ベッドの端に背筋正しく腰をかけた先生は、腕組みをして何か考えている様子。
私は何よりもまず、お風呂だ。
コートとセーターを脱いで、皺にならないようにハンガーにかけておく。そんないつもの入浴準備が、この状況では、ひどくおかしなことをしているかのように感じる。
私は寝間着を手にユニットバスへ。
シャツと下着を脱ぎ、浴槽に入る。蛇口をひねって少し待つと、シャワーの水が温かくなっていく。こんなことになってシャワーまで浴びられなかったら、最悪だった。
温かくなったシャワーを頭から浴びる。
非常口調査のときに床で擦った膝を見ると、皮が少しめくれている。ちくちくする痛みに耐えながらお湯をかけて、めくれた皮をぺったりと張りつける。そうしていて気付いたけれど、育てていたネイルも、どこにぶつけたのか先っぽが欠けてしまっている。
不意に、涙がこみ上げてきた。
思い立ったが吉日、と前乗りしてスキーに来たのに、もうどうやっても今日が吉日になることはない。それどころか、人生でまれに見る厄日になってしまった。
涙をシャワーで流して寝間着に着替え、ユニットバスを出て窓の前に立つ。
「荒れるな」
後ろから先生の声が聞こえてきた。
もう荒れている、窓外の吹雪も、私の心の中も。雪と風でカタカタ震える窓に手を当てる。精緻な結晶が無数に集まっている雪は美しく、そして、とても恐ろしい。
*
眠りは浅く、寝苦しい夜を過ごした。
呻き声とともに目覚めた瞬間から気分は最悪だった。
暖房の利いた室内、先生はイスに座って外の景色を眺めながらコーヒーを飲んでいる。昼下がりの英国紳士のような優雅な佇まいだ。窓の外が大吹雪じゃなければ。
寝間着の胸元と裾を直してから、おはようございます、と声をかけた。
「おはよう。うなされていたが、大丈夫か」
「ええ、冷蔵庫に閉じこめられる夢を見ました」
「ふむ。今の状況にぴったりの悪夢だな」
枕元のスマホで確認すると、午前七時十分。私は窓辺へ行く。
窓を二十センチほど開けると、それだけで風に体が押される。傍のテーブルに置かれたペンで窓外の宙をつついてみると、硬い何かに触れた。透明な板は消えていない。
溜息すら風に吹き飛ばされて窓を閉め、一瞬でぼさぼさになった髪を整える。
「あります、まだ、ループ……」
このままじゃ親戚の結婚式に行けないどころか、欠席の連絡すらできない。食事も一日分しかないとなると、何とか今日中にこのループから抜け出さなければならない。
「先生、ずっとそこにいたんですか。廊下には出てみました?」
「まだだ。摩季が起きるのを待っていた」
「じゃあすぐに準備します」
私はワードローブから出したセーターに着替える。極寒廊下に備えてニット帽を被ってマフラーを巻き、ダウンコートを羽織る。手袋をした手でドアノブを掴んだ。
けれど、なぜか押し開けられない。
「あれ?」
私が苦戦していると、先生の低い声が、ドライヤーだ、と言った。
「客室の暖房で発生した結露が、廊下の冷気で凍りついたのだろう。それならドアの隙間にドライヤーで温風を当てて、凍った部分を溶かせばいい」
さすが先生、的確な助言だ。予め想定していたのだろう。私はドライヤーのコードをユニットバスのコンセントから延ばして、ドアの隙間にじっくり熱を当てていく。
ノブを回すと、今度はすんなり開いた。
廊下は寒い。やはり、外と変わらない状態になっている。
忍鳥様、と声をかけられて振り返ると、廊下の向こうから人が来る。ハイネックの作業用防寒着で顔はほとんど隠れているけれど、声からしてオーナーに違いない。
「おはようございます。眠れましたか?」
「ええ、一応」
「私はぐっすりでした。ところで客室のドアが凍っていませんでしたか」
「凍ってました。でもドライヤーで溶かせますよ」
「あ、なるほど、ドライヤー……そんな手がありましたか。僕と妻も色々考えたんですけど、結局は力ずくで格闘して、今やっと部屋から脱出できたところです」
「奥さんはどちらに?」
「先に脱出していた片瀬様と一緒に談話スペースにいます。僕はまだ出られていないお客様のドアをノックして、ドライヤーを使う方法をお勧めしてきます」
先生と談話スペースに行くと、マウンテンパーカとスキーウェアの女性が二人、ソファに座っている。マフラーや帽子で顔は隠れているけれど、片瀬さんとオーナーの奥さんだろう。彼女たち二人の間に会話は無く、スマホを見たり、読書をしたりしている。
どんな本があるか、そもそもページは開けるのか、と凍った本棚に目を向けたとき、私のスマホに着信があった。画面を見ると、結婚式に参加するお母さんからだ。
『あ、摩季? あたしだけど。あんた前乗りしてもう岩手にいるのよね? どこ泊ってるの? すぅっごい吹雪だけど大丈夫? 式場行けそう? ねぇ、摩季?』
ただ、昨日の伊勢崎さんのときと同じように、こっちの声は届かない。
『お母さん! ダイヤモンドダストってペンション! 助けて──』
訴えの途中で、野太い雄叫びが廊下に響き渡る。
オーナーの声、非常口の方だ。
私は先生と顔を見合わせてから、廊下を進んでいく。
「オーナー、どうしましたか!」
壁に背をつけたオーナーが、非常口に指を向けて震えている。
その様に何かを予期してか、耳がキンと鳴った。
外から吹き込んできて床に溜まっている大量の雪が、かき氷のイチゴシロップのように朱に染まり、その中から防寒着を着た両足が突き出している。廊下も外通路も、降り続ける雪に埋もれてはいるものの、突き出た両足の先には、どう見ても上半身が無い。
私は弾かれたように、その場に尻餅をつく。
これは、まさか……
「倉庫だ」
と告げた先生に、あう、と応じた私は、何とか立ち上がって廊下を進んだ。
倉庫に着くと、ドアの前で足を止める。この閉じたドアの向こうに、遺体の上半身があるのは間違いない。唾を飲み込んで腹を決めてから、ノブを掴んでドアを開けた。
感じたのは、部屋に立ちこめた血の臭い。そして、むっとする空気、湿気。
明かりをつけると──あった、男性の上半身が。
確認するまでもない。死んでいる。
両手を投げ出したうつ伏せの格好で、広がった血の海に腹から上だけが倒れている。その異様さと鼻をつく悪臭に、喉の奥からこみあげるものがあって口を手で覆った。
ループによる、人体分断。
遅れてきたオーナーと体を仰向けにすると、茶髪が張りついた顔が露わになる。
「たた、た、田久保君……」
口を押さえたオーナーが指の間から声を出した。
「ま、まさか、ループを通り抜けようとして……」
遺体の顔は眠っているようでもあるけれど、血色を失って青ざめている。伸ばした手は硬直し、力を入れて掴んだら、ぽきんと折れてしまいそう。
「きゃああああああああっ」
と声をあげたのは、出入り口にいるカップルの彼女。腰を抜かしてその場にへたり込んだ彼女の他にも、宿泊客たちが顔を歪めて見ている。出入り口から一歩も入らず。
転がるように遺体から離れたオーナーが、彼女に肩を貸して立たせた。
「し、しっかりしてください。皆様も、談話スペースへ、行きましょう」
私はうなずく。こんなところにはいられない。
もしもこの狭い二階でパニックが起きて、混乱が伝染したら、大変なことになる。無謀にもループから逃げ出そうとして、分断される人が出てしまうかもしれない。
皆に続いて私も遺体から逃げようとしたとき、ふと先生が言った。
とても静かな、低い声で。
「この遺体はおかしい」
「せ、先生、何を言ってるんですか……」
「遺体の鼻や頬骨だ。見てみろ」
「え、ちょっと待って。見なきゃ、だ、だめですか?」
「ああ、重要なことだ」
と言われても困るけれど、私は顔をしかめて、おそるおそる田久保さんを見る。
とたんに自分の呼吸が荒くなる。表情豊かな生前の彼を知っているからこそ、血の気を失った顔を受け入れられない。下手な彫刻を見ているかのような不気味さがある。
「鼻の頭や頬が紫に変色し、水疱ができているだろう」
「火傷の痕……とか?」
凍傷だ、と先生は答える。
「極度の低温にさらされたときに起こる血行不全によって、体組織が凍ってダメージを受ける。重度の凍傷では神経が壊死し、切除しないといけないこともある」
「田久保さんは極寒の中にいた、ってことですか」
「そうなるな」
そういえば、と私は思い出したことを口に出す。
「ここに入ったとき、血の臭いと一緒に、むっとする空気──熱気を感じました」
倉庫にあるエアコンは今は止まっているし、廊下から入ってくる冷気で室温はどんどん冷えていっているけれど、少し前まで暖房が入っていたのかもしれない。
「暖房か」
とつぶやいた先生が腕組みをして考え込む。
昨夜、非常口からのループでここに入ったときには、室内に暖房は入っていなかった。ただその後、オーナーが電源を入れたということは考えられる。
「摩季、直ちにオーナーに事実確認してきてくれ」
「それは、まあ、はい」
任された私は倉庫から出て、談話スペースへ。皆にペットボトルの飲料水を配っているオーナーに、ちょっといいですか、と声をかけると、彼はすぐに来てくれた。
「お、忍鳥様、ずっと田久保君の遺体を見ていたんですか。へ、平気ですか」
「平気なわけないじゃないですか! でも仕方ないんですよっ」
先生には助手が必要だから、仕方ない。
私は深呼吸をしてから、それより、と本題に入った。
「昨日の夜、私たち宿泊客が解散して客室に入った後、オーナーと奥さん、田久保さんはまだ廊下に残っていましたよね。どなたが一番後に部屋に入ったんですか」
「それは私ですね。妻と田久保君が部屋に入った後で、私が廊下を見回ったので」
「その見回りのとき、倉庫の暖房を入れました?」
「暖房……?」
「ええ、さっき倉庫に入ったときに、室内が少し暖かかったように感じたんです」
倉庫内に冷気で劣化してしまう物でもあるのなら、あり得ること。
「僕は少し見回った程度なので、倉庫には入っていません」
「そうですか……ありがとうございます」
「でもどうしてそんなことを?」
「いえ」
暖房が利いていた部屋で防寒着を着ていた遺体の顔面に凍傷、というのは明らかにおかしいことだけれど、今はまだ黙っておいた方がいいだろう。混乱を招きかねない。
私はオーナーに礼を言って倉庫に戻ると、遺体を見ないように先生に報告する。
「暖房は入れていないそうです」
「それなら深夜に倉庫内に入った何者かが暖房を入れた、ということだ」
「何のために、です?」
「さあな。ただおかしなことがもう一つ出てきた。倉庫に暖房が入っていたなら、他の客室同様、ここにも結露が発生する。その露は廊下の冷気で、ドアを凍らせたはず」
「はい、まあ」
「それなのに私たちが来たとき、ここはすんなり開いただろう」
「あ」
確かに、客室のドアはドライヤーを念入りに当てないと開かなかったのに、倉庫のドアは何の抵抗もなく開いた。私は遺体が気がかりで、ドアなんて気に留めなかった。