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 中部地方の県でのこと、とだけ言っておく。
 黒羽くろはねさん(四十代・女性)は数年前まで、とある特別支援学校に勤めていた。生徒の中に生まれつき重度の障害を持っていたタケくんという男の子がいた。ゆっくり歩くことはできるが、言葉はうまく話せない。でも性格は穏やかで、よくニコニコと笑い、職員のあいだでも人気があった。
 そんなタケくんだがたまに、
「うー、うー!」
 と騒いで震えることがあった。遊んでいるとき、作業をしているとき、給食を食べているとき、そのタイミングはまちまちで、唸っているあいだ、タケくんは誰もいない方向をじっと見ているのだ。タケくんの他に騒いでいる生徒は一人もいない。
 タケくん、まるで何かに怯えているようですよね……と、職員たちはみな、顔を見合わせて首をひねっていた。
 その学校に、教育実習生が数人やってきた。
 実習生の一人に、丸山さんという明るい女性がいた。黒羽さんとは気が合い、よく実習の合間にお互いのことを話したりした。
 実習期間もあと少しと迫った日の夕方のこと、
「黒羽先生」
 丸山さんが話しかけてきた。周囲に誰もいないタイミングを見計らったようだった。
「黒羽先生にだけ話すんですけど」
「どうしたの?」
 黒羽さんが訊ねると、丸山さんはこう続けた。
「この学校……、出ます」
「出るって?」
「幽霊です」
 丸山さんは幼い頃から霊感があり、かなりはっきりそういうモノが視えるのだと言った。山のふもとにある、古い学校である。周囲には街灯も少なく、夕方になれば真っ暗だ。
「たしかにこの学校は不気味だけど、そんなもの、いないでしょう?」
 黒羽さんはたしなめるように言ったが、
「本当です」
 丸山さんは真剣だった。
「たまにタケくん、騒いでますでしょ。あれ、視えているんです」
 タケくんの怯えた表情を思い出し、黒羽さんはゾッとした。
「……幽霊って、どんなのが出るの?」
 すると丸山さんは首を振った。
「とてもとても私の口からは。いくら黒羽先生でも、それだけは言えません」
 この学校は、いま現在もある。

 

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