ける。耐えて、耐えて、耐えて、やがて黒木のスマホのタイマーが鳴り出した。

「あー、もう終わりか」黒木が言った。

「この部屋、次、どこかとってる?」「はい」と新入社員の林が答える。

「ネットワークサービスグループが五時までとってます」 

 ちっと舌打ち。

「じゃあ、ここで切り上げるか。ま、来週もこんな感じで、それぞれ取り組んでいることに力を注いでくれ。ところで、宇佐美」 

 すでに席をたって出入り口に向かっていた響は、名前を呼ばれるとは思っておらず、驚きのあまり転びそうになった。白い壁に手をついて、はい、と答える。「例の件、どうなった」と黒木。

「操さんの」 

 なぜ彼は、母のことを勝手に操さん、と呼ぶのか。知り合いというわけでもないのに。

「すみません、今回も無理そうです」 

 響は言った。ずっとふにゃふにゃごまかし続けるわけにはいかない。「えー、またダメなの」と横から口をはさんだのは、響と同じタイミングで本社から異動してきた橋本だった。

 「宇佐美さんと同じチームになったら、いろいろ楽勝だと思ってたのになあ。あのさあ、使えるコネならなんでも使わなきゃ。大手メーカーの社長がお母さんなんて、この国では最大級の武器だよ」 

 お前にコネと学歴以外、何があるんだよ。以前、誰かの送別会で泥酔した彼に、そう言われたことがある。本人は忘れたふりをしているが、響は一言一句、脳に刻み込んである。 

 黒木の言う例の件とは、 駅前で開発が決まっている大型商業施設についてのことだった。響の母に口利きや仲介を頼めないかと、以前から何度も言われていた。もし施設全体で一括でエネルギー需給関連の契約がとれたら、黒木にとって、いやチーム全員にとっての、かなり強力な実績になる。 

 黒木のこの手の頼み事は、今回だけに限ったことではなかった。管轄エリア内で大規模な案件が持ち上がるたび、なんとか母のコネを利用して契約をとれないかと持ち掛けてくるのだった。響の母の操は、大手電機メーカー初の女性取締役社長だ。実際のところ、何か頼めば一つぐらいは協力してくれるかもしれなかった。 

 ただ、めんどうくさい。母と不仲というわけじゃないが、少し気難しい人で、どんな反応が返ってくるかわからない。できるかぎり関わりたくない。それだけだった。 

 正直なところ、響のここでの目標は以前と全く変わっていない──次の異動までミスをしない──のだ。営業マンとして最低限のやるべきことはやるつもりでいるが、大きな成果をあげて出世したいなどとは、みじんも思っていない。「うちはメーカーで、不動産でもデベロッパーでもないから、なにもできないって。すみません」 

 響は仕方なく頭をさげる。そのままちらっとだけ目線をあげて、黒木の顔を確かめた──ぶちぎれている、はっきりと。が、彼はすぐにいつものステキング(一課の若い派遣女子が命名した彼のあだ名。社内で一番素敵だから、らしい)なスマイルをうかべて、 「まあ、宇佐美だって、いつまでもママのおっぱいを吸ってるわけにはいかないよな」と言った。 

 ハハハと廊下に複数の笑い声が響く。また肺に、小さな砂袋が一つ。何もかもがめんどうくさかった。 

 ようやく終業時間がきて会社を出た途端、正面から強い突風がふいてきて、本当に何もかもが嫌になった。 

 さいたま市内に越してきて、二年半。こっちの風は東京よりずっと冷たく、強い。とくに夕暮れどきは、するどい刃物のようにきつくて、まるで両ほほをびんたされているみたいに感じる。 

 一つ息をついたあと、風を押しながらバス通りをとぼとぼと歩きだした。同じ道を、背中を丸めた勤め人たちが、やっぱり同じようにとぼとぼ歩いている。駅につくと上り電車に乗り、有楽町で降りた。 

 そこから向かった先は、本社近くの貝焼き屋。集まったのは、仲良しの同期メンバー四人。うち二人が、ちょうどこの秋にほぼ同時に育休から復職したので、久々にプチ同期会をやろうということになっていた。 

 響以外はすでにそろっていて、テーブル上の網では、たくさんの貝類がぶすぶすと音をたてながら焼かれていた。響は席についてすぐレモンサワーを注文し、そのあとで、ほかの三人ともノンアルドリンクを飲んでいることに気づいた。

「あー、こうして四人で集まると、昔を思い出すよね」 

 ウーロン茶らしきものをぐびっとあおって、弥生が言った。弥生は三人の中で一番先に結婚、出産した。今は時短勤務の期間も終え、ずっと希望していた広報部でバリバリやっている。

「ほんと、二十代のときは毎日のように集まって飲んだくれて、終電で帰ってたもんね。わたしは今は時短だし、もう終電って何それおいしいのって感じ」

 おどけた調子で有紀が言う。有紀は独身の頃から、妊娠したら仕事をやめて専業主婦になると話していたが、家のローンがきついらしく、 結局は産後半年で復職した。結婚前は優秀な営業マンだったが、今は営業補佐業務しかしていないようだ。

「わたしなんて、週四リモートだから、人と直接会って雑談することすらほとんどないんだよ」 

 反対に、博美は育休を取得可能期間めいっぱいまで使い切った。結婚前から本社の隣の子会社に出向し、労務関係の業務についている。「二人とも偉いよ」と弥生。

「ちゃんと働いて、子育てもして」「弥生だって」と有紀が言う。

「まだえい君保育園でしょ? なのにフルタイムで働いて、すごいよ」「うちは母が近くにいるしね。夫も協力的だし」「うちも夫が協力的で助かるー。育休も一緒にとってくれたし」「うちもうちも」と博美。

「地元のママ友とかさ、旦那さんが激務で、いわゆるワンオペっていうの? そういう人ばっかりだよ。見た目もぼろぼろで疲れ切ってる。そういうママを見るたび、言っちゃ悪いけど、わたしって恵まれてるなって感じちゃう」

「就活がんばってよかったって、今になってしみじみ思うよね」と有紀は言った。

「安定、人生は安定第一だよ」 

 三人とも、夫は社内の男だ。そもそもこの会社は、社内結婚がやたらと多い。 

 それから、三人は響などこの場にいないかのように、子育てお役立ち情報の交換でわいわい盛り上がりはじめた。バアバ、吸引機、おむつペール、ユーチューブ。あらゆる単語が響の周囲をふわふわとクラゲのように浮遊する。響はぼんやりと、無関係なことに思いをはせる。今でも付き合いのある友人グループは、この同期メンバーのほかには、大学時代の五人組と、中高時代の四人組がいる。同期たちは〝安定〟企業に勤めながら三十代前半までに出産し、働きながら子育てするという、ある意味、現代女性の王道ともいえる道を着々と歩んでいる。大学時代の仲間たちは、競うように海を渡って、華やかなキャリアを積み上げるという道へ。中高時代の友達三人は、女子大を出てすぐに結婚し、みんな子供を二人以上産んだ。 

 なんだか不思議だ、と響は思う。なぜみんな、同じグループ同士で同じような道を進んでいくのか。そして自分は、なぜ……。「響はどうなの? 例の彼と」 

 急に矛先が自分に向いた。有紀がハマグリの殻をこちらに振っている。

「いつまでもだらだら同棲してたら、ダメだよ。うちら、もうすぐアラフォーだよ」

「そうだよ」と弥生。「社内結婚なんかイヤだって言ってたけど、社内結婚ほど楽な道はないって」「でもほら、響は出世していく人だから」と博美が言う。

「三十代の女性初の支社長をめざしてほしいって、社長直々に言われたんでしょ?」「でも響のお母さんだって、結婚相手は社内の人なんだよ」と有紀は、今度は博美に向かって殻を振る。

「キャリアを積むなら、協力的な夫は不可欠なんだって。うちの会社の男たちはみんな保守的でおとなしい奴が多いし、バリキャリの結婚相手としてちょうどいいと思うけどね」

「確かにー。わたしたちはバリキャリじゃないけど」

「子育ては大変だけど、家庭を持つってやっぱりとても幸せなことだよ、響」

「そうそう、産む前も別に幸せだったけど、子供ができて、ようやく人生が完成したって感じがするもん」

「子育ては人生の答え合わせっていうけど、本当にそうだなって実感してるー」

「わかるー」

「ねえ、そもそもさ、今の彼に結婚の意思はあるの?」

「親に紹介はしてるの?」

「いっそ先に子供作っちゃえば?」

「避妊はしてるの?」

「うるさい!黙れメス豚ども!」 

 ……と怒鳴りつけられたら、どんなにいいだろうと思った。しかし実際に響にできたのは、ひたすらへらへら笑ってその場をやりすごすことだけだった。するとそのとき、思ってもみない救世主が現れた。金髪の男の店員がやってきて、 「お料理ラストオーダーになります」と告げたのだ。「え!」と三人はそろって声をあげた。「もう九時だよ!九時半には帰るって言ってあるのに!」「うちも!」「わたしなんて八時半!」「わたしが会計しとくから」と響は前のめりになって言った。

「みんな、帰っていいよ」 

 三人は大急ぎで身支度しながら、なんとかペイがどうのと言い合いはじめた。なにペイでもいいからはやく帰れと言いたいところをぐっとこらえつつ、笑顔で三人に手を振り続けた。 

 そして、気づけば一人。

 テーブルの上は汚れた皿とあらゆる貝の殻で散らかり放題だった。店内は盛況で、ときどき爆発音のような笑い声がはじける。その騒がしさが、妙に孤独をかきたてた。 

 さっき誰かが言っていたが、二十代の頃は本当に、毎日のように四人でここに集まって酒を飲んではくだを巻いていた。誰かがパワハラをされたと言って泣けば、みんなで一緒に泣いて、誰かが彼氏と喧嘩したと言って怒れば、この場に彼氏を呼び出して説教して。忙しくも楽しい日々だった。 

 恋愛も仕事もがんばる。あの頃、みんなで口癖のように言っていた。彼女たちは志を同じくした仲間だった。しかし、今は何光年も遠くの星に暮らす人々のように思える。みんなそうだ。友達全員そうだ。自分一人だけ、資源のつきた母星に取り残された、そんな気分。みんな、ロケット切り離しに成功して、どこか遠くへ旅立った。

 

「わたしは今すぐおばさんになりたい」は全3回で連日公開予定