先生は倉庫の片隅に積まれたスペアのドライヤーを見ながらつぶやく。
「倉庫に暖房を入れ、ドライヤーでドアの氷を溶かし、出入りしていた者がいる」
その事実が指し示すことは、明らかだ。
「これは事故じゃなくて、事件、ってことですか」
「田久保は何者かに殺された可能性が高い。しかもこんな、体を一刀両断されるような殺され方は、ループじゃないとできない。つまり犯人は、田久保が境目を抜けたタイミングでたまたま体が分断された“不慮の事故死”に見せかけようとしているのだ」
ただ、大きな疑問があると私は思った。
「先生、ループの途切れが起こるタイミングは、ランダムなんですよね」
「ああ。おそらく」
「それなら犯人が、田久保さんにループを抜けさせたとしても、丁度そのタイミングで途切れが起きるとはかぎりません。ループを犯行に使うなんて無理じゃないですか」
初めに私がループを通ったときのように、人が通った瞬間に途切れが起こるなんて普通はあり得ない。ランダム性の高いループを利用するなんてできるのだろうか。
そんな私の疑問に先生はうなずいて応じる。
「何か方法があるのだろう。これはループを凶器にした犯行だ」
思案中の先生を倉庫に残して、私は談話スペースへ行く。
今では遥か遠い場所になった階下のフロントから、ホッホ、ホッホと鳩時計の音が聞こえてきた。腕時計を見ると午前九時丁度。時間の感覚が無くなっている。
談話スペースに集まった宿泊客たちに、オーナーが乾パンと缶詰を配っていった。昨日のディナー、ラム肉とシーフードパスタどころか、私が夜毎食べている栄養摂取用の手料理よりも味気ない。けれど、数に限りがある物はすべてもらっておきたいところ。
宿泊客たちの表情は暗く沈み、とても食べ物が喉を通る状況じゃない。私にしてもお腹はまったく空いていない。あまりのショックで、お腹の虫も鳴かな──
鳴った。お腹が鳴るのは、まだ頑張れる証。
「忍鳥様、お疲れ様です。さあ、どうぞ」
缶切りでパイナップルの缶詰を開けてくれたオーナーに、私は聞いてみた。
「オーナーは昨夜、部屋を出ましたか?」
「亡くなった田久保君を夜中に見なかったか、ということですか?」
「ええ、まあ」
と濁す。犯人は当然、今ペンションの二階にいる誰かなのだ。
「僕はずっと部屋で寝ていました。雪山でペンションなんてやってますけど、僕たちは寒いの苦手なんです。それでなくても……ループがある廊下には出たくないですし」
そこで咳払いをしたオーナーが、一同に声をかける。
「昨夜、田久保君を見た方、会った方はいませんか?」
皆の目がオーナーに向いて、カップルが応じた。
「昨夜って解散後? あたしとコウジはずっと部屋にいました」
「居心地が悪かったけどな」
「あんたが悪いんでしょ。くだらないことでぐちぐち、器がちっせーんだよ」
「てめぇ! ユミこそ一年も前のことほじくり返してんじゃねぇ!」
昨日から続く痴話喧嘩を、片瀬さんの挙手と言葉が遮る。
「わたしも部屋から出てません。サブスク見ながら寝てました」
私は念のため彼らの発言をメモしておいたけれど、まあ、皆、見てないと言うだろう。深夜、吹雪が入ってくる極寒の廊下に進んで出ていた者がいたら、どう考えても怪しい。ループによって分断された田久保さんの死への関与──殺人事件を当然疑う。
「そもそも、田久保君はどうして部屋から出たのでしょう……」
というオーナーの疑問に片瀬さんが応じる。
「ループが消えてるかを見に行ったんでしょ」
仮にループが消えているとしても、この吹雪でペンションからは出られない。わざわざ皆が寝静まっている時分に、極寒の廊下でそれを確認なんてする必要はない。
ただ、誰かから“ループが消えているかも”と呼び出されたら?
……従業員の立場だと確かめずにはいられない。
そこで食事を配り終えたオーナーが、とにかく、と皆に言う。
「ここはとても寒いですから、お食事はできれば客室の方でお取りください」
オーナー夫妻とコウジさんがすたすたと客室に戻っていき、談話スペースに残ったのは気の強そうな二人の女性客。痴話喧嘩中のユミさんはともかく、片瀬さんの方も強がってはいても一人でいるのは不安なのだろう。寄り集まりたい気持ちは、私もわかる。
私は窓辺に立つ。吹雪は一向に収まらず、窓に大小様々な雪つぶてを打ちつけている。雨戸を閉めるべきだけれど、透明な板があるから雨戸を引くことすらもできない。
と、眼下を進む一筋の光が目に入った。
「あれは──」
ホワイトアウトした景色の中を慎重に移動する、車のヘッドライト。人だ。
私は慌ててオーナーの客室へ駆けて、ドアをノックした。
「オーナー、来てください! 車! 誰かが来たみたいです!」
乾パンを手にした彼が飛び出してきた。
「山岳救助隊ですか!」
わかりません、と言おうとしたとき、カランコロン、と小気味良い音が鳴った。
入り口の二重ドアが開かれた音に合わせて、私たちは階段に急ぐ。
「オーナー、ループに気をつけて!」
階段途中にあるループの境目に触れないように、慎重に段を下りていった。もしも指一本でもループに入ってしまったら、7号室まで戻らなければならない。
「いやぁ、死ぬかと思った」
と入ってきたのは、無精ひげを生やした男性。一人。今まで車に乗っていたからか、防寒着じゃなく厚手のセーターを着ている。どう見ても山岳救助隊じゃなく、山男。
こっちに気づいていない彼はフロントでベルをチンと鳴らす。
「こんちはー、予約した伊勢崎ですよー。ホワイトアウトであやうく崖に突っ込むところでしたけど、命からがら辿り着きましたよー。誰か、いませんかー」
伊勢崎さん。昨日の電話の相手だ。
ループの境目ギリギリに立ったオーナーが、大きく手を振りながら呼びかける。
「こっちです、伊勢崎様! 二階です! 階段! 来てください!」
しかし彼は無視してフロントのベルを鳴らし続けている。
聞こえていない。声すらループを抜けられない。
背筋が薄ら寒くなる断絶の中、伊勢崎さんはカエルの歌のリズムに合わせてベルを鳴らしてから、誰かいないんですかー? と食堂を覗き、階段の方にやってくる。
「ちょっと誰かー。おいおい、せっかく来たのに勘弁してくれよー」
「伊勢崎様! ここです! 階段にいます!」
必死に声がけをするオーナーの言葉は届いていないだろうけれど、伊勢崎さんは頭を掻きながら階段を上り始めた。そして、こっちを見上げてぴたりと足を止めた。
固まったその表情がみるみる歪み、目が見開かれていく。
その顔からにじみ出ている感情は──
恐怖?
「い、伊勢崎、様?」
「うわああああああああああああっ」
突然、叫び声をあげた彼は、逃げるようにペンションから飛び出していった。まるで二階へ行くより、吹雪のホワイトアウトに呑まれる方がマシとでも言うように。
彼はいったい何を見たのか。彼には私たちがどう見えたのか。
「ま、待って、ください、伊勢崎様……」
オーナーが力なく伸ばした右手が消えた。ループの境目に入ったのだ。
まずい。もし今“途切れ”が起こったら、オーナーの手がすっぱりと切り落とされる。かと言ってループは不可逆なので、強引に手を抜き出すこともできない。
やむなく私が背中を押すと、彼は倒れながらループに突っ込んだ。
その、ループの境目に消えていったオーナーの体勢を見て、私は一つの確信を持った。田久保さんの遺体は、上半身と下半身に分断されていた。おそらく彼も、犯人に今のように後ろから突き飛ばされて、倒れ込むような体勢でループに入れられたのだろう。
幸いオーナーは上下にわかれることなく、無事ループを抜けられたけれど、どうして田久保さんはタイミング悪く途切れが起こってしまったのか。さっぱりわからない。
吹雪の中を単身行軍してきてくれた希望が去り、7号室から戻ったオーナーと、痴話喧嘩中のユミさんはとぼとぼ自分の客室に帰っていった。片瀬さんは談話スペースのスツールに腰かけてスマホの画面を眺めている。私は意気消沈しつつ先生が籠もる倉庫へ。
ノックをしてから入室すると、先生は遺体の傍に座っている。
「摩季、来たか。ここを見てごらん」
「ま、またですか。見なきゃだめなんですよね?」
「早く慣れなさい」
慣れられるわけがない。というか先生は平気なの? などと考えても仕方ないので横目で見ると、先生が指しているのは、遺体の手。灰色の手袋の指先が黒ずんでいる。
「汚れ……ううん、血、ですかね、これ」
「指の怪我かもしれない。摩季、遺体の手袋を外してみなさい」
「手袋を外すっ? 私ただのОLですよ、しかも転職活動中!」
「転職は関係ない」
「あります、心がくたくたなんです。ね、オーナーに頼みましょ!」
「甘えるな。何事も経験だ」
「そんな経験、必要じゃないと思いますけど……」
私は猫のように床に伏して、はわわわ、と声を出しながら遺体の手袋を引っ張って外した。やはり指先が血で赤黒く染まっている。爪が割れたり、剥がれたりしている。
「さて、田久保はこの傷をいつ負ったのかだ」
はっとした。田久保さんの体はループによって、瞬間的に分断されている。それならおそらく、彼は自分の体が二つになったことすら気づかずに息絶えたはず。
つまり、と私は言う。
「爪の怪我は人体分断が起こる前に負ったことになります」
田久保さんが犯人と争ったのなら、指先だけがこうなるのはおかしい。何かを引っ掻いた痕だろうか、などと考えていると、それで摩季、と先生が声をかけてきた。
「何かあったのか」
「あ、そう! そうなんです!」
この吹雪の中わざわざやってきた伊勢崎さんが、こっちを見ただけで一目散に逃げ出したということを伝えると、先生は腕組みをして、なるほど、とうなずく。