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 私たちは前方に転がる。ぶつかる、テーブルに。
 非常口の外にあった外通路の柵が消え失せ、目の前にあるのは客室用テーブルだった。素早く両腕で顔をガードして、あわやのところで顔面強打を防いだ。
 まただ。また景色が飛んだ。
 どこかの室内だ。ドアが正面に見える。広さはツイン客室と同じくらいで、いくつもの客室備品やテーブルセット、ワードローブのスペアなどが置かれている。
「こ、ここは二階奥の倉庫部屋っす」
 と言った田久保さんが茶色い髪を掻き上げて続ける。
「どうなってるんすかね、このペンション……危険手当もらえるといいけど」
 自分たちが飛び出してきた方を振り返ると、壁から非常口のドアが生えている。
 おそらく非常口の外にループの境目があって、ドアごとそこに突っ込んだ。ループ先が倉庫の中だったため、その境目を越えた瞬間に吹雪による圧力がなくなったのか。
 ループは不可逆。このドアはもう非常口側に戻すことはできない。壁と融合したドアは倉庫内のオブジェになった。そんな現代アートのような光景を眺めていると──
 バキン!
 音がして壁から生えたドアが、壁から切り離された。
 初めて見た、これが分断の瞬間。支えを失ったドアが傾いてくる。
「ひゃあ!」
 と声をあげたのは田久保さん。我先にと逃げる彼に突き飛ばされ、私は倒れる。
 何とか転がると、すぐ後ろでドアが倒れる音と振動。膝を擦った。
 例の、プツ、プツという断続的な“途切れ”が起こったのだ。もしもそのタイミングが少し早かったら、ギロチンに分断されていたのは私と田久保さんだった。
「ふ~、危なかったぁ」
 胸をなでおろす田久保さんを、私は非難めいた目で見たものの、彼には謝る気配すらない。まあ今は、突き飛ばしたことを責めている場合じゃないから、勘弁してあげよう。
「とにかく戻らないと。向こうはパニックになってるかも」

 けれど、誰もパニックなんて起こしてはいなかった。
 息せき切って状況を説明する私たちに同情する人はいても、悲鳴を上げたりはしない。階段の方のループを見ているので、何が起きたか察していたようだ。
 カップルが吐いた白い息が交差する。
「それより……さむぅ」
 非常口から離れても、音がごうごう聞こえるし、耳の縁がかじかんでかゆくなってくる。確認しなければならなかったとはいえ、非常口を開けてしまったのは失敗だった。
 分断されたドアは、もう閉められない。
「何かで塞げねぇか、これ」
「無理。この吹雪じゃ全部飛ばされちゃうよ」
 廊下の温度がどんどん下がっていくのに対して、私たちは皆、部屋着姿だった。ただ一人、先生だけは寒さをものともせずに、涼しい顔をして腕組みをしているけれど。
「皆様、暖房がついている談話スペースへ行きましょうか」
 と言うオーナーの後について、ぞろぞろ談話スペースへ。
 何人かはソファやスツールに腰掛け、何人かは立ったままスマホを見ている。暖房がついていても寒く、温風が冷風に屈するのも時間の問題かもしれない。
 そこで、二十代後半くらいの女性客がソファから立ち、何を思ったのか談話スペースにある窓の鍵を外してスライドさせた。吹き込んできた風を受けた長い髪が暴れる。
 それを物ともしない彼女に、オーナーが声をあげる。
片瀬かたせ様! 何をやっているんですかっ」
「階段からも非常口からも下に行けないなら、窓から飛び下りるしかありません! こんなところにいられない! ここから出て、口コミで文句いっぱい書きますからっ」
 言い方はともかく、確かに、窓から下りても、積もった雪がクッションになる。
 ゴム紐で髪を束ねた私は、地面の状態を確認するため、吹きつける雪と風に目を細くして窓に近づく。窓枠に両手をかけて体を押さえ、下を覗き込ん──
「いったっ!」
 と声をあげて私はその場に転げる。
 窓から顔を出そうとした瞬間、何か硬い物に額がぶつかった。
「だ、大丈夫すか」
 田久保さんがやってくる。片瀬さんは冷めた目で見下ろしている。それはそうだ、窓から下を覗こうとした私が突然その場にひっくり返ったんだから。さぞ滑稽だろう。
 私は誰にともなく、違うんです、と言い訳した。
「窓の外、何か、あります……」
 確かに、硬い何かに頭突きをかました。
 突き止めなければ。その場に立ち上がった私は、恐る恐る窓の外に手を伸ばす。するとやはり手が何かに触れた。パントマイムのように、何もない宙にぺたぺたと触る。
 見えない。でも何かある。透明な板?
「何か硬い板みたいなのがあって、手が外に出ません」
 カップルの二人が窓辺に来て、外に手を伸ばす。
「ちょぉっ、何これ!」
「手が窓の外に出ねぇ! 雪は入ってくるのに! おもしろ!」
 声をあげながら透明な板を触っている彼らから離れて、私は談話スペースの隅に行く。柱に寄りかかった先生は切れ長の目で、窓に群がる人たちを眺めている。
 静かに隣に並んだ私は、先生、と小声で呼びかける。
「これもループに関係してるんですか?」
 先生は私にしか聞こえない声で応じる。
「ああ、そのようだな」
「で、でも、階段や非常口の状況とは明らかに違いますよ。もしここにループの境目があるなら、掌が別の場所に移動するはず。これはその逆、どこにも出ていきません」
「別の地点に移動するかどうかは、ループが接続される場所による」
 先生の言葉はいつも確信に満ちている。
「要は出口だ。階段や非常口のループはたまたま一室内の壁面につながっているが、この窓は接続がうまくいかず、壁の“中”につながってしまった、ということだ」
「壁の、中?」
「ループの出口が壁の表面につながっていればすんなり外に出られるが、壁面内とつながってしまうと、出ることはできない。出口が壁の中に埋まっているわけだからな」
「じゃあ私が頭突きしたのって……」
「壁の中のコンクリートだ」
 私は打ちつけた額を指ですりすりした。
 それから皆で一時間以上をかけて、一部屋一部屋を回っていった。各客室の窓がどうなっているのか、どこかから外の雪に飛び下りることができるか否かを調べるため。
 最初は談話スペースの窓同様、手を窓から出すようにして慎重に調査していたけれど、ループの中に手が入ってしまったら危険なので、モップの柄で突く方法に変えた。
 ただ、それは杞憂だった。
 全室の窓に“透明な板”があって、出られない状態になっていた。
 一階には下りられない、ということだ。

 防寒着を羽織って談話スペースに集まった皆の空気が、一気に重くなった。
「壁を掘れないかな?」
 どこからともなく投げかけられた質問に、オーナーは首を横に振った。
「難しいかと思います。板張りの表面は何とか壊せるかもしれませんが、内部のコンクリートは不可能です。雪国仕様でかなり厚く作ってあります」
「雪掻き用のシャベルとかあったら……」
「鉄製の物は一階の物置です。二階にあるのは、外階段に積もった雪を落とすプラスチック製のスコップだけ。掘削用として使える物は、スキーのストックくらいですか」
 私は、待つしかないんじゃないですか、と言う。
「待ってれば、ループが消えてなくなるかもしれませんし」
 そんな言葉では拭えなかった片瀬さんの不満が爆発する。
「待つって食料はどうするんですか! 飢え死に、なんてことないでしょうね!」
 オーナーはうつむいて、備蓄食料はあります、と応じた。
「ただ、それは一階の食料用貯蔵庫にです。二階には長期保存できる缶詰や乾パンなどしかありません。避難用に取り置いている食料です。それもこの人数だと、一日で無くなってしまうでしょう。何しろ、二階だけ隔離される状況なんて想定していませんし」
 カップルの彼氏が絶望的な表情をして、頭を抱える。
「一日! 嘘だろ! ……で、人間って食い物なくなったら何日生きれんの」
「水さえあれば、数週間は生きられます」
「そんなに? じゃあ、それまでにはさすがに助けが来るだろ」
 これに彼女の方が不機嫌そうに突っ込んだ。
「空腹で数週間って、死んだ方がマシでしょ」
「おいおい、ユミちゃんよ、どんだけ食い意地張ってんの」
「そういう問題じゃないバカコウジ。餓死はめちゃくちゃ辛いのよ」
「あ? 何つった?」
「あんたがバカなのは事実でしょ」
 不安感は簡単に怒りに変わる。私が割って入ろうとしたときに、お待ちください! とオーナーが声をあげて視線を集めた。その手にあるスマホが小刻みに震えている。
「で、電話! 電話です!」
 彼はスピーカーに設定して通話をする。
『もしもし! 僕はペンション“ダイヤモンドダスト”のオーナーです! 今ペンションの中で大変なことが起こっているんです! 至急、警察に連絡をし──』
『もしもし、明日予約をした伊勢崎いせざきです』
 声が聞こえる。電話はつながらないはずなのに。
『伊勢崎様! 僕たちはペンションに閉じ込められているんです! お願いします! 警察を呼んでください、大至急です! 命に関わる事態なん──』
『何かそっち、吹雪で大変なことになってるみたいですけど、大丈夫ですか? もしもーし、吹雪がひどいんなら明日はキャンセルするしか無いんですけど、その場合ってキャンセル料は発生するんですか? と言うか明日ってペンション開けます?』
 まるで話がかみ合っていない。
 こっちを見たオーナーに、私は首を横に振った。おそらく、声が届いていない。
『何だこりゃ。つながってるっぽいのに』
 という言葉があって、あっさり通話が切られてしまった。
 対して先生が、なるほど、と小声で言った。
「電波すらもループの外には出られないのか」
「え、どういうことです?」
「非常口は倉庫内とつながり、窓は透明な板で塞がれている状況でも、外から雪は吹き込んでくる。それと同様に、電話の電波も外部からここには届くが、こちらの声は外には出ていかない。インプットはできても、アウトプットはすべてだめ、ということだ」
 はー、と私は息を出す。それで今の電話も、予約客の声は私たちに聞こえていたのに、オーナーの声は向こうに聞こえていなかったのか。声すらアウトプットできない。
 ……じゃあ、どうすればいいの?
 希望が消えてなくなり、皆が部屋に戻っていく。もう夜十一時を回っている。何より吹雪が非常口から吹き込むので、もこもこのダウンコートを着ていても廊下は寒い。
 スマホをしまったオーナーが、声をかける。
「皆様、廊下は極寒です。ドアは閉めて、暖房をつけてお休みください。僕と妻は空いている5号室に、田久保君は6号室に泊まるので、何かあれば声をかけてください」
 寒さから逃げるように、私と先生も客室に戻る

 

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