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「あ、あれ、ここって7号室っすか。え、何で俺……」
「田久保君、いつの間にここに入って鍵をかけたんだ」
 と眉を寄せるオーナーに、田久保さんは困惑した顔で答える。
「俺にも何が何だか……いや、おかしいんすよ、俺、確かにツリーを抱えて階段を下りてた……はずなんっすけど、階段の途中で急に景色が変わって、気づいたらここに」
「何言ってるんだ、田久保君。頭を打ったようだが、大丈夫か」
「大丈夫、と思うっすけど……」
 いつの間にか後ろに来ていた先生のつぶやきが聞こえてきた。
「おかしいな」
 私はうなずく。階段へ行った田久保さんの姿を、私も目にしたばかり。そんな彼が、廊下を逆走したわけでもないのに7号室にいるのはどう考えてもおかしい。
「私、階段を見てきます」
 先生に言ったけれど、応じたのは田久保さんだった。
「あ、じゃあ俺も」
 私たちは先生とオーナーを残して7号室から出た。廊下をずんずんと進む。
 途中の客室前でオーナーの奥さんが声をかけてきた。
「あ、あの、何かあったんですか?」
「いえ」
 よくわからない事態なので、今は伝えられない。ただ奥さんは異常が起きたと思ったようで、紅茶のトレイを廊下にある小テーブルに置いて後からついてくる。
 階段まで行って見下ろすと、中程に木の先端がある。
 クリスマスツリーだ、と田久保さんがつぶやく。
「やっぱり、俺、ここから7号室に瞬間移動したんだ」
 私は一歩一歩、一段一段、慎重に階段を下りてツリーへと向かう。金色の星の飾りが付いたそれを両手で持ち上げるも、それ自体におかしなところはないように見える。
 どうしてツリーの先っちょだけが、こんなところに……
 田久保さんが二階から声をかけてくる。
「そ、そこ! その辺りに境目があるっぽいっす! 気をつけて!」
 境目って、何?
 私はツリーを階段に置いて、おそるおそる何もない宙に右手を伸ばす。
 その手が、ふっと消えた。
「えっ……」
 痛みはない。けれど手首から先が完全になくなっている。

「きゃああああああああああっ」
 悲鳴が聞こえて振り返ると、オーナーの奥さんが口を押さえてその場にへたり込んだところだった。ペンション中に響き渡ったその声で、宿泊客がすぐに集まってきた。
 階段の上でカップルがざわめいて、声をあげる。
「手がない! 見てコウジ、手がない!」
「ありゃマジックだな」
 違う。ここに見えない何か、透き通った水面のような何かがある。
 確かに、境目。そこに入れた手首を引き抜こうと力を込めても、がっちり固定されていて手は戻らない。手首が痛くなるだけ。ただ、境目の先に進むことはできそうだ。
 ずぶ、と二の腕まで入れてから、意を決して頭を境目に入れていった。
 無意識に目を閉じて息も止める。水中に潜るかのような。
 そしてしかめ面でゆっくり片目ずつ開けていくと、目の前にいたのはオーナーだった。ひぃぃぃ、と声をあげた彼が尻餅をついた傍ら、近づいて来た先生が口を開いた。
「壁から摩季が生えてきた」
 視線を巡らせると、床には先端がなくなったツリーが倒れていて、その先にはベッド。左手には出入り口が見える。ここは7号室。その壁から私の頭が生えている。
「ひょっとして私、今、生首?」
「あるいはさらし首だ」
 と先生。
 体は間違いなく階段の方にあるのに、境目を越えた頭と右手は7号室の壁から生えている状態。私は試しにもう一度、体を階段側に引き抜こうとしてみた。
「……だめ。戻れない」
 私は足を7号室に入れて床の感触を確かめ、一気に境目を通り抜けた。
「ふー」
 息を吐いた私は、今出てきた不可思議な壁面をぺたぺた触ってその硬さを確認する。やはりこれはただの壁。隠し扉もない。この中に入ることなんてできない。
「お、忍鳥様、これは……いったい」
 というオーナーに、私は首を横に振る。
「わかりません。階段を下りたら、ここにいたんです」
「田久保君の話は、本当だった、と」
「は、はい。階段の途中に、目には見えない境目があるんです。そこを通り抜けると、7号室内のこの壁から出てくるみたいです。言ってること、わかります?」
「いや、ちょっと……僕、階段を見てきます」
 そう言ってオーナーが去ると、先生が、やれやれ、と言った。
「厄介なことに巻き込まれたものだ」
「先生、これってどういうことなんですかね」
「このペンションの空間がねじ曲がり、離れた二地点がつながってしまっている」
「空間が……ねじ曲がる?」
「今、摩季が体験した通りだ。境目とやらを通ってみて、どう感じた?」
「不思議な感じでした。もう一回やってみたいような──」
 そこで、壁ににょきっと顔面が出現した。カップルの彼氏だ。
「うわホントだ! 階段の先にどっかの客室がある!」
 彼はアスレチックで遊んでいるかのように飛び出てきた。
「何これ、マジ瞬間移動! おもしろ!」
 オーナーや田久保さんに話を聞き、面白半分で境目に入ってみたのだろう。
 彼が7号室から飛び出ていくと、先生は、危険だ、とつぶやいた。
「おいで摩季。これを見なさい」
 先生が指を向けているのは、立派なツリーの、腕くらいの太さがある幹の部分。元は綺麗な円錐形だったはずのツリーの先端がなくなっていて不格好に見える。
「星飾りの付いたツリーの先っちょは、階段の方にありました」
「そうだろうな。だが、それはどうでもいい」
「え、じゃあ何を見るんですか」
 断面だ、と先生。
「断面が綺麗だろう。ノコギリなどで切断したら、こうはならない」
 私は幹を掴んで見てみる。確かに、ノコギリで物を切る場合、その断面はザリザリとして粗くなる。けれどこの断面は、ヤスリでもかけたかのようにつるりと滑らかだ。
「このツリーは階段の境目を抜けたときにこうなったのだ」
「あの境目を、抜けたとき……」
 それでツリーの先端が階段の途中に落ちていたのか。
 ただ、おかしい。
「私も今の男性も、何事もなく境目を抜けてここに来ましたよ」
「それはたまたまだ。この接続は安定性に欠けている」
「接続、って何ですか」
「摩季が境目を通り抜けたときのように、階段側の入り口は7号室側の出口に不可逆でつながっている。が、その接続がプツ、プツと途切れる瞬間がある、ということだ」
「接続が、途切れる……と、どうして幹が切断されるんです?」
「切断ではない。分断、だ」
「ん?」
 どう違うの?
 先生はその場に立ち、簡単なことだ、と言った。
「先ほど、摩季の頭と右腕はこの7号室側にあり、胴体は階段側に残っている状態だっただろう。今の男も頭だけを出していた。その瞬間にプツンと接続が途切れる──つまり空間のつながりが正常に戻ると、どういうことが起こるのかを想像してみるといい」
 頭が7号室、体が階段にあるとき、空間が元に戻ったら……
「7号室の壁から出ている頭と、階段に残された体が、わ、わかれてしまいます」
「それが、ツリー分断のカラクリだ」
 ぞわぞわ、ぞわぞわと体に怖気が走っている。私が何の気なしに境目を通り抜けたあのとき、もしもその“途切れ”が起こっていたら、私の頭は、体から永遠に離れていたかもしれない。私は首にギロチンを当てられている状態だったことに気づかなかった。
 生首が落ちなかったのは──たまたま運が良かったから。
 でも、わかった。田久保さんはツリーを抱えて階段を下り、あの境目に入った。彼は7号室側に移動して、ツリーの先端だけが階段側に残っている状態でプツと接続が切れた。ツリーは一瞬で分断。体勢を崩した田久保さんはベッドにでも頭をぶつけたのか。
 先生は眼鏡の位置を直した。
「仮に、ループ現象、としておくか」

 7号室を出た私は急いで、皆のところへ行く。階段に残されているツリーの先端を不安そうに眺めているオーナーたちに、私は分断が起こった恐るべき理由を説明した。
 どよめきが起こる中、オーナーと奥さんが手を取り合う。
「確かに、どうしてツリーの先端だけが階段の方に残されているのかと思っていました。では、そのループ現象は人の体をも分断してしまう、ということですか」
「その可能性が高そうです」
 と私が応じると、カップルの顔色が、さっと青くなった。
「俺もぶった切られるとこだったってこと?」
「し、信じられない。誰かがナイフで切ったんじゃない?」
 私は階段を下りてツリー先端を取り、その断面を皆に見せた。
「ほら、断面が滑らかで綺麗です。人の腕くらい太い幹を、ナイフでこんな綺麗にすぱっと切るなんて、人間にはできません。何か得体の知れないことが起こっています」
 オーナーが、まあ、と言ってうなずく。
「実際に人が消えて、別の場所に移動するのを、目の当たりにしていますし」
「どうすんだ、もう階段使えねーぞ」
 私はセーターのポケットからスマホを出した。
 110をタップして電話を耳に当てるけれど、つながらずに切れてしまう。もう一度やっても結果は同じだった。念のため119にかけてみるも、やはりつながらなかった。
 宿泊客たちもそれぞれスマホを耳に当て始める。
「何だこれ。警察にも友達にもつながんねぇ」
「こんなことある? 吹雪のせい?」
 オーナーが提案した。
「一階のフロントに有線電話があります。それを使ってみましょう」
 ちょっと待って、と二十代後半くらいの女性客が疑問を口にする。
「階段使えないのに、どうやって一階に行くの」
「二階には外階段につながる非常口があります。外は吹雪いていますが、壁伝いに行けば視界がホワイトアウトしても大丈夫です。田久保君、頼んでいいかな?」
「任せてくださいす!」
 先生も合流して、皆でT字廊下の端にある非常口へ。頑丈な造りの金属製ドアで、ガラス窓から外階段に続く通路が見える。その柵にもたっぷり雪が積もっている。
 じゃあ行ってきます、と田久保さんが進み出た。
「ドアを開けると雪が吹き込んでくるから、離れていてくださいす」
「気をつけてね、田久保君」
 オーナーの奥さんにうなずきかけた田久保さんが、非常口の鍵を外してノブを掴んだ。押し開けようと励むも、吹きつける風がドアを押さえていて、なかなか開かない。
 ドアに肩を当てた田久保さんは、体重を乗せて押す。
 私は加勢する。この吹雪だと何をするのも難しい。二人で動いた方がいい。
「あ、ありがとうございます!」
「ループ現象のことは私が警察に話しま──」
 言葉の途中、手にかかっていたドアの重さが、ふっと消えた。