第一話 白銀のループ
スキー板で粉雪を散らしながら風を切り、スロープを滑り下りていく。
久しぶりのウィンタースポーツ。最初の一時間は戸惑いながらのボーゲンだったけれど、足がしっかり覚えていてくれて、今は流麗なシュプールを描けている。
「やっほーう!」
親戚の結婚式で岩手県に来ることになり、そうだ、せっかくだから前乗りしてスキーをしようと考えた連休。白一色に染まるゲレンデを満喫して温泉で汗を流し、休み明けからの仕事の英気を養いたい。そんな思いつきで、急遽、宿を取って新幹線に飛び乗った。
昼は都内のワンコインそば屋で食べたのに、午後には安比高原で風になる。
何て贅沢。転職活動ですさんだ心が、クリスタライズされていく。
麓まで滑り下りるスロープの途中で顔を上げると、ツレの姿を見つけた。その人はレストランの野外席に座っている。一人浮いているので、どんなに遠くからでも見える。
足を組んでコーヒーを飲む彼の前に雪をけたてて止まる。
「先生! その格好、上からでも見えましたよ!」
カラフルなスキーウェアが溢れるゲレンデで、先生は一人、スリーピースのダークスーツと革靴に身を包んでいる。黒縁眼鏡の奥から切れ長の目をこっちに向ける。
「私はスーツしか着ない」
「ここ雪国ですよ。しかもクリスマスシーズン!」
だから何だ? という顔をされる。
「それより宿に向かう。雲行きが怪しい」
人差し指が向けられた空は黒雲に覆われ、太陽が見えなくなっている。新幹線を降りた三時間前はしんしんと穏やかに降っていた雪も、今や横から吹きつけてくる。
「これから吹雪くかもしれない。行くぞ」
「はーい」
レンタルしたスキーをレストハウスで返却した私は、縛っていた髪をほどいた。髪束をつまんで匂いを嗅ぎ、汗臭くないかチェック。タートルネックのセーターにマフラーを巻いて、ダウンコートを羽織ると、止まっているタクシーに先生と乗り込んだ。
今日予約したペンションはゲレンデからかなり離れていることもあって、シーズン中も満員御礼にならないらしい。だからとっさの思いつきでも予約が取れたんだけど。
徐々に暗くなっていく空の下、窓にぺたぺたと当たる雪を眺める。
良い休暇になりそう。
目的地に着く頃には、もう日はとっぷりと暮れ、風も強くなっている。
タクシーを降りた私が雪から逃れてペンションに駆け込んだ一方、先生は雪なんてものともしないで歩いて入る。宿の名は“ダイヤモンドダスト”。名前負け感が否めない外観はログキャビン風二階建て。一泊二食付き、シングル六千円、ツイン一万円。
雪国仕様の二重ドアを開くと、カランコロン、とベルが小気味良い音を立てる。
玄関で服に付いた雪を払って靴を靴箱にしまい、吹き抜けになっているホールを眺めながらフロントに立つ。白を基調に、ところどころにウォールランプがあり、天井ではシーリングファンが回る。落ち着いた雰囲気に心が安らぐ。当たりっぽいペンション。
何より、どこからか食欲をそそる匂いが漂ってくる。お腹が今にも鳴りそ──
はい、鳴った。
「お待ちしてました。忍鳥摩季様ですね」
とオーナーっぽい人が奥から出てきた。髪に白い物が混じりつつも、健康的な肌ツヤをしている。年配男性が可愛いクマのエプロンをしているミスマッチが微笑ましい。
私がフロントで記帳を済ませると、オーナーはうなずく。
「ありがとうございます。ささ、ディナーの用意ができてますよ。客室は全室二階ですから、お荷物と上着は妻にお部屋まで運ばせます。そのまま食堂へどうぞ」
「助かります。もうお腹ぺこぺこで」
「ふふ、すぐお持ちしますね。お好きな席についてお待ちください」
荷物とダウンコートをフロントに置いて食堂に入ると、宿泊客がもう待っている。窓辺の雪を見ながら話している大学生くらいのカップルと二十代後半くらいの女性客。
誰にともなく会釈をして、私たちは空いている席に座る。
各テーブルはそれほど大きくはないけれど、グラスの中に入れられた蝋燭の炎が揺れ、雰囲気を出している。向かいに座った先生のスーツは、こういう場だと様になる。
プロポーズのムード。付き合っているわけじゃないけど。
先生の容姿は、まるでドラマから抜け出してきた俳優。顔が整っていて、背もすらりと高い先生の一番の魅力は、声だと思っている。尖った喉仏が上下して出てくるのは、澄んだ重低音。ただ物静かな人なので口数は少なく、他人と雑談したりもしない。
オーナーとアルバイトらしき若い男性が食堂に入って来て、配膳を始めた。
メインは二品で、てらてらとした脂が滴る仔羊のロース肉を焼いたメキシコ料理と、エビやイカのシーフードが盛られたパスタ。赤と白の色鮮やかな見た目から楽しめ、塩とコショウとスパイスで焼かれたお肉の匂いを嗅ぐと、もう食欲は抑えられなくなる。
食前に写真を撮る人もいるけれど、私は我慢できないので撮らない派。
両手を合わせて、いただきます、をして付け合わせのフライドポテトで口の中を整えてから、フォークで刺したラム肉を口に運んだ。思わず、ん~、という声が漏れ、私はテーブルの下で足をバタバタさせた。口内でとろける旨みに涙が出る。これは三つ星。
私はにんまりとして、ほっぺたを押さえる。
シーフードパスタもラム肉と対照的に爽やかな味わいで、その美味しさもさることながらバランス感覚に舌を巻くディナー。カップルの方からもひっきりなしに吐息や賞賛の声が聞こえてくる。こんな料理が出るなら俄然、明日のモーニングも楽しみになる。
幸せな時間が終わると、私は張りが出たお腹を撫でる。それを見た先生が、
「ペンギンのような腹だな」
なんて言う。私はペンギンのようにかわいいらしい。
窓の外で勢いを増している吹雪を眺めながら、しばらく食後の余韻に浸っていると、アルバイトっぽい男性が食器を片付けにやってきた。目の周り以外が雪焼けしているところからしてスキーヤーだろう。厚い胸板と血管の浮いたゴツい手は女性人気が高そうだ。
失礼します、とトレイに食器を載せながら、彼は続ける。
「雪、強くなってきたっすねぇ」
「ですね。温泉って今から行けます?」
「東北雪見温泉郷すか? さっき連絡あったんすけど、今日は閉めるらしいす。あっちに座ってるカップルも予約してたみたいで、キャンセルされてしょげてました」
「そんなに吹雪くんですか」
私がスマホで天気を調べていると、バイトの男性に言われる。
「近年ない大雪になるって。そだ、温泉代わりに夜、あっちのカップルと食堂で飲もうって話してるんすけど、お姉さんも一緒にどうすか。あ、俺、田久保って言います」
……先生の前で何てことを聞くのか、ナンパ男・田久保。
私が丁重にお断りをすると、彼は肩をすくめて女性客の方に声をかけに行った。
ホールに出ると、壁にかかっている鳩時計がホッホ、ホッホと鳴る。午後八時。
フロント脇の階段を上った先には談話スペースがある。三人掛けのソファとフットスツールが並ぶ。そこの窓からは山間の絶景が見えそうだ、朝になって晴れていれば。
私と先生は入室前に、二階を見て回る。
客室が並ぶ廊下は談話スペースからT字形に延びている。一端には外階段に出られる非常口が、別の一端にはドアが開いたままの部屋があって、倉庫のようだった。
廊下を戻った私たちは、予約した部屋の鍵を開ける。
入り口左にユニットバス、右にワードローブ。奥に進むとベッドが二つ並んでいる六~七畳の部屋なので決して広くはないけれど、掃除が行き届いていて清潔感がある。
「ツインを取ったのか」
「シングル二部屋取るより安上がりですから」
先生は紳士なので、同室でも問題は起こらない。付き合いもかなり長いから、先生にとって私は年の離れた妹のようなものだと思う。あるいは、ペット?
「それにしても、すっごい吹雪……」
窓から見える景色はペンション裏の林と物置。お世辞にも絶景とは言えない。屋根に溜まっていた雪が滑り落ちた地面には、もう一メートルくらいも雪が積もっている。
「都内で見る雪はきらきらして綺麗ですけど、雪国で見る雪はちょっと怖いです」
「実際、雪による死傷者は毎年少なからず出るからな」
明日、親戚の結婚式に出られるかしら。
私はカーテンを閉めて、衣類の収納にかかる。長期滞在をして雪山を楽しむ宿泊客も割といるみたいで、ブラウンの木目調ワードローブは収納スペースが広い。その引き戸を開けて、ダウンコートやマフラー、結婚式用のドレスもハンガーにかけていく。
本来ならこの後、ふんふん鼻歌交じりに温泉に出張るつもりだった。仕方がない。だいぶランクは落ちるけれど、ユニットバスのシャワーで我慢するしかない。急に思い立った宿泊だから保湿剤などを持って来ていないけれど、フロントで借りられるかしら。
そんなことを考えながら入浴準備をしていると、ドアがノックされた。
「食後のお紅茶をお持ちしました。よろしければ、どうぞ」
ドアを開くと、トレイにポットといくつかのカップを載せたオーナーが立っている。別室の前には奥さんがいるので、どうやら夫婦で各客室を訪問しているらしい。
「フランスから取り寄せたアールグレイです。おいしいですよ」
多くの女子と同様、私も“おフランス”という言葉には弱い。
「ありがとうございます。いただきます」
うなずいたオーナーの後ろを、田久保さんが作り物のもみの木を抱えて階段の方に歩いて行く。電飾があって先端には金色の星の飾りがあるから、クリスマスツリーだ。
オーナーが横目で見て声をかける。
「田久保君、一人で大丈夫? 階段に気をつけて」
「余裕っす」
田久保さんが去ると、オーナーはトレイのカップにポットから紅茶をとぽとぽ注ぐ。照明を映して輝く液体にドライフラワーの矢車菊とひまわりの花びらをちりばめる。
「どうぞ。冷めないうちに、お飲みください」
湯気と爽やかな匂いの立ち上るカップを受け取って──
ガシャン。
何かが壊れたような、小さな不協和音が聞こえてきた。一瞬、私がカップを受け取り損ねたのかと思ったけれど、違う。カップと皿はしっかり手に持っている。
吹雪で折れた木の枝が飛んできて、窓でも割れたのだろうか。
私は音がした廊下の先を見る。
「二階の奥から聞こえましたね」
「そっちには倉庫と空き部屋しかないのですが。僕ちょっと見てきます」
「私も行きます」
対して先生が室内で、おいおい、と呆れ声を出した。どうして君が行くんだ、という意味だろうけれど、私は気になることは自分の足と目で確認するタイプだ。
オーナーを先頭に廊下を進む。
物音が聞こえてくるのは左手の7号室。オーナーがマスターキーで鍵を開けた。
「誰かいるんですか? ここは空き部屋ですよ?」
ドアを開けたオーナーが、あ、と声を出して室内に入っていった。
「田久保君! どうした!」
え、田久保さん?
私も部屋に入ると、壁際の観葉植物──いや、クリスマスツリーに埋もれるように田久保さんが伏している。彼はたった今、こことは逆の、階段の方に行ったのに。
田久保さんは頭を抑えながら、不思議そうに辺りを見回している。
小説
忍鳥摩季の紳士的な推理
あらすじ
忍鳥摩季は世の中で起きる超常現象を調査する専門家。一見、ちょっと頼りない彼女が、世の中で起きる超常現象を利用した殺人事件を解決していくのだが、なぜか謎解きになると摩季の態度は一変してしまう・・・・・・。彼女の背後にいる謎の「先生」とは!? 空間が突然、別の場所とつながる「ループ現象」、時が突然止まる「ストップ現象」、人を操り殺人をさせる少女、そして同じ時間を延々とくり返す「タイムリープ」。世にも奇妙な超常現象の世界を描く特殊設定ミステリー。
忍鳥摩季の紳士的な推理(1/8)
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