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「この手袋には必ず田久保さんの血が付いてます」
 眉を寄せた片瀬さんに、私は追い打ちをかける。
「あなたはこの手袋で、田久保さんの血を吸い込んだ雪をワードローブ内から掻き出したはずです。警察がDNA鑑定すれば、この手袋はあなたの犯行の証拠になります」
 片瀬さんはうつむいて、唇を震わせている。握りしめた両手も震えている。
 その全身が物語っている、彼女が“完落ち”したことを。
「どうして、こんなことをしたんですか」
 彼女は無言。犯行自体は認めたものの、犯行の理由は語らない。
 片瀬さんをロープで拘束した後、私たちは交代でループの監視をした。境目にモップの柄やスキーストックなどの棒を差し入れておけば、ループがあるかどうかを判断できる。ただ、たまに途切れが起こって分断されたときは棒を入れ直す、という監視方法。
 階段側のループが途切れる棒が分断されるペースは、およそ三十分~一時間に一回程度。ただ、ほんの短い間のようなので、クラウチングスタートの格好で待ち構えていても、その瞬間に通り抜けることはできそうにない。田久保さんのように体が真っ二つにされてしまう。
 そんなループが全面解除されたのは、その日の夜、七時過ぎ。
 突如として、階段、非常口、窓の空間が元に戻った。
 ほぼ同時に、岩手県警警官隊と山岳救助隊がペンションにやってきた。
 吹雪が多少弱まってきたことで、調査・救助に来られるようになったらしい。警察に連絡してくれたのは伊勢崎さんだった。ペンションから逃げ出ていった彼はそのまま車に籠もり、ペンションで起こっている異常事態と自分の救助を警察に要請したらしい。
 県警と救助隊は、田久保さんの遺体を見て腰を抜かしていた。
 私たちはもちろん、ペンションの二階のみで起こったループによる惨劇を事細かに話していったけれど、誰も納得してくれなかった。そりゃそうだろう、と思うけれど。
 それよりも気になったことがある。
 それは、ペンションの“外”で見つかった女性の遺体だった。

 県警と救助隊は私たちを助けに来る途中、ペンションから二十メートルほど離れたところで女性の遺体を発見していたのだ。吹雪でホワイトアウトした山道で、ガードレールを突き破って崖から転落した車の運転席で亡くなっていた、一人の女性だった。
 警察官に拘束されたまま現場検証でその遺体を見た片瀬さんが、声をあげた。
「いやああああ! みどり! 何でこんなところでっ」
 彼女の名前は篠宮しのみやみどり。田久保さんが前に付き合っていた女性らしい。遊び人の田久保さんに、他の子と遊びたい、と一方的にフられたにもかかわらず、みどりさんは諦められずに田久保さんのバイト先“ダイヤモンドダスト”を何度も訪れていたという。
 片瀬さんが涙を拭いもせずに語る。
「小さい頃から体の弱い子だった。それで健康な男に憧れたのね。女の体はそうできてるから。遺伝子が求める。みどりは体の強い子供が欲しかったの。そうじゃなかったら誰があんな男! みどりは付き合ってる頃から、あいつに暴力を振るわれてたのよ!」
 遺体を前にした彼女は、少し情緒不安定になりながら話した。
 片瀬さん──旧姓・篠宮あかねさんは、みどりさんの姉。仕事が忙しい両親は家を空けることが多かったから、二人はいつもくっついて過ごしていた。大人になり、片瀬さんが結婚してからも二人は仲が良く、奥手な妹の初恋も応援していたという。
 だからこそ片瀬さんは身勝手な田久保さんに腹を立て、みどりさんにさっさと忘れるよう何度も忠告していたらしい。けれどみどりさんは、田久保さんに固執し続けた。
 まるで、自分に時間がないことを知っていたかのように。
 みどりさんは、重い病気にかかる。
 彼女の歳で患うことは珍しい、死に至る病。生来の免疫力の低さが招き寄せてしまった死神だった。彼女は大学をやめざるを得なくなって、病院での生活を強いられることになる。それでも彼女は田久保さんに会うために、度々、病院を抜け出していた。
 健康な者にとっては取るに足らないたった一つの出会いを、自分の終活にでもするかのように。実際、恋を止めないことで彼女の命はかなり延びていたらしい。
 しかし、想いだけでは病には勝てず、時が経ち、医師から許された一時退院。最後の自由。みどりさんはそれを普段通り、田久保さんに会いに行くことに使おうとする。
「それを阻んだのが、あの吹雪」
 片瀬さんは顔を歪め、妹の心境を推しはかりながら語る。
「いつ収まるともわからない吹雪が来てしまえば、当分の間はどこにも出られなくなる。雪が止んだ後も除雪しないと車道は使えない。その除雪が終わるまでにいったいどれだけ時間がかかるか。……みどりにはとても、それを待つ時間は残されていなかった」
 だから、と震える声で続ける。
「家を抜け出して、ペンションへ車を走らせたの。そうよね? みどり」
 しかしペンションまでもう二十メートルというところで、雪で視界を失ったのだろう。車はガードレールを破って崖を滑り落ち、彼女は大怪我を負う。それでも車内から抜け出ようと奮闘した痕跡が残っていたけれど、ドアが壊れていてそれは叶わなかった。
 みどりさんの命は、目的地からたった二十メートルの車中で潰えた。
 顔をうつむけている片瀬さんに、私は聞く。
「あなたはどうしてペンションに行ったんですか」
「わたしの目的も、あいつ、田久保だった。そのときはあんな吹雪が来るなんて思ってなかったから、田久保にあることを頼むためにペンションに行ったの」
「頼む? 何をですか」
「危篤のみどりに会って欲しいって、頭を下げたのに、あいつにはそんなつもりはなかった。情が移ったら、死んだとき悲しくなるだろ、って悪気もなく言ったのよ」
 私は両手を口に当てた。それはあまりにもひどい。ただ──
「そう言われたから、田久保さんを殺そうと思ったんですか?」
「まさか。殺すつもりなんてなかったわよ。だって予想通りだったから。あいつは予想通り、人の尊厳そんげんを踏みにじっても、何とも思わない人間だった。よくいるでしょ、そういう人間。共感する能力が低いんでしょうね。私の仕事場にもいるわ」
「じゃあ、どうして殺したんですか」
「ループが起こったからよ」
「え?」
「ねぇ忍鳥さん、あなたにはあのループが、どう見えていた?」
「……ループは、初めはアスレチックに、最後はギロチンに見えました」
「そう。わたしにはずっと、あの世への門に見えていたわ。田久保をこっちに送って欲しい、と言っているように感じたの。だからわたしはそうした。ふふ、田久保がみどりに会わないなら、田久保を送るしかない。せめて、あの世で幸せになれるように」
 言い訳にしか聞こえないな、と先生が私にしか聞こえない声で言った。
「ループを利用すれば、罪を犯しても足が付かない、と思ったのだろう。それで殺人に対するタガが外れてしまった。憎い暴力男をループという暴力で叩き潰しただけだ」
 それより摩季、と雪上を進む。
「おいで」
 先生は、雪に開いた凹みに指を向ける。
 近づいてみると、それは雪が四角くえぐり取られていて、新雪にナイフを差し込んでくりぬいたかのように綺麗だった。まるでループで分断されたツリーの断面。
「これはおそらく、できそこないのループ空間だ」
「できそこないの……ループ?」
「同様の空洞が、積もった雪の中に大小いくつもできている。しかも、車内にある篠宮みどりの遺体とペンション“ダイヤモンドダスト”を結ぶ直線上に、点々とな」
 先生は木々の間に見えるペンションの二階を指した。
 私は目をしばたたく。
「え、つまりループはみどりさんが起こしたってことですか?」
「あるいは、彼女の遺体が、な」
 確証のあることじゃない。みどりさんにも確かめられない。ただ、もしその仮定が正しいのなら、みどりさんは田久保さんに対してどんな想いを抱いて、彼をループの中に閉じ込めたのだろう。一途な愛なんかじゃない。未練か、独占欲か、あるいは憎悪か。
 そこで先生が低い声で言った。
「篠宮みどりの想いが何にせよ、それが遂げられたからループが消えたのだろう。浮気男に生涯をかけざるを得なかった哀れな女性が無事、想いを遂げて逝ったのだ」
 先生の手にはいつの間にか一輪の赤い花がある。
 冬に咲くことはない、彼岸花。
「安らかに、眠れ」
 草木も育たない白銀の冬野に手向けられた赤い花は、先生の手から離れた瞬間、空気に溶けるように消えた。その花を誰も見ていない。見えるわけがない。
 先生と、同様に。

 先生と初めて会ったのは、二十年近くも前。けれど小学校の先生とかじゃない。まだ幼かった私の前に現れて以来、付いたり離れたりしながらも、結局は一緒にいる人。
 名前は教えてくれない。ので、当時のアニメに出ていたイケメンの“先生”というキャラクターに似ていたから、そう呼ぶようになった。小学校時代は父親のいない私のパパ代わり、中高時代は勉強を教えてくれる家庭教師であり、淡い恋心を抱いたこともあった。それ以降は……決して手の届かない憧れの存在、のようなイメージを持っている。
 そんな先生のおかげで、私は初めから、得体のしれないループという現象を受け入れられた。“先生という存在”と一緒に暮らす私にとって、それは日常茶飯事だから。
 先生という存在──
 というか彼は存在しない。
 私たちの関係性を何と言えばいいのだろう。私にとって先生は確かに存在しているけれど、他の人には先生のすらりとした姿は見えず、澄んだ重低音の声も聞こえない。先生が常に私にしか聞こえない声で話すのは決して、小声で、という意味じゃない。
 先生は物にもさわれず、私以外の人と話すこともできない。
 だから“交代”が必要になる。
 交代をすると、私の体に先生が上書きされる。私の体を先生が操ることになる。あのループを凶器とした異常な犯行を暴いたときも、私と先生は交代していた。
 だから謎を暴いたのは、私なのだ。
 もちろん、その謎解きの様子を見ていたオーナーや宿泊客にとっては、私が急に無愛想な話し方に変わる(もとい“紳士的な”話し方に変わる)わけだから、変に思った人もいるだろう。だから交代しているときくらいは、私の話し方に合わせて欲しいのに。
 先生の一人称が“私”で良かった。
 無愛想な話し方に変わるだけなら“今はたまたま機嫌が悪いのか”で済まされることでも、私が突然“俺”や“僕”なんて言い出したら、さすがに怪しまれるから。
 幸いにも私が別人に交代していることは気づかれなかったようだ。
 先生のことは秘密。絶対に、誰にも知られてはいけない。
 もし知られたら……

 

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