アイコさんという女性の体験談。
 結婚して数年したとき、アイコさんの父親が事故で骨折をし、手術をすることになった。
 地元ではいちばん大きな総合病院であり、手術は午後二時からとなった。旦那さんと一緒に付き添ったが、手術が始まればアイコさんたちはただ、手術室の前の長椅子に座って待つだけだ。そわそわしていたら、トイレに行きたくなった。
 旦那さんに断って、その階のナースステーションの向かいに位置する女子トイレに入った。
 他に人はおらず、いちばん奥の個室に入って用を足す。下ろした下着を戻しているとき、
「アコが来たぞ! アコが来たぞ! アコが来たぞ!」
 声変りをしていない甲高い男の子の声が響いた。まるでドアのすぐ外にスピーカーがあるかのような、トイレ中に響く声だったという。
「二階のラウンジで待ってるね! 二階のラウンジ待ってるね! 二階のラウンジで待ってるね!」
 驚いたアイコさんだったが、イタズラだろうとすぐに思った。
(このガキっ!)
 怒り任せにドアを開いたが、そこには誰もいなかった。逃げたと思い、外へ出る。ナースステーションにいる看護師さんたちに、
「今、女子トイレから男の子が出てきませんでしたか?」
 訊ねたが、誰もが不思議そうに首を振るばかり。
「今日は子どもさんの付き添いはいないはずですが」
 手術室しかない階なので、滅多なことで子どもは来ないというのだ。もし来ていたら目立つから、誰かが気づいていたはずだ。
 しかし、男の子の声は耳にこびりついているし、内容もはっきり覚えている。なんだったんだ──と思い返しているうち、不思議なことに気づいた。
 個室の中にいたとき、ドアの外に男の子がやってくるような足音はしなかった。ドアを開ける前に逃げたのだったら走り去る足音が聞こえてもいいはずだが、それもなかったように思える。
 おかしいと思いながら、一応、二階のラウンジに降りてみたが、新聞を読んでいる中年女性がいるだけで、子どもの姿はなかった。
(アコが来たぞ、って言ってたな。私、「アイコ」なんだけどな)
 妙な幻聴だったのだろうと結論づけ、その日はそれで終わりにした。
 しかし後日、ふとあることに思い至った。
 アイコさんは幼少時代から成長する過程で、「アイ」「アイちゃん」「アーちゃん」など様々な呼ばれ方をしてきた。そんな中、生涯で一人だけ、アイコさんのことを「アコ」と呼ぶ人がいたのだ。
 それは、幼稚園の同級生のサトルくんだった。アイコさんのことをなぜか気に入ってアコ、アコ、とちょっかいを出してくるのだった。
 サトルくんは、幼稚園の卒園式が差し迫ったある日、交通事故に遭った。病院に運ばれたが意識は戻らず、亡くなってしまった。友人の突然の死に同級生はみんなで悲しんだものだった。
 まさか、と思って人づてに聞いてみて明らかになった。サトルくんが運ばれたのは、その総合病院だったのだ。
 ちなみにこの総合病院は、一度大規模な改修工事が行われており、サトルくんが運ばれたときとお父さんが手術を受けたときとでは、手術室のある階は異なっているという。

 

「踏切と少女 怪談青柳屋敷・別館」は全5回で連日公開予定