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「雪が詰まっているワードローブには全身は入らない。遺体状況から察するに、倉庫のワードローブに上半身が入り、下半身がこの非常口に残ったままになったのだろう」
「何それ、怖そう」
「田久保は当然、もがく。実際、遺体の指にはもがいた痕が残っていた」
 田久保さんの爪は手袋の中でいくつかが割れて、剥がれていた。あの痛々しい手の怪我は、彼がワードローブの中で必死にもがいた痕に違いない。
「しかし、ループは不可逆だ。いくらもがいたところで非常口側には戻ることはできず、かと言って、つっかえで固定されたワードローブを押し倒すこともできない」
 確かにあれは内側からじゃどうすることもできない。
 先生は更に言う。
「この殺人装置は、入ったら最後、二度と出ることはできない。光さえ抜け出せないブラックホールのように。非常口側に出ている両足は、暴れて音を出さないように犯人が押さえつけていたのだろう。助けを求める田久保の声も、雪が防音となって響かない」
 ……そういうことか。
 ランダムの途切れを100%起こす方法──それは途切れが起こるまでずっとループから抜け出せないようにすること。犯人が倉庫のワードローブと非常口に積もった雪で作ったのは、田久保さんの上半身を固め、叫び声を消し、雪で徐々に体力を削る装置。
 それがループを使った、ギロチン。
 唖然としている皆の前、先生は話を進める。
「人体分断が起きた後、犯人は遺体の下半身を非常口に残し、倉庫内に移動した。そこでワードローブのつっかえを解いて、田久保の上半身を取り出して床に置いた」
 オーナーの奥さんが口に手を当ててから声を出した。
「ワードローブの中は、血だらけ、よね? 血まみれの雪はどうするの?」
「犯人は血を吸って赤く染まった雪も掻き出して、遺体の周囲にばらまいた」
「遺体の周囲に……?」
「ああ。暖房を付け、倉庫にあるスペアのドライヤーを使って暖めれば、血の染みこんだ雪は遺体の周囲で溶ける。田久保から流れ出たように見える、というわけだ」
「雪を、そんなふうに、使うなんて……」
 それがこの犯行の肝、と先生が告げた。
「つまり、犯人は雪を使ってスポンジのように血を吸わせ、出血現場をワードローブの中から床に移動させたのだ──事故死に見せかけるためにな」
 血を吸った雪のスポンジは、暖房とドライヤーを駆使して溶かせば、消えてなくなる。さっき見たワードローブの中もすっかり乾いていたので、あれも夜通し暖めたのだろう。だから今朝、私たちが倉庫に入ったとき、室内にはまだその熱が残っていたのだ。
 むっとするその熱気と湿気を思い出して、私は寒気を感じた。

 しかし、と言ったオーナーが、ある種の緊張感をもって先生に尋ねた。
「いったいどなたがそんなことを……?」
 一同が固唾を呑んで見守る中、先生は一言、発した。
「さあな」
 そのたった三文字の言葉で張りつめていた空気が一気に弛緩し、私も顔を手で覆う。見切り発車。先生にも、まだ犯人がわかっていなかったのか。溜息も聞こえてくる。
「何それ。がっかりです、探偵さん」
 という片瀬さんの文句に、先生は肩をすくめる。
「落胆するのは勝手だが、私は、犯人を当てる、とは言っていない」
「はいはい、じゃあわたしは部屋に戻ります。犯人がわかったら呼んでください」
 バラバラとその場を離れる皆を見ながら、先生が、ただ、と言う。
「犯人をつきとめる方法はわかっている」
「え?」
「正確には、つきとめるのは犯人が泊まっていた客室だが」
 で、とコウジさんが話を促す。
「どうやったら犯人の部屋がわかんの?」
「簡単なことだ。皆、体験したからわかっていると思うが、今朝、客室から出られなかっただろう。ドアが凍りついたことがその原因。そして、それは犯人も同じだった」
「まあ、それはそうだろな」
「ただし、犯人は部屋から出られないのではなく、部屋に入れなかったのだ」
「……ん?」
「殺人装置を造る作業におよそ二十分、田久保をループに突き飛ばしてから人体分断が起きるまでの時間は不明だが、暖房で雪を溶かして装置を片づけるまで最低でも三時間。練習や証拠隠滅の時間も含めると、おそらく合計四時間以上はかかっているはずだ」
「よ、四時間、そんなに?」
「その間、犯人はずっと自分の客室から離れていた、ということだ。犯行を終えて自室に戻ったとき、ドアは完全に凍りついて開かなくなっていただろう。倉庫にあったスペアのドライヤーも、コードが短すぎて廊下にあるコンセントから客室までは届かない」
 その言葉に、オーナーが補足を加える。
「浴室用ドライヤーはあえてコードを短くしているので、廊下のコンセントから近い客室のドアにも届きません。ただ、それなら犯人はどうやって部屋に戻ったんですか」
「戻ってはいない」
「え?」
「犯人は自室に入ることを諦め、暖房の利いた倉庫内で寒さをしのいだ。そして朝になってから、さも自室から出てきたかのように振る舞っていたのだろう」
「な、何ですって」
 つまり、と先生は皆を見回して告げる。
「他の客室は朝になって皆が出てきたから開くが、犯人の部屋はずっと凍りついたままだった。外側からは開けられなくなっているはずだ、現在進行形でな」
「しかし……犯人がもし暖房を消して犯行に出ていたら、ドアは凍結しなかったんじゃないですか。結露が発生しなければ、凍りつく水滴も生まれないので。ですよね?」
「そうだな」
「で、では、犯人の部屋が開かないかどうか、わからないんじゃ……?」
「ああ。だが、今朝から一度も部屋に戻らなかった者がいるだろう」
 私は記憶をたどる。そんな人、いたっけ……?
「要は逆算だ。この犯行にかかる長い時間と、不自然な人物の行動を考え合わせると、犯人は自室に戻らなかったと推測できるわけだ」
「な、なるほど。それなら、すぐに確認しましょう!」
 声をあげたオーナーに皆がついていく。
 周りに誰もいなくなると、先生は付け加えるように私に言う。
「もちろん、何かの手違いでドアが開かなくなっただけという可能性もあり、言い逃れはできるが、犯人か否か確かめる方法は他にもある。……だから、後は摩季がやれ」
 先生は試す目を私に向ける。
 さあな、という三文字でお茶を濁していたけれど、おそらく先生には犯人がわかっている。わかった上で私に解かせようとしている。どんなときも教育を施すのが先生。
 ……交代、するしかない。

 皆で一室ずつ回っていったところ、あった。今も凍りついて開かない一部屋が。
 片瀬さんの部屋。
 一同の目が向くと、片瀬さんはどういうつもりか肩をすくめた。そう言えば、確かに彼女は、今朝は誰よりも早くから談話スペースにいた。食事のときにも自室には戻らなかった。伊勢崎さんが立ち去った後も、彼女一人が談話スペースに留まっていた──
 ドアが凍結していたから、だろうか?
 あなた! とオーナーの奥さんが声を荒らげた。
「あなたが田久保君を殺したの! ねぇ、そうなの!」
「ちょっと待ってください。わたし何もやってませんから」
「だったら何でドアが開かないのよ! あなたが廊下に出てたからでしょ!」
「それは……」
「出てたのね? ねぇ、田久保君を殺したのね!」
「い、痛い!」
 掴みかかった奥さんを、オーナーが止める。
「落ち着くんだ。まずは彼女の言い分を聞こうじゃないか」
 オーナーが割って入ると、片瀬さんは肩で息をしながら言う。
「わ、わたしは確かに、部屋を出ました」
「やっぱり!」
 と奥さんが吠えると、片瀬さんは首を振る。
「ろ、廊下にはいたけど、田久保さんを殺すなんて、していません」
 やはり犯行は否定するか。彼女の表情や身振り手振りが演技かどうかは、私にはわからない。先生の方に目を向けても、目を閉じたまま、助け船は出してくれない。
 仕方がないので、私は尋ねる。
「それなら、あなたは廊下で何をしていたんですか?」
「寝ないでずっとループを見てたんです」
「ループを……見ていた?」
「非常口じゃなくて、階段の方のループです」
「でも片瀬さん、サブスク見ながら寝たって言ってましたよね」
「ええ。だってループを見ていたなんて言ったら、頭がおかしいって思われるじゃないですか。でもこんな珍しいこと、わたし、興味が抑えられなくて……」
 私は顔を歪める。うまい言い訳だ。
 自分の嗜好しこうを引き合いに出されると、なかなか崩せない。物的証拠がいる。
 順に考えてみる。まず、田久保さんがワードローブに閉じ込められて殺されたことの証明はできる。人体分断時に飛んだ血は雪が吸っただろうけれど、中に付いたまま残っている血もあるはず。それを警察がDNA鑑定すれば、田久保さんの血だってわかる。
 片瀬さんが、夜間に廊下に出た、という証言も皆が耳にしている。
 しかしそれらを結ぶ証拠となると──
 私は再び先生に懇願の目を向ける。
 壁に寄りかかった先生は溜息を吐いて、そんなこともわからないのか、という目で見下ろしてくる。ただ、ヒントはくれる。先生は私にしか聞こえない声で告げた。
「手袋だ」
 はっとした。
 まさか、ワードローブの中で見た“アレ”はそういうことだったのか。私は片瀬さんに歩み寄って、その手をぐいと掴んだ。手袋をするりと抜き取る。
「な、何するの!」
 何の変哲もない厚手の黒い防寒用手袋。
 けれど、手袋に無数にくっついているポワポワの毛玉には見覚えがある。それは、犯行に使われたワードローブの中に落ちていたあの黒い毛玉と同じ物だった。
 分断された田久保さんの上半身や雪を掻き出すときに、毛玉が落ちたのだろう。
「か、返せ!」
 と片瀬さんが伸ばしてきた手を躱した。
 極寒の廊下での犯行時、彼女はおそらくずっとこの手袋をつけていた。
 そんな手袋をなぜ処分しなかったのか。できなかったのだ、ループによってこのペンションの二階から出られないのは手袋も同じ。どこに捨てても、いずれ見つかる。自分の客室に入ることができれば、手袋を洗ったり、切り刻んでトイレに流したり、ということもできただろうけれど、ドアが凍りついていて彼女には開けることができなかった。
 だから彼女はずっと手袋をつけていた。
 それなら──

 

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